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課題小説3 『恋と執着とリストカット』

 梨乃は自室に戻ってきた。手にカッターを握りしめて。彼女はベッドに座り込み、いつものように左腕を膝の上に乗せる。彼女の左腕には無数の傷痕があった。そのすべてがこのカッターでつけられたものだった。彼女にとって、このカッターだけが唯一寄り添ってくれる存在であった。近所の文房具屋で購入した、細身の黒いカッター。慎重に押し出せば、カチカチなることもなく静かに薄い刃が現れる。その冷たい刃を、古い傷と傷痕の間にあてがう。わずかに力を込めて、カッターを持つ右手をスライドさせる。封を切ったように裂けたピンク色の傷に、じわじわと赤い血が滲んでいく。梨乃はただじっと、傷口が血で満たされるのを見つめる。彼女の限界を少しだけ先延ばしにする、彼女にとってはとても重要な儀式だった。

 梨乃は教室にいる。彼女の周囲にはいくつもの島ができている。彼女以外の女子生徒たちはそれぞれに机を寄せあって座り、各々の昼食を食べ始めた。梨乃は机ごと彼女たちの島に囲まれている。彼女はカバンから菓子パンを取り出し、周囲に音を聞かれないよう、細心の注意を払って菓子パンの袋を開ける。周囲の女子生徒たちはそれぞれの友人たちの声しか聞こえていない。それでも彼女は静かに袋を開き、菓子パンを一口ずつちぎって食べる。甘ったるいチョコレート味を咀嚼する。早く時間が過ぎるよう祈りながら、彼女はその咀嚼音に耳をすませる。女子たちの声を遠ざけるために。彼女は自身の左手に意識を向ける。そこに傷が存在している限り、梨乃は耐えられる。そこに傷が存在している限り、彼女は耐えなければならない。

 梨乃は帰宅した。リビングでは妹がゲームをしている。母親はまだ帰宅していない。彼女は妹がソファに投げ出した制服のワイシャツとジャージと靴下を拾い集め、洗濯機に入れる。洗濯している間、ありあわせの肉と野菜でスープを作り、米を洗い、炊飯器のスイッチを入れる。それから洗濯物を干し、彼女は自室に向かう。やがて母親が帰宅し、妹と二人で夕食を摂る。そのあとで、彼女はひっそりとスープを食べる。そして空になった惣菜のパックを捨て、三人分の食器を洗う。父親はいない。いつからか、ずっと帰ってこない。家事をこなした後で、梨乃はシャワーを浴びる。お湯も、シャンプーの泡も、ボディーソープの泡も、左腕にチクチクとしみる。彼女には常に痛みが伴う。

 梨乃は校庭の隅にいる。向こうではクラスメイトたちがはしゃぎながらソフトテニスをしている。日光が照りつけている。梨乃は木陰に座り込み、ジャージの袖をたくしあげる。線状の傷たちと目が合う。傷たちは彼女を否定しない。

……ふと、顔を上げた。彼女の近く、木陰からの視線に気がつき、とっさに左腕を隠す。ある男子生徒がこちらを見ていた。梨乃は逃げるように背を向ける。男子生徒が近づいてくる気配がする。

「その傷、」男子生徒は言う。彼女は聞こえないふりをする。

「別にからかうわけじゃないし、言いふらしもしないよ。ただ、その、ちょっとだけ、見せてほしいなって」

梨乃は男子生徒を一瞥した。彼女ほどではないものの、彼もまた、寡黙な生徒だった。彼が女子生徒に話しかけているのを、彼女は見たことがなかった。理由を尋ねると、彼は一瞬、口をつぐんだ。

「……こう言うと、引かれちゃうかもしれないけど、俺、傷を見るのが好きなんだ。だからまあ、その、ちょっと気になったっていうか……。嫌ならいいよ。あと絶対誰にも言わないから、ホントに」

彼がここまで饒舌にしゃべるのを、彼女は初めて見た。手招きをして男子生徒を隣にしゃがませると、ジャージの左袖をまくって見せた。彼は一瞬目を輝かせ、彼女の傷を凝視した。だが梨乃は、彼が何か言う前にさっと袖を戻した。体育の時間が終わろうとしていた。テニスコートの方では、クラスメイトたちが道具の片付けを始めていた。

「ありがとう、なんか、秘密を共有してくれたみたいで嬉しいよ」そう言って、男子生徒は木陰から出ていった。彼女は木陰に立って、左腕に意識を向けた。彼もまた、彼女を否定しなかった。

 梨乃はその日、独りではなかった。彼と二人、机を向かい合わせにくっつけて昼食を摂った。周囲からの探るような視線が刺さった。視線が通り抜けるよりは断然マシだった。目の前の男子生徒は──高瀬は、不思議なほどによく喋った。あの体育の授業以来、彼は梨乃のことをある種の仲間として認識したようで、なにかと彼女に近づいてくるようになった。彼以外、彼女に近づく生徒はいなかった。しかし、彼らにとってそれは好都合だった。二人は秘密を共有していた。彼は教室の中で傷について触れることはしなかった。彼がその話をするのは、帰宅する道すがら、もしくはLINEで話している時だけだった。傷の話でなくとも、二人はどことなく気が合うようだった。高瀬は彼女の傷を見たがった。その度に彼女はほんの数秒だけ袖をまくって見せた。傷が減っていれば、彼はあからさまに不満そうな表情をして見せた。逆に傷が増えると、彼は喜んだ。だから彼女は腕を切った。切らざるを得なくなった。浅い傷でもひどく痛かった。心の痛みではなく、彼女の身体の痛みだった。

 梨乃は体育館にいる。隣には高瀬がいる。目の前には、それぞれ半袖になったり長袖をまくったりしている他のクラスメイトたちがバドミントンをしている。外は雨が降っていて、体育館は湿気がこもっている。

「ねえ、」高瀬が呼びかける。

「今日、ウチ来ない?」

「親は夜中まで帰ってこないよ。片親だから、働きづめ。いつもは俺もバイトしてるんだけど、今日は休みなんだ。だから、どうかなって」

高瀬の声が急に小さくなる。「その傷、もっとよく見せてほしいんだ」

梨乃は断れなかった。断りたくなかった。だから頷いた。でも、長居はできない。彼女がいなければ、家事をこなす人がいなくなってしまう。

「家事なんか気にしなくていいって、召使じゃないんだから。LINEしとけば大丈夫だって。そうだ、帰り、送ったついでに、俺も一緒に謝ろうか。それならお母さんもさすがに怒れないでしょ」

 梨乃は高瀬の家に連れられて来た。男の子の家に来たのは初めてだった。古いアパートで、玄関から入ってすぐダイニングキッチンがあって、部屋はひとつしかなかった。彼の母のものであろう女性物の服やバッグや化粧品が部屋のあちこちに山のように積みあげられていた。高瀬はその中の、テーブルのそばにあった山を壁に押しやると、梨乃をそこに座らせた。それから、来客用の冷たいお茶を出してくれた。しばらくは、たわいもない会話だけで時間が過ぎた。

「それでさ、傷、見てもいい?」

梨乃は左の袖をまくってみせた。無数の傷痕の上に、見せるために切った細い傷が数本並んでいる。

「最近は、あんまり切ってないんだね」

彼女は曖昧にごまかした。高瀬は納得できていなようだったが、それ以上は追及しなかった。

「……ねえ、嫌なら断ってくれてもいいんだけどさ……」視線を明後日の方向に向けながら高瀬が言う。「切ってるとこ、見たい」

断ろうとした。だが、甘えるような目で見つめられ、傷痕を撫でられたら、断りきれなかった。彼女のカバンにはカッターのほか、絆創膏も、ガーゼもテープもある。耐えられなかった時はいつでも切ってしまえるように用意していたものだが、思わぬところで出番が来てしまった。彼女はカッターの刃を三センチほど出して、左腕にあてがった。少し力を入れて押し付けるだけでも少し痛かった。でも、すぐ隣で高瀬がじっと見守っているので、やめることはできなかった。ぐっ、とカッターをスライドさせる。わずかに開いたピンク色の傷口に、じわじわと血が満ちていく。その様子を、高瀬は呼吸すら忘れて見入っていた。あふれた血が彼女の腕を伝っていく。それを、高瀬が指ですくって、あろうことか、その指を口に入れてしまった。そして指を口に含んだまま、口元を歪ませて笑った。梨乃は動けなかった。高瀬を見つめることしかできなかった。ふふ、と高瀬が笑った。呼吸が荒くなっている。あきらかに興奮していた。

「ありがとう。俺、女の子の傷とか血とかめちゃくちゃ好きなんだよね。なんていうか、めちゃくちゃエロいと思う。今もちょっと、ヤバイ。どうしよう」

高瀬は自分でも歯止めが効かないようだった。彼は彼のひどく膨張した股間に手をやった。もう片方の手で梨乃の左腕を掴んだ。掴んで、ただひたすら傷だけを食い入るように見つめていた。じっとしているほかなかった。彼の他に、彼女の左腕に触れる者はいなかった。

「ごめん、ほんとごめん。ここまでするつもりじゃなかったんだ。ほんとに。あー、クソ。どうしよう。気持ち悪いよね、ごめん」

否定はしなかった。でも、拒絶する気も無かった。彼の秘密を共有した気でいた。なおも謝り倒す高瀬をなだめて、腕に大きな絆創膏を貼った。十九時になろうとしていた。梨乃は母親にLINEを送った後、スマートフォンの電源を切っていた。彼女の母親は、彼女が学校の用事で帰宅が遅くなるときですらも家事を放棄したと彼女を叱りつける。まして今回は遊び歩いているのだから、今頃怒り狂っていることは間違いなかった。だからスマートフォンの電源は入れないままで、高瀬と二人でファストフード店に行き、一緒に夕食を摂った。

「また、見せてくれる?」ポテトをつまんでいた指を拭きながら高瀬が言った。梨乃を肯定してくれる彼の頼みを、断ることはなかった。

 梨乃は自宅の前にいる。隣には高瀬がいる。自宅の鍵は持っていない。彼女はインターホンを押した。ドアホンから母親の声がした。彼女が帰宅したと告げると、通話はすぐに切られた。ドアが開いて、母親が顔を覗かせる。高瀬の姿を見て、母親は目を見開いた。

「なに?アンタ、家のことほったらかしにして、彼氏と寝てたってワケ?」

「違いますよ、僕が付き合わせちゃったんです。梨乃さんは帰らなきゃって言ってたんですけど、僕が無理やり引き止めて、結局こんな時間に……。すみませんでした」

大げさに頭を下げる高瀬を見て、彼女の母親は外面を取り繕う余裕を取り戻したらしい。あらあら、と乾いた声で言い、引きつったように笑って見せた。

「そ、そうだったの。こんなブスとデートだなんて、随分変わってるわねえ。あなた、梨乃の同級生?」

「クラスメイトの高瀬です。ブスなんかじゃないですよ、梨乃さんもお母さんも美人だと思います」

高瀬は人懐こい笑顔で答える。母親は手をひらひらさせながら「やあねえ」とまんざらでもなさそうに返す。

「じゃあ、僕はこれで。梨乃、また明日ね」さも当然のように呼び捨てして、高瀬はさっと背中を向けた。

「梨乃なんかのためにわざわざありがとうね、気をつけて帰って」

高瀬に声をかけてから、母親は彼女を家に入れた。扉が閉まったと同時に、母親の笑顔も消える。吐き捨てるように母親は言う。

「避妊だけはしなさい。さすがのおばあちゃんだって、孫の堕胎費用までは出したくないだろうからね」

 梨乃は自室にいる。溜まっていた皿を洗って洗濯物を干してシャワーを浴びてきた。左腕の傷がひどく痛んで、痛むたびに高瀬のことが頭に浮かんだ。

 梨乃は高瀬の家にいる。「また」の機会は彼女が思っていた以上に早くやってきた。高瀬は前回と同じように服の山を隅に寄せ、梨乃を座らせると、コップになみなみとお茶を注いで出した。だが前回のように世間話はせず、彼はいきなり「見せて」と言った。すでに興奮しているようだった。彼女は何も言わずに袖をまくった。左手首のあたりに赤黒く細い傷が数本、真新しい傷は無かった。高瀬は舐めるように傷を眺めた後、恐る恐るかさぶたに触れ、それから白くでこぼこの傷痕を指でなぞった。高瀬の呼吸は次第に荒くなっていった。

「ねえ、切ってるとこも見せてくれる?」甘えるような声で言われると、彼女は断ることができなかった。カバンからカッターを取り出して、カチカチ鳴らしながら刃を出した。高瀬の前に左腕を置いて、出血が多い腕の真ん中より上あたりを薄く切った。痛みはあまりなかった。赤い血が滲んで傷口を満たすまで、高瀬は微動だにせずに傷を見つめていた。しかし血が流れて腕を伝っていったその瞬間、彼は彼女の腕を掴み、流れた血を舐めた。形容しがたい感触に、彼女は身体を硬直させた。彼の舌はなおも流れる血の筋をゆっくりとたどって、傷に触れる直前で離れた。それから高瀬は数秒間口を閉じていた。舐めた血を味わっているらしかった。彼の荒い鼻息がひどく耳障りに聞こえた。

「ごめん、本当に気持ち悪いね、俺」客観視したような言い方だった。

「あのさ、もうひとつお願いがあるんだけど、いいかな」

そう言いつつも、高瀬はなかなか言い出さない。彼女は言葉の続きを予想し、下腹部が熱くなっているのを自覚した。

「あの、さ、俺にも、切らせてもらえない?切らなくてもいい、カッターで軽くなぞるだけでもいいから」

彼女の予想は大外れだった。しかし、彼女は切らせる代わりに前と同じようにして見せるよう条件を出した。高瀬はそれを受け入れ、彼女からカッターを受け取った。彼女の腕に軽くカッターを当てがい、すうっと肌をなぞった。もちろん血が出るほどではなかった。刃が皮膚にこすれてくすぐったかった。彼はその行為を何度か繰り返した。そしてついに彼女の腕に鋭い痛みが走った。見ると、ほんのわずかに表面が切れて、うっすらと血が滲んでいた。高瀬は焦ったようにカッターを置くと、そのままその手を自らの股間に押し付けた。

 梨乃はその日、高瀬とともに自室にいた。あれ以降も、高瀬は頻繁に彼女を自宅に呼んだ。自宅に呼べない場合は、彼女の家に来た。高瀬が来るといつも、彼女の妹はそそくさと自室に逃げていった。毎回高瀬はそれを見て、「嫌われてるのかな」と苦笑し、その度に彼女は、妹は母親以外誰にでもあの態度なのだと言ってやった。姉の彼女にでさえも、と。すると彼は決まって、ますます苦い顔をして黙り込んだ。それから高瀬は四畳半しかない彼女の部屋で、彼女のベッドに彼女とくっついて座り、彼女に腕を切らせ、血を舐め、彼女の腕をカッターでなぞって、彼女の傷を眺めたり、血を舐めたりしながら自慰行為をした。自分独りで腕を切ることはほとんどなくなった。彼女の腕は彼のために切った傷と、彼がうすく切った傷でいっぱいだった。それらは彼女が自分のために切った傷よりもひどく痛み、シャワーのお湯や泡がひどくしみた。それでも、彼女は嫌と言わなかった。高瀬と親しくなる前の自分を思うと、嫌とは言えなかった。身体の傷よりも、心の傷の方がずっと痛かった。でも、彼女の身体の痛みはすでに、彼女の心の痛みを上回っていた。

 梨乃は保健室に連れてこられた。正確には、保健室の奥の相談室に。彼女は幸か不幸か、養護教諭に腕の傷を見られてしまった。今日はその件についてのカウンセリングの日だった。高瀬を家に招く予定だったが、曖昧に理由をつけて断った。高瀬は怒りも落胆もせず、すんなりと受け入れた。

「初めまして。スクールカウンセラーの木下です。よろしくね」

カウンセラーは三十代か、二十代後半といっても違和感はないような若い女性だった。声も表情も淡々としているが、口調は柔らかく、愛想が悪いという感じではない。誠実な人柄がにじみ出ているような目をしていた。木下は淡々と自己紹介をして、それからあたりさわりない質問をいくつかした。梨乃は、会話が途切れて一瞬静かになったタイミングを見計らって、テーブルの上で左の袖をまくって見せた。木下はわずかに目を見開いて、おびただしい数の切り傷を見た。

「これは……自分で?」

梨乃は首を振った。木下が意外そうに頷いて、メモ用紙に何か記入した。

「誰かに切られたの?それとも、切るように言われた?」

どっちも、と彼女は答えた。木下がまたメモを取った。

「それは、誰に?」

梨乃は黙った。木下も黙っていた。ややあって、彼女は男の人とだけ答えた。木下がまたメモを取る。

「いつから?」

半年前。彼女は答える。考えてみれば、たった半年程度の関係なのだ。

「脅されて、誰か言えないのかな、それとも、好きだから?」

秘密だから、と彼女は言う。木下がメモを取る。

「どうしてこんなことを?」

彼女は息を荒くして傷や血を見つめていた高瀬のことを思い出す。切れば喜んでくれて、そばにいてくれたから。それだけだった。でも彼女にとっては、どちらも得難いものだった。

 梨乃は自宅のダイニングにいる。目の前には、妹が座っている。テーブルには、妊娠検査薬が置かれている。陽性反応を示している。妹の静かな泣き声だけが部屋に響いている。妹は泣きながら彼女に打ち明けた。──高瀬だった。彼は以前から妹に声をかけ、実際にデートしたこともあったらしかった。でも行為に及んだのは、1ヶ月ほど前、梨乃がカウンセリングを受けた日だった。

 梨乃が連絡すると、母親は狼狽し、車をとばして帰ってきた。高瀬に会って話をしなければならないというのに、梨乃は躊躇した。母親が彼女を怒鳴りつけ、平手打ちをして、スマートフォンを奪った。だが、電話をかけても繋がらず、LINEも既読すらつかなかった。数十分前に妹が送った妊娠検査薬の画像は、既読だった。

 梨乃は高瀬の住むアパートの前にいる。冷える手をポケットに突っ込み、カッターを指先で弄びながら待っている。しばらくそうしていたら、数十メートル先の街灯の下を歩く彼の姿を見つけた。彼が近づいてくるのを、物陰に隠れて待っていた。足音が近づく。

「ねえ、高瀬くん」梨乃は高瀬の行く先を塞ぐ。彼は驚くあまり、後ろに倒れ込んでしまった。その上に、梨乃は馬乗りになる。暴れて逃げ出そうとする彼の鼻先にカッターを出し、黙らせる。

「高瀬くん、どうして妹なんかに手を出しちゃったの?」

ごめん、本当にごめんなさい、と高瀬が絞り出すように言う。カチリ、とカッターの刃を出すと、なさけない悲鳴をあげた。

「謝ってほしいわけじゃないの。私、これでも、愛されてると思ってたんだ。だから、高瀬くんにも、してあげようと思って」

カチリ、とカッターの刃をさらに出す。カチリ、ともう一度すると、カッターの先の、斜めになった平たい部分が彼の鼻先にぶつかった。ごめんなさい、ごめんなさい、と蚊の鳴くような声で繰り返している。梨乃は高瀬の左腕を彼の口の上に置き、カッターの刃先をあてがった。抵抗する彼の股間に手をやって、ぎゅっと握ってやったら、彼はおとなしくなった。彼女はそのまま、薄いジャンパーの上からカッターを強く押し当てて、ゆっくりとスライドさせた。高瀬はこもった悲鳴をあげ、足をバタつかせ、右腕で梨乃を殴った。そうやって暴れるほど、傷は深くなったが、布の上から切っている分、致命傷にはなり得なかった。それでもジャンパーには赤い血がにじみ、広がり、じわじわと高瀬の顔にも広がっていった。満足いく程度に切った後で、梨乃は高瀬の顔についた血を舐めた。鉄の味が舌にしみついた。梨乃が離れると、高瀬はぐったりして、動かなかった。彼のスマホで119に発信して、梨乃はその場を離れた。

 梨乃は自室に戻ってきた。手にカッターを握りしめて。彼女はベッドに座り込み、いつものように左腕を膝の上に乗せる。彼女の左腕には無数の傷痕があった。そのすべてがこのカッターでつけられたものだった。彼女にとって、このカッターだけが唯一彼女に寄り添ってくれる存在であった。近所の文房具屋で購入した、細身の黒いカッター。慎重に押し出せば、カチカチなることもなく静かに薄い刃が現れる。赤黒く濡れたその刃を、手首にあてがう。ありったけの力を込めて、カッターを持つ右手をスライドさせる。封を切ったように裂けたピンク色の傷口から赤い血が溢れ、皮膚を伝っていく。彼女はただじっと、ばっくりと口を開けたその傷が血を吐くさまを見つめる。

 もう、痛みはなかった。


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