よくできた触れる幻(序章)
はじめに
「やりたいことと、やらなきゃいけないことは違う」
この戒めのような毋の言葉の意味が、恥ずかしくもあの頃の僕にはよく分からなかった。
何を言っているのだろうこの人は、とさえ思っていた。
まだまだ発展途上の思考回路ではあったが、やりたいこととは即ち、やらなきゃいけないことだったし、その反対も、もちろんイコールでしっかりと結ばれ、同一以外の何物でもなかったこの二つが、まさか実は全く異なるものなのだというこの提唱は、月並みだがハンマーで殴られたような鈍い衝撃と共に、小学生の時分、給食時間中にどうしても食べることができずに放課後まで残され、晒し者になりながら、ただただ睨み合っていた嫌いな食べ物と、同じく大嫌いだったその担任のような脅迫感と義憤を僕に与えた。
しかしその数年後にこの現代社会の一住人として、その言葉の真意を一応は理解することになるのだが、それはあくまでも、それらが別のものでもあるのだ、という意味合いの理解ができただけで、その言葉が本当の意味で正しく、自分に戒め、生きていかなければなどとは、未だにこれっぽっちも思ってない。むしろ大人になってからは、
「やりたいことは即ち、やらなきゃいけないこと」が自らの座右の銘へと、華々しく昇格しているくらいだ。
今、当時の自分を振り返ると、
「あなたのやりたいことを、あなたのやりたいようにやるべきよ」
という、よく世俗に溢れている映画や、漫画などで度々目や耳にしていた、芳醇な言葉の類を、何の疑いもせず、その言葉が指し示す本当の意味や責任など微塵にも考えず、そのまま、ただどストレートに受け取っていた人間にとって、あの母の言葉はある種、現実世界からの洗礼だったのかもしれない。
そして思えばその頃からか、自分と、この世界との間に年々、少しずつズレのようなものが生じてきていることを実感し始めていたのは。
と、まぁこういったように、大体、小説の前書きや序章というと、分かりやすい前置き文句や、主人公の簡単な紹介や経緯を記すのがセオリーのようになっているが、正直言うと、というかここまで数十行書いておいてなんなのだが、僕はそんなものはどうだっていいと思っている、そしてそれは、これから記す本題である物語自体もおそらく同じ意見だろう、何故なら「僕」は主人公のようで主人公ではないのだから。
かと言って、
「この物語の主人公は読んでいるあなたです」
などという歯の浮くような薄ら寒い文句を垂れるつもりは毛頭ないので安心してほしい。
敢えて言えば、読み終わって頂けた後に僕が聞きたい、主人公は一体誰だったのか。
そしてどうしてそう思ったのかを。
よくポップソングなどの歌詞でも耳にする、
「人生の主人公は君自身だ」という言葉は非常に曖昧で不愉快だ。それを聴いている誰も彼もが主人公だとしたら逆説的に言うと結局、主人公なんて役職を背負わされているものは誰もいないとも言えてしまう。
そう、現実の世界に主人公なんて本当は存在しないのだ。ドライな人間だと思われるかもしれないが、僕らは、ただここに、たまたま個として存在し、いずれ消えていくだけ、それだけなのだ。
工場の片隅でガタゴト動いている巨大な機械の小さなネジや、腕時計の中の小さな小さな歯車と同じ。さらに言えば、あの大きな羽根のついた鉄の塊を飛ばしている電子基板の部品と同じ・・・と言うと少しロマンの領域に踏み込んでしまうか。
もうお気づきかとは思うが、ともかく、あのポップソングの歌詞の中に隠れている真意はきっと、主人公になったつもりで生きろ、ということなのだろう。
さらに畳み掛けるようで申し訳ないが、ここで一つ残念なお知らせをしておかなければならない。僕含め、今これを読んでいる方全員、百年後にはもうこの世界にいない、「個」としては終了している。
申し訳ないけども。
ただ、もし、何かの間違いで、輪廻転生というシステムが本当に存在するとしたら、今世お世話になっている方々、
来世も変わらぬお付き合いを。
そして今世残りの時間で関わり合えなかった方々も、来世ではどうぞよろしく。誰が主人公だったのかもその時に聴こうとしよう。
そういえば昔読んでいたある本の中に、
「この世の中のあらゆるもの、こと、即ち森羅万象を全て数値化できたとしたら、これから先、未来に起こる全てのことを予め見通すことが可能だろう」
と、あった。しかもその数値化は現時点ではまだたまたま出来ていないだけで、いずれは出来る、そしてもしそうなったら、私たちは何をどうこう言っても、結局は決められた道筋の上をただ歩いているだけになるのだ。といった趣旨のことも書いてあった。
イデア理論だったか?
心からそうならないことを祈る。
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