課題小説4 『幽霊と透明人間』

 想像する。私は父の腹部に刃物を突き立てる。ずぐ、と刃物が彼の中に侵入して、父はバケモノみたいな呻き声をあげる。私は素早く刃物を抜いて、もう一度腹部を刺す。そしてもう一度。吹き出す血の強烈な匂いが鼻腔にこびりつき、肺を満たす。もう一度、もう一度。父親が事切れても、私はやめない。もう一度、もう一度。

 ギシギシと軋むベッドの音が一際大きくなり、イチカは現実に引き戻された。彼女に突き刺されていた刃は抜かれ、男が倒れ込んできた。イチカは男を避けて上体を起こし、ベッドに腰掛ける。無理やり持ち上げられていた脚と、無理やり突き刺されていた穴が痛んだが、気にしている暇はなかった。すぐに立ち上がり、脱がされた制服と下着をかき集め、ミニテーブルに置かれた三万円を財布にしまい込み、自分の荷物はすべて持って逃げるようにシャワールームに入る。こうしてしまえば、シャワーを浴びている間に金を持ち逃げされる確率はグッと減るらしい。同業のフォロワーから聞いたアイディアだ。とは言え荷物を濡らすわけにはいかないから、バスタオルをかけ、シャワーカーテンの向こう側に置く。よくわからない甘ったるい匂いのするボディーソープで全身を洗う。熱いお湯ですべてを洗い流す。それでも、行為は無かったことにはならない。

 着てきた服に着替えてシャワールームを出ると、男はまだベッドに寝そべったままでスマホを見ていた。視線だけをちらとこちらに向けられる。

「ずいぶん信用されてないんだなあ、俺は」

独り言のように男は呟いた。

「別に、そういう客もいるってだけですけど」

「へえ、世知辛いねえ。いい大人だろうに」

イチカはそれに答えず、「失礼します」と残して部屋を出た。

 時刻は二十二時を回っていた。急がなければならない。制服はカバンの中だが、もし警察に声をかけられたら逃げようがない。補導だけは避けたかった。足早にスーパーの前を通り過ぎる。夜間は、二十四時間営業のこの店だけが煌々と明かりをつけている。それはさながら、真っ暗な商店街を見守る灯台のようだ。

 今でこそ非合法な身売りに手を出してはいるが、かつてはイチカもこの店のバイト店員だった。担任が若い女を連れて来店したのは不幸としか言いようがなかった。あるいは、彼にとってはラッキーだったのかもしれない。

 その日の放課後、イチカは担任に呼び出された。クラスメイトたちに「妖怪ネチネチ」というあだ名をつけられている彼は、その汚名に相応しく何度も同じ話をしながら執拗に私を詰った。

「片親で家が貧乏だからってなあ、校則破りを見過ごすわけにはいかねえんだよ。お母さんを支えようって気持ちは泣ける話だけどなあ、規則は規則なんだよ。わかるか、え?忙しいお母さんにも来てもらわなきゃならねえんだ」

コツ、コツ、コツ、コツ、と担任の革靴が床を叩く。生徒指導室は刑事ドラマで見るような取調室よりも手狭で、置かれている机も小さい。担任が少しでも身を乗り出せば、イチカは彼の加齢臭と整髪剤とコーヒーが混ざったような悪臭から逃げられない。

「ダンマリかよ、おい。聞いてるのか?お母さんがいないと喋れないか?」

イチカは首を振る。担任はわざとらしくため息をついて、イチカの鼻腔も肺も彼の臭いで支配されてしまう。

「困るだろ?そうだよなあ、じゃあどうすればいいかわかるか?え?」

「……バイト辞めます」

「そりゃあ当然だろうが。だから、親にチクられたくなきゃどうすればいいかわかるかって聞いてるんだよ」

イチカは答えなかった。担任はずいと顔を近づけ、臭いがさらに強くなる。彼の革靴がイチカのすねをつついた。声を潜めて担任は言う。

「ちょっと脱いで、ちょっと触らせてくれりゃあいい。それで見逃してやるよ。悪くない話だろ?それとも、お母さんを呼ぶか、え?」

彼の革靴が、すっとイチカのふくらはぎを撫でた。奥歯を噛む。遠くから、上靴のパタパタいう音と複数の話し声が近づいてきた。この時イチカは、生徒指導室を飛び出して彼女たちに助けを求めることもできたはずだった。だとしても、イチカに選択する権利は無かった。失望した父の顔が脳裏を過ぎる。触らせるだけなら、妹の目の前で犯されたことよりはずっとマシだった。声と足音はすぐに遠ざかっていく。イチカはうなずいてしまった。

 ぼろアパートの玄関ドアは、どんなに慎重に開いても、ギイ、と音が響いてしまう。近隣住民が起きないよう心の中で祈りながら、イチカはそっとドアを閉める。ガチャン。彼女は自ら檻の錠をおろす。電気が消えている。まだ二十二時半を過ぎたところだが、母親は今日早朝出勤だったようだから、おそらくもう寝ているんだろう。軋む床板を避けながら自分の布団があるスペースまで進む。こういう時、イチカはいつも考える。このまま台所から包丁を取ってきて、母と妹を殺してしまえばいいのかもしれない。二人を殺して、イチカも死ぬ。きっと自分だけ生き延びたってどうせ逃げ場なんか無い。死ぬ以外、イチカも母も妹も、もう楽になれる道は無いのだと。世間は不幸な家族としてニュースに取り上げてくれるかもしれない。でも万が一、父が出しゃばってきたら?あの男のことだから、きっとイチカや母をきちがいのように吹聴するに違いないとイチカは思った。だとしても、おそらく彼はインタビューは答えないだろう。父からすれば、母との結婚も私たちとの生活も、もうとっくに無かったことになっているはずだ。とっくに忘れて、どこかでいい父親ヅラでもしているんだ。そう思うと、今度は母が哀れでならなくなる。あんな男と結婚したばっかりに、こんな底辺のような生活を強いられているのだ。母だけではない、イチカも妹も。彼女たちを殺さない限り、イチカは自由になれないのだといつも思っていた。しかし、彼女には気力も体力も足りていなかった。彼女は常に疲れていた。睡眠だけが、唯一の逃げ場だった。すぐそばで寝ている二人を起こさないようにさっさと着替えて毛布をかぶる。いつもそうやって、イチカは夜を生き延びていた。毛布を頬にあてた時の感触は、何よりもイチカを安心させた。毛布は、まだ父親が家を出ていく前の、かつて一軒家に住んでいた頃からずっと彼女の癒しであり、逃げ場だった。このやさしい感触に包まれたまま永遠に眠ってしまえたら、どんなにいいだろうといつも思っていた。ヒステリックな母親の声に叩き起こされることも、幼い妹に泣きつかれることもなく。

 妹が泣いている声で目が覚めた。母が料理をしながら妹をなだめている。卵を焼いている匂いがする。毛布から手を伸ばしてスマホを確認する。まだ六時だった。

「今日は行くって、昨日約束したでしょう?」すばやく箸を動かしながら母が言う。

「でもいやなんだもん、またおなか痛いんだもん」妹はそばにあるランドセルを叩きながら泣きじゃくっている。もう数週間、これを繰り返している。

「どうして?まさか、いじめられてるの?」ガスコンロの火が消される。母にじっと見つめられ、妹は、しゃくりあげながら首を振る。

「会いたくないんだもん、みんなきらい、先生もみんなもきらいだもん」

母がため息をついた。ガスコンロが再び点火される。油と卵の甘い匂い。卵焼きだ。

「わかった、先生には電話しておくから、家で勉強してなさいね。いい?」

妹は黙ってうなずいた。イチカがそろそろと毛布から出ると、母の視線が彼女に向いた。

「お姉ちゃんは昨日何時に帰ってきたの?遊び歩いてたんじゃないでしょうね」

「バイトだった、ごめん」そう返せば、母の表情はパッと明るくなる。

「そう、夜道は気をつけなさいね。今はあんただけが頼りなんだから」

「うん」

「ママは姉ちゃんにばっかりやさしくする」

「里穂にも優しいでしょ」

「うるさい!姉ちゃんもきらい!」

「はいはい」

妹をなだめながら、卵焼きを皿に盛り付ける母の横顔を盗み見る。この数年で急にシワが増えてしまったが、それでも母は美しい顔立ちをしている。「おまえは母さんに似て美人だな」父の声がふと蘇って、イチカはぎゅっと目をつむった。

 クラスメイトたちのスカートは短い。規定通りのイチカと並ぶと数センチは違う。彼女らはヒーターの前で身を寄せ合いながら寒い寒いと文句を言っている。チャイムが鳴った。彼女らが席につくより先に、担当のおばさん教師が入ってくる。倫理の時間は、毎回十分弱の時間をとって授業とは別の雑談をする時間を設けている。内容は特段面白いわけではなかったが、公立の自称進学校で彼女のようなゆるい教師は珍しく、彼女は他の生徒たちからも好かれていた。高校生のノートや問題集にいちいち花丸を描いたり、シールを貼って寄越したりするからだ。今日も教科書をめくりながら、彼女は今日の雑談を始めた。

「みなさんニュース見てますか?来年受験生なんだから、ちゃんとチェックする癖つけておいたほうがいいですよ。最近のニュース、何か知ってる?」

サツジン!と誰かが言う。「お母さんと子ども死んじゃったやつ」

子どもみたいな物言いをするクラスメイトに、先生は眉尻を下げて微笑んだ。

「そうね、あった。気の毒にね……。でも受験の面接では、殺人事件はあんまりネタにならないかなあ」

「政治の話でしょ」と違う誰かが言う。「自衛隊の中東派遣とか」

「そうそう、よく知ってるね」社会科教員の彼女は大きくうなずいた。

ネタにならない。イチカは心の中で彼女の言葉を繰り返した。良くも悪くも、彼女も立派な教師なのだ。

 イチカの「バイト」はいつもツイッターでやりとりをする。放課後、彼女は一件のダイレクトメールが届いていることに気がついた。初めて見るアカウントだった。

{突然ですみません。今日お願いできますか。}

{大丈夫ですよ。ゴム有ホ別で三万円になりますが}

{じゃあ五万円払います。現金の方がいいですよね?}

{現金でお願いします。オプション追加希望ですか?}

{じゃあ夕飯も一緒にどうですか?と言っても、ホテル近くのファミレスですけど}

数分以内に返信をくれるということは、普通のサラリーマンではないのか、今日は休みというだけなのか。夕飯だけでプラス二万も上乗せしてくれる客は初めてだった。何か裏があるかもしれない。非合法な稼ぎ方だからこそ、常に警戒は必要だ。相手のプロフィール欄とツイートを確認するが、特におかしな点は見受けられない。強いて言うなら、仕事をしているとは思えない頻度で旅先の写真をアップロードしているくらいだ。もしかしたら結構な資産家なのかもしれない。とにかく、会ってみないとわからない。ホテルの前に夕食を奢ってくれるという男に、時間と待ち合わせ場所を指定してひとまずアプリを閉じた。

「すみません、イチカさんですか」

もうすぐ着きます、というメッセージが来た数分後に、イチカは大学生くらいの青年に話しかけられた。まさか、この人が?わざわざ女子高生を買わずとも、街角で声をかければいくらでもホテルに連れ込めそうなくらいの外見をしている。

「そうですが、あなたは」

「僕です、リツです」

そう名乗って青年はイチカの向かいに座った。ウェイターが氷水を持ってくる。「ありがとう」と青年は礼を言って、その水を一口飲んだ。

「今日はよろしくお願いします。僕が払いますから、気にせずなんでも、好きなものを頼んでください」

ずいぶんにこやかな人だ、とイチカは思った。メニューをイチカの前に差し出し、自分ももうひとつのメニューを開いて次々ページをめくる。相当空腹なようだ。リツはチキンソテーとサラダを、イチカはトマトリゾットを注文した。

「どうしてエンコーなんか、って思ってる?」じっとイチカを見つめながらリツは言う。

「そりゃあ。だってイケメンじゃないですか」

「そんなことないよ、全然モテないし」

「嘘ばっかり」

サラダが運ばれてきた。「お先に」と言ってリツはフォークを手に取った。真っ先にエビを突き刺して口に運ぶ。

「それで、どうしてこんなことを?」

「別に、金と性欲を持て余してるだけだよ」

「お金持ちなんですねえ」

「うん、上級国民だよ」

嫌味っぽく返したイチカに、真面目な顔でリツは答える。まったく興味を示さない彼女に「本当だよ」とリツは繰り返す。トマトリゾットとチキンソテーが運ばれてきた。

リツはあっというまにサラダを食べ終えて、チキンソテーに取り掛かる。イチカもスプーンでトマトリゾットをかき混ぜる。温かい湯気が頬に触れ、心まで柔らかくなっていく気がした。

「俺さ、家族とめちゃくちゃ仲悪くて」

ドラマのベッドシーンのようにイチカに腕枕をしながら、リツは身の上を語り始めた。いつもなら行為が終わればさっさとシャワーを浴びて帰るのだが、今回ばかりは離れがたく、イチカは誘われるままリツに寄り添っていた。腕から頭に伝わる体温も、ゴツゴツした筋肉の感触も不快ではない。むしろ心地よく感じられた。

「世間体しか気にしてないんだ。そのくせ母親も父親も浮気ばっかりで、俺にはやたら厳しくて」

「それは、つらいね」

「金ばっかり渡してきて、会話なんてほとんど無い。ああでも、こんなことしてる君からすれば、金もらうだけでも十分だろって思うよな、ごめん」

「ん、まあ、羨ましい限りだけどね。でも、うちも親同士仲悪くて離婚してるから、その気持ちはわかるよ」

「ありがとう。俺たち案外似たもの同士かもね」

リツは何を思ったのか、突然イチカの背に腕を回して彼女を抱きしめた。イチカは驚きはしたものの、拒む気にはならなかった。リツの背に腕を回してそろそろと撫でると、彼の腕の力がより強くなった。

「ごめん、ちょっとだけこうさせて。お金追加してもいいから」

「そんな、十分だから、気にしないで」

「ありがとう、イチカちゃんは優しいね」

そうやって黙ったまま、二人はしばらく抱き合っていた。自分はずっと誰かにこうしてほしかったのかもしれない、温もりを求めていたのかもしれない。イチカはそう思った。

 それからというもの、二人は時間を見つけては逢瀬を重ねるようになった。ホテルに行くこともあれば、食事だけで解散することもあった。友達が少なく、まして異性と関わることなど滅多に無かったイチカにとって、彼との時間はとても新鮮で、とても楽しいものだった。このままリツが彼氏になってくれればいいと、そう思いさえしたが、リツはイチカと寝た日は必ず数万円を手渡した。イチカが断っても、リツは頑として譲らなかった。イチカはそれが悲しかった。所詮は身体を買われているだけなのだと、今までは考えたこともないような思考に陥った。そんな関係が続いて三ヶ月ほど経った頃、イチカはリツに思いの丈を伝えようと心に決めた。

 いつものファミレスでリツを待ちながら、イチカはスマホを見ていた。最近、前にも増して殺人事件のニュースが増えた気がする。しかも、数日前の事件に至ってはイチカが住む市街からそう遠くない街で起きていた。連続強盗殺人とか、シリアルキラーとか、様々な憶測が流れていたけれど、どれも核心に迫るような情報までは得られていないようだった。

「おまたせ、ごめんね遅くなって」

『シリアルキラーの特徴7選!』というネット記事を読んでいたところでリツがやってきた。走ってきたのか、後ろ髪が跳ねている。

「ごめんごめん、一眠りしようと思ったら寝坊しちゃって」

「お疲れですか?」

「まあ、ただ夜更かししすぎて寝不足気味なだけだよ」

そう言われてみれば、リツの目の下にうっすらクマができているようにも見える。

「お疲れ様です」

「ありがと、てか敬語じゃなくていいって言ったのに」

「ああ、うん、ごめん」

いざ彼を目の前にすると、イチカはどうしても緊張してしまうようになっていた。そして、この後彼に抱かれるかもしれないと思うと、それだけでどうしようもないくらいに身体が疼いてしまうようにもなっていた。生まれて初めての感覚だった。

リツはいつもと同じようにチキンソテーとエビのサラダを、イチカはトマトリゾットを注文した。氷水を飲むリツの、こくんと上下する喉仏にすらイチカは見入ってしまう。ナイフとフォークを扱う華奢な指先も、ソースでつやつやしている薄い唇も、それを舐める舌も、すべてがイチカを誘惑しているように錯覚してしまうほどだ。触られたい、食べられたい、自分のすべてを奪われてしまいたい。頭も身体も沸騰しそうだった。しかし、そういう日に限ってリツはイチカを抱かなかった。すべて見透かした上で弄ばれているような気分だった。この日も、リツはイチカをホテルに誘いはしなかった。ファミレスを出た後で、二人はどこへ向かうでもなくふらふらと歩いて行った。ホテル街が遠ざかる。イチカは、とうとうリツの手を掴んだ。

「どうした?」リツが振り返る。

「今日は、行かないんですか」

消え入りそうな声でイチカは尋ねる。だが聞き取れなかったのか、リツは首をかしげた。

「だから、その、今日は行かないの?」

「ん?ああ、今日は現金の手持ちが少ないから」

「そんなのいい」イチカはリツの手をぎゅっと握る。リツの手は冷たく、イチカの体温がじんわりと伝わっていく。

「いやいや、ダメだよ。だって──」

「そういう関係だから?」リツの言葉を遮って、イチカは問い詰めるように言う。もはや何を言われても泣きそうだった。

「何かあったの?」

困惑したようにリツが尋ねる。まだ人通りは少ないホテル街の片隅。側から見れば彼女たちは、ちょっとしたことで口論になっただけの恋人同士にも見える。

「何もない、けど」

「……寂しい、とか?」

少し間を置いて、イチカはふるふると首を振る。

「寂しい、と言えば寂しいけど、でも、そうじゃなくて」

リツの手を握るイチカの手は汗ばみ、しっとりと柔らかくリツの手を包み込む。

「リツくんが、欲しいの」

イチカはリツを真っ直ぐに見つめる。心臓の音が外に漏れ聞こえそうなほど激しく脈打っているのを感じる。

「嬉しいこと言ってくれるね」

リツはそう言って、掴まれている方とは反対の手でイチカの手を撫でた。ひんやりとした彼の手がイチカの体温を奪う。

「本当にいいの?」

リツの問いかけに、イチカは強くうなずいた。

 ギシギシとベッドが軋み、ねっとりとした水音が耳を犯す。イチカの胎内はリツをしっかりと咥え込み、少しの快感も取り逃すまいと一心不乱にリツに絡みつく。リツは、イチカの嬌声を貪るように舌を絡め、彼女のふっくらした唇を噛む。リツの手は蛇のようにイチカの身体を這いまわり、やがて首筋にたどり着く。汗が滲んだイチカの細い喉を、リツの華奢な指が締めあげる。ヒュ、と呼吸を奪われたイチカが喘ぐ。

「俺さ」なおも腰を打ちつけながらリツは言う。

「こういうのが、好きなんだ」

片手でイチカの気道を塞ぎ、もう片方の手でイチカの手首を押さえつけ、リツはイチカに刃を突き立てる。ぐ、う、と、顔を真っ赤にしながらイチカは呻く。

「殺しちゃう、かも」

煽るように、からかうようにリツは言う。口角を歪ませ、呼吸を荒くしながら、リツはイチカを責め立てる。

「ころ、し、て」

「……!」

朦朧としながら、唾液で濡れた唇とわずかな空気だけでイチカは言った。潤んだ瞳がまっすぐにリツを射抜く。酸素を求めて口をパクパクさせながらも、心からそれを歓迎するようにイチカは目を細める。彼女に巻き付いたリツの指が緩む。反対にイチカはリツを強く締め上げ、膨れ上がったリツの欲望が彼女の中に吐き出された。

 リツの腕の中で、イチカは目を覚ました。サラサラのシーツとリツの体温にすっぽりとつつまれて心地がいい。

「ん、ああ!起きた、よかった。大丈夫?」

うとうとしていたのか、リツはイチカが目を覚ましたと気づくや否やハッとしてイチカの頬や首筋に触れた。

「ごめん、ホントごめん、怖がらせたよね、ごめんね」

何度も何度も謝りながら、リツはイチカの首筋を撫でる。そのあまりの必死ぶりに、イチカは笑いを堪えきれなくなる。

「どうして笑うの、本気で心配してるのに!」

「ごめん、でも、嬉しくなっちゃって」

「はあ?」

「だって、こんなに心配してくれてるんだもん。嬉しくもなるよ」

声を弾ませるイチカを見て、リツはため息をついた。

「そんなに、俺のこと好き?」

からかうようにリツが言う。しかし、彼の目は真剣にイチカを見つめていた。

「本気で好きじゃなかったら、あんなこと言わない」

「本気でも言っちゃダメだよ」

たしなめられて、イチカは拗ねたように背を向ける。

「本当に、そう思ったのに」

一瞬の静寂があった。

「……本当に、殺すかもしれないよ」

低い声でリツは言う。振り返らずとも、彼は本気でそう言っているのだとイチカにはわかった。

「俺がどんなやつか知ったら、イチカなんかきっと逃げ出しちゃうよ」

「逃げないよ」

「なんにも知らないくせに」

「知ってるかもしれないよ」

「何をだよ」

「連続殺人」

一瞬、刺すような静寂が訪れる。

「リツくんが犯人でも、私リツくんのこと好きだよ」

リツに背を向けたまま、イチカは問いかける。リツの視線が痛いほど突き刺さる。

「……」

「……」

二人とも黙っていた。何も言わず、ただお互いの呼吸と体温を感じていた。血が身体中を巡るように、時間も刻々と流れていった。

「最初に殺したのは、彼女だった」

ぽつり、ぽつりとリツは喋り始めた。

「本当に好きだったんだ。家族から居ないもの扱いされてる俺のことを本気で大切に想ってくれた。なのに俺は、彼女の首を絞めた。捨てられるのが怖かったんだ、イカれてるよな」

自嘲的にリツが笑う。イチカは何も言わない。

「父親に白状したよ、人を殺したって。そしたらアイツなんて言ったと思う?『金はやるから、この家には二度と帰ってくるな。俺の面子が潰れるから警察には行くな』って。ヤバイだろ?俺は逮捕されることもなければ、彼女のことが報道されることもなかった。アイツが圧力をかけたんだ。俺はとうとう本物の透明人間になっちゃったんだ。そうしたら、どうでもよくなった。捕まるまで殺し続けてやろうと思ったんだ」

「ダメだったの」イチカはリツに背を向けたまま呟いた。返答はなかった。

「何人殺そうが、俺が警察に追われることはなかった。不思議なもんだよな。たかだかでかいテレビ局のお偉いさんだってだけで、地方の警察まで押さえつけられるもんかね」そこまで言うと、リツはしばし黙った。ほんの数秒のことだった。

「イチカに声をかけたのはただの気まぐれだよ。自撮りがかわいいなって思って。実際会ったらマジで可愛くてびっくりしちゃったけど」

リツの指がイチカの髪を撫で、くるくると弄ぶ。

「でも、なんで犯人だと思ったの」

イチカは顔だけをリツの方に向けて、少し笑った。

「だって、ツイッターであんなにあからさまに『今日は〜にいます!』『昨日は〜に行きました!』とか載せてたら誰でも怪しいと思うよ」

「ああ、あれ」

今更思い出したようにリツは何度もうなずき、苦笑する。

「たしかにね。あんまり考えてなかったけど、やっぱり誰かに見つけてほしかったのかもなあ。いや、だとしても怪しむまではいかねえって。行った場所全部上げてたわけじゃないし」

「そうだね」相槌を打って、イチカはまたリツに背を向けた。そうしてしばらく押し黙っていた。

「私もね、時々思うの。家族を殺してしまえば、私は自由になれるんじゃないかって。でもダメ。母親と妹が死んだって、私はあの人の、あの人たちの娘で、あの子の姉なの。だから、私が自由になるには、私が死ななきゃダメなんだって」

イチカはゆっくりと後ろを振り返る。リツの目を真っ直ぐに見つめて、彼の頬に触れる。

「リツくんが首を絞めてくれたとき、この人なら本当に殺してくれると思ったの。私、本気で言ったんだよ」

イチカがにっこりと微笑む。リツは無表情でイチカを見つめ返す。

「だけど、やっぱりお母さんと里穂を置き去りにできない。里穂はまだ小学生だし、お母さんだけで必要なお金を稼いで家事も子育てもしなきゃいけないなんてつらすぎるし、可哀想だもん。そう思うの、そう思うのに、リツくんとも離れたくないの」

イチカはそう言って、再びリツの方へ手を伸ばした。リツは表情を変えないまま、彼女の手を握る。

「俺のこと、本当に好き?」リツはもう一度尋ねる。

「大好き。リツくんが私のものになったら、他には何にもいらない」

「本当に?」

「本当に本当」

イチカの手を握るリツの手に力が入る。彼女の意思を確かめるように、リツはじっとイチカの目を見つめる。イチカは目を逸らさなかった。イチカの手を握る力がさらに強まり、それからぱっと離れた。

「お母さんと妹さえいなければ、イチカは俺だけを見てくれる?」

「私が自由になったら、私はリツくんだけのものだよ」

じっと見つめ合う。しばらくそうした後で、リツが目を閉じて大きく息を吐いた。

「わかった。イチカを自由にしてあげる」

 その日、イチカが玄関を開けてまず感じたのは、凄まじい血の匂いだった。手探りで照明のスイッチを押す。点滅する蛍光灯。点滅する赤黒い血溜まりの中で、母がうつ伏せになって倒れていた。そばに果物ナイフが落ちている。息絶えてから時間が経っているようだった。靴を脱いで奥に向かう。廊下いっぱいに広がる血溜まりは端の方から乾き始めている。ダイニングキッチンの照明をつけた。右足を一歩前に出すと、何かにぶつかった。妹のランドセルだった。テーブルには自由帳と色鉛筆が散乱していて、ダイニングチェアが倒れていた。そしてその横に妹が倒れていた。血溜まりはなかった。しかし彼女がもう呼吸をしていないことだけは明白だった。細い首にゆるく巻かれた電気ケーブルと、痣のような赤い線が見えた。

 イチカは大きく息を吐いた。そして血の匂いで肺を満たし、それからまたゆっくりと吐き出した。生まれて初めて、肩の荷がすべて下ろされた気分だった。

 部屋の奥、イチカの少ない荷物がある場所に、リツが立っていた。

「おかえり」そこにいるのがさも当然のように、リツは声をかけた。返り血はついていなかった。イチカはカバンを落とすと、リツに駆け寄って勢いよく抱きついた。リツも嬉しそうに彼女を受けとめる。

 イチカは新たな首輪を手に入れたのだ。


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