【光る君へ】紫式部はどんな生涯を送ったのか?
こんにちは!
よろづの言の葉を愛する古典Vtuber、よろづ萩葉です。
今回は今年の大河ドラマの主人公、紫式部の生涯をお話しします。
紫式部の出自
紫式部は平安時代中期の作家です。
正確には分かりませんが、970年頃に生まれたのではないかと言われています。
母親は幼い頃に他界。
姉もいましたが早くに亡くしています。
藤原惟規(のぶのり)という弟が1人います。(兄とする説もある)
父は藤原為時。漢学に秀でた学者です。
為時は家で惟規に漢詩を教えていましたが、
隣で聞いていた紫式部の方が先に覚えてしまったという逸話があります。
そんな娘に為時は「お前が男だったらよかったのに」と言ったそうです。
この時代、女性は漢文の勉強はしない方が良いとされていたんです。
紫式部の本名はわかっていません。
香子(かおるこ)、という説がありますが真偽は不明です。
紫式部の曽祖父は、藤原兼輔。
紀貫之や凡河内躬恒たちが邸に出入りするほどの優秀な歌人で、
百人一首には
という和歌が収録されています。
もう一つ有名な和歌で
というものがあり、紫式部はこの和歌を何度も源氏物語の中で引用しています。
父の官職
父の為時は学者としては優秀でしたが、世渡りが下手だったため長年官職を得ることができませんでした。
転機が訪れたのは984年。
それまで勉強を教えていた花山天皇が即位したとき、為時はようやく式部丞に任命されました。
ですがそのわずか2年後、花山天皇が時の権力者・藤原兼家、道兼親子に騙されて出家に追い込まれたことで、為時は再び職を失います。
宮中での出来事
紫式部と直接の関わりはありませんが、
今後の人生に影響するので、この時代の出来事を簡単にお話しします。
花山天皇の退位により次の帝となったのが、一条天皇。
そして一条天皇に入内したのが、兼家の長男である道隆の娘・中宮定子。
やがて病気で道隆と道兼が亡くなり、
道隆の息子で定子の兄・伊周と弟・隆家が事件を起こし失脚(左遷)、
定子も悲しみの中で出家してしまいます。
そして権力を得たのが、道長です。
父の赴任先、越前へ
996年、紫式部の父・為時は、この道長に漢文の才能を買われてようやく官職を得ることができました。
元々は淡路守に任じられていた為時でしたが、道長はすでに越前守に任じられていた源国盛に辞退させて為時を越前守にしたのです。
なんと国盛は悲しみのあまり病気になってそのまま亡くなったという逸話があります。
越前は大国で、報酬もよかったようです。
この頃、紫式部は20代半ば。
本来であれば結婚していてもおかしくない年ですが、紫式部は一緒に越前へついていったそうです。
紫式部の結婚
一年後に紫式部は1人で京都へ戻り、親子ほど歳の離れた藤原宣孝と結婚。
宣孝には正妻がいましたが、宣孝と紫式部は仲が良かったようです。
2人の間には娘・賢子が生まれます。
大弐三位という名前で
という和歌が百人一首に収録されている歌人です。
それなりに幸せな結婚生活を送っていましたが、結婚してわずか3年で宣孝は亡くなってしまいました。
その頃、宮中では
中宮定子が亡くなったのも、ちょうどこの頃でした。
少し前に娘の彰子を一条天皇に入内させていた道長の権力が、さらに大きなものになっていきます。
源氏物語の執筆開始
宣孝と死別した紫式部は深く悲しみます。
そんな紫式部の心を救ったのは、物語でした。
当時、物語は女性のための娯楽として広まっていました。
現在はほとんど残っていませんが、多くの物語が書かれていたようです。
和歌集や日記などと比べると世間的な地位が低く、後世に残そうとは考えられていなかったみたいです。
物語を読むのが好きだった紫式部は、ついに自分でも書いてみることにしました。
それが、源氏の物語。
初めは「帚木」「空蝉」「夕顔」の3巻を書いたと言われています。
源氏物語についてはこちらの記事でお話ししていますので、合わせてご覧ください。
紫式部が書いた物語は近所の女性たちに人気で、その評判はやがて宮中へと広がります。
その文才に目をつけたのが、時の権力者・道長と妻・源倫子。
道長の娘・彰子付きの女房として、紫式部をスカウトします。
紫式部の就職
本当は宮中で働くなんて全く乗り気ではない紫式部でしたが、
一人娘を育てていくためにも自分が働かなくてはならない、と自分に言い聞かせて女房になることを決意します。
そして12月末の出仕初日。
文才を買われて女房になったことはすでに彰子の後宮に知れ渡っていたらしく、同僚の女房たちから嫌味を言われた…のか、ただの被害妄想かはよく分かりませんが、
そのまま5月まで自宅に引きこもってしまいました。
でもいつまでも引きこもっているわけにもいかないので、紫式部はどうしたら同僚たちに受け入れてもらえるか考えた結果、
「漢字の一の字も書けないくらい勉強ができない」ふりをすることにしました。
源氏物語の作者であることはすでにバレてるので女房たちが騙されたかどうかは微妙なところですが、頭の良さをひけらかさない人柄に好感が持てたのか、紫式部は女房たちと打ち解けることに成功しました。
同じく彰子の女房であった小少将の君とは親友だったようです。
彰子の女房としては他に、元々倫子付きの女房だった赤染衛門や(※兼任)
恋多き女性だった和泉式部、
紫式部が自分の役を譲って和歌を詠ませたことで知られる後輩の伊勢大輔など、名だたる女性たちがいました。
ちなみにこの頃の紫式部は、藤原という苗字と父・為時のかつての役職から「藤式部」と呼ばれていました。
その後、源氏物語のヒロインの名前から「紫式部」と呼ばれるようになります。
一条天皇と彰子に才能を認められる
この頃、一条天皇が源氏物語を読む機会があり、紫式部のことを「日本書紀の知識がある」と褒めました。
それを聞いていた左衛門の内侍という女房から「日本紀の御局」というあだ名をつけられ、「紫式部は知識をひけらかしている」と嫌味を言われたようです。
ですがその一条天皇の言葉がきっかけで、彰子は紫式部に直接、漢詩の家庭教師になって欲しいと依頼します。
初めのうちは周りに隠してこっそり教えていましたが、やがて道長の耳にも入り、教材を与えるなど娘の勉強を応援するようになります。
彰子は漢詩の知識を通して一条天皇と仲良くなりたかったんですね。
紫式部日記の執筆
1008年、彰子が懐妊すると紫式部は、お産の記録係に任命されました。
これが「紫式部日記」です。
実際に執筆したのはもう少し後になってからのようです。
そして、9月になると彰子は敦成(あつひら)親王を出産。
親王が生まれて50日目の1008年11月1日、
五十日(いか)の祝いが行われました。
この日、藤原公任が紫式部に「若紫」と呼びかけたと紫式部日記に記されています。
若紫とは源氏物語のヒロインの名前です。
これが初めて文献で源氏物語のことに触れられた記事で、紫式部が源氏物語の作者である証拠でもあります。
紫式部の晩年
その後、1011年には父・為時は越後守に任命され、
一緒についていった弟・惟規が死去。
それから数年後に為時は出家します。
惟規と紫式部、子供2人が相次いで亡くなったためという説がありますが、
一方で道長が出家した1019年まで、紫式部は彰子に仕えていたのではないかという説もあり、資料がないため詳しいことはわかっていません。
晩年は出家して宇治に住んだとする説もあります。
宇治十帖は出家後に書かれたのではないかというものです。
紫式部集という歌集が晩年、本人の手によって編まれました。
ここには多くの親しかった人たちとの和歌が残されています。
ということで、紫式部の生涯を見ていきましたが、いかがでしたか?
源氏物語という作品は、波乱万丈な人生を歩んだ紫式部だからこそ書くことができたんだろうと僕は思います。
紫式部の和歌については別の記事で解説しますので、よろしければそちらもご覧いただけたら嬉しいです。
ご覧いただきありがとうございました🖌️
動画で解説
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