生き急ぎADHD
雑多に。
私はADHDで、行動よりは頭の中が常にせかせかしやすいタイプの方だから、外からはよくわからないが、自分の体感としては生き急いでる感がすごくある。
これは他のADHDの人にも共通なのかな?と思い書いてみる。
私の場合は、なにかアウトプットしなければ、なにか世の中のためになることをしなければ、という焦燥感がよくある。
もともと好奇心旺盛な性格。
本を読んだり動画を見て学ぶことは大好きで、小学校の頃から本の虫。毎日毎日本や新聞記事を読んで、ノートに感想文や自分の意見をを書き、学校の先生に褒めてもらう…そんなプチクエストを自主的に4年ほど続けていた。
しかし大人になってはそんな読書感想文を提出する機会なんてない。
インプットグセはそのままに、アウトプットできずにモヤモヤが貯まり、あーなにか残さなきゃ!と焦りが出る。
インプットだけしていても、自己満でおわり、世の中のためにはならないだろう!という思考がバッと湧いてきたり。
たとえ文章や視点が拙くとも、人と比べて影響力が弱くとも、なにかしらアウトプットすることで、何か残さなければ!と。生真面目な思考がよく出てくる。
たぶん私の脳みそは、何かアウトプットすることで、自分の生きた証を残したい、生存欲求が強いんだろうな、とニュートラルに捉えてもいる。
ADHDの男性と交際していたときもあるが、彼らも生き急いでいる感じが強かった。
彼らの方はより直接的で、「自分の子孫を残したい」「子供を産んでほしい」と言っては、同時に複数の女性と関係を持っていたから、まあ生存欲求が強いんだろう。
私の父もADHDなのだけど、家庭を2つ持って子供を合計4人育てている。少子高齢化対策にはばっちり。
他にも、彼らは全員、宗教や哲学にも興味を持っており「自分の考えや哲学を広めたい」「社会になにか影響を残したい」という人たちだった。自分で事業をしている人が多かった。
あくまで自分の体験からくる主観だけれど、ADHDの焦燥感はしょうがないというか、良くも悪くも本能的と捉えている。人間いつ死ぬかわからない。だから何か生きた証を残さなきゃ。そんなエネルギーが強い人達である。
大事なのは矢印である。
それを自責や深刻に考える方に活かすのか、何かしら外の方に活かし続けるのか。
私は、このエネルギーすべてが自責に向かっていた時期は、自分はどう生きたらいいのか?自分の何がダメなのか?終わりなき自分のあら探しのたびになりめちゃくちゃしんどかった。
病みまくってお金も時間も(病院やスピリチュアルに)大量に使った結果、「あー!悩むのって無駄だ!」とようやく20代真ん中にして吹っ切れたのだった。そんなに活力があるんならもう、なんか外に出力しといたほうがいい。
こんなどうしようもなく病んでいた過去の私に、一緒に付き合ってくれた家族、友人には本当に感謝している。
人生は自分ひとりで回っているわけではない。
最近読んだベストセラー本「君たちはどう生きるか」でも語られていたが、今目の前にあるスマホも、飲み物も、机も、椅子も、部屋の証明も、すべて誰かのアイディアから生まれ、誰かがバトンを渡し、作ったもの。
自分のアウトプットを自分で評価して行動に起こせない完璧主義はもう卒業だ。ただ何か発信していれば、外には新しい解釈が自由自在に生まれ、それだけで生きている意味はあるのだ。
なにか生きた証を残せ。
そんな気概で、私も今日を生きている。
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