【百人一首】ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは
こんにちは、ばーちゃる古典オタクのよろづ萩葉です。
YouTubeにて古典の解説をする万葉ちゃんねるを運営している、古典オタクVTuberです。
今回お話しするのは、こちらの和歌です。
ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは
漫画でご存知の方も多いですね。
この和歌が詠まれた背景と作者、そして和歌の内容を順番にお話ししていきます!
背景
この和歌の詞書に、「二条の后の、御息所と申しける時に、御屏風に竜田川に紅葉流れたるかたを描けるを題にて詠める」とあります。
詞書というのは、和歌が詠まれた状況を簡単に説明したものです。
二条の后は、清和天皇に嫁いだ藤原高子(たかいこ)という女性です。
百人一首に収録されているこちらの和歌の作者・陽成天皇の母親です。
筑波嶺の峰より落つる男女川 恋ぞつもりて淵となりぬる
竜田川の紅葉の絵が描かれた屏風を前にして、この高子に「この絵を題材に和歌を詠め」と命じられて生まれたのが「ちはやぶる」の和歌です。
この時、作者の在原業平と共に「素性(そせい)法師」という人も同じ題材で和歌を詠んでいます。
もみぢ葉の流れてとまるみなとには紅深き浪や立つらむ
素性法師は下記の和歌が百人一首に収められている歌人です。
今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな
作者
「ちはやぶる」の作者は、在原業平。
在五中将と呼ばれていました。
とても優秀な歌人で、紀貫之が選んだ「六歌仙」の一人でもあります。
(込めたい気持ちが多すぎて言葉が足りない、と貫之に批評されています…)
業平の恋
業平は平安時代きっての色好みで、
伊勢物語の主人公、いわゆる「昔男」のモデルとされています。
伊勢物語には業平の様々な恋物語が描かれていますが、特に有名なのは「二条の后」、藤原高子との恋です。
伊勢物語第四段〜第六段、「月やあらぬ」「通ひ路の関守」「芥川」と呼ばれる章に出てくるのが高子です。
業平と高子は家族によって無理やり引き離され、高子は天皇に嫁いだのです。
嫁いだ後も高子は、宮中で働く業平のことを特別扱いしていたようです。
業平の家族構成
業平の父は「薬子の変」を起こした平城(へいぜい)上皇の息子、阿保(あぼ)親王です。
阿保親王は薬子の変の連帯責任として左遷され、平城上皇の死を受けて帰京しました。
業平は帰京してからの正妻との間の子ですが、
左遷先でできた子どもである在原行平は、業平のお兄さんにあたります。
行平は、こちらも百人一首に収録されている下記の和歌の作者です。
たち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今帰り来む
業平の和歌
業平の代表的な和歌といえば、これらでしょうか。
・名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと
・世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
・月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして
「名にし負はば」は、業平より後の時代に活躍した歌人・藤原公任が気に入っていたようです。
聞いたことある方も多いかもしれませんね。
「月やあらぬ」は伊勢物語にも収録されています。
百人一首の選者である藤原定家の父・藤原俊成は、この和歌を高く評価していたようです。
その中で、定家が敢えて「ちはやぶる」を選んだのは、何か理由があったのでしょうか。
定家は秋の和歌や恋の和歌が好きなようなので、優れているかどうかではなく純粋な好みで選んだのかもしれませんね。
小倉百人一首は定家の個人的な歌集と言われています。
文法と解釈
ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは
ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くぐるとは
「くくる」と「くぐる」の2通りの表記があります。
現代の解釈としては、「くくる」の方が正しいとされていますが、これを選んだ定家は「くぐる」だと考えていたようです。
「くくる」は「くくり染め」、絞り染めのことで、「竜田川が水を絞り染めにするとは」と訳します。
「くぐる」は「潜る」の意味で、「紅葉の下を水が潜るとは」となります。
「ちはやぶる」は「神」にかかる枕詞なので、訳す必要はありません。
「神代」は「不思議なことがあったという神話の時代」という意味ですが、「業平と高子が付き合っていた頃」の意味が込められているのでは?という考え方もできます。
伊勢物語にある「月やあらぬ〜」のエピソードから、業平は高子との恋をだいぶ引きずっていたように考えられます。
かつての恋人に命じられて詠んだ和歌…もしかしたら「ちはやぶる」は、2人の恋が背景にあって詠まれた歌かもしれません。
とても素敵な和歌ですね。
動画による解説
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