【古文解説】あこがれ(門出/東路の道の果て)〈更級日記〉内容解説|万葉授業
こんにちは、よろづ萩葉です。
YouTubeにて古典の解説をする万葉ちゃんねるを運営している、古典オタクVTuberです。
ここでは、更級日記の一節『あこがれ』の内容解説を記していきます。
教科書によっては「門出」「東路の道の果て」という表記のものもあります。
更級日記と菅原孝標女
更級日記は、「紫式部日記」と「蜻蛉日記」と並んで平安女流日記文学の代表作とされている。
作者は、菅原孝標女。学問の神とされる菅原道真の子孫である。
「日記」とあるが、リアルタイムで書かれた日記ではなく、
13歳から52歳頃までの約40年間のことを思い出しながら書かれた回想録。
菅原孝標女は、一言で言うと「物語オタク」。
中でも源氏物語のことは大好きで、物語のような人生に憧れている。
ここで解説するのは、そんな彼女が物語に惹かれていくまでのお話である。
原文
東路の道の果てよりも、なほ奥つ方に生ひ出でたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひ始めけることにか、世の中に物語といふもののあんなるを、いかで見ばやと思ひつつ、つれづれなる昼間、宵居などに、姉、継母などやうの人々の、その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど、ところどころ語るを聞くに、いとどゆかしさまされど、わが思ふままに、そらにいかでか覚え語らむ。いみじく心もとなきままに、等身に薬師仏を造りて、手洗ひなどして、人まにみそかに入りつつ、「京に疾く上げ給ひて、物語の多く候ふなる、ある限り見せ給へ」と、身を捨てて額をつき、祈り申すほどに、十三になる年、上らむとて、九月三日門出して、いまたちといふ所に移る。
年ごろ遊びなれつる所を、あらはにこほち散らして、たち騒ぎて、日の入りぎはの、いとすごく霧りわたりたるに、車に乗るとてうち見やりたれば、人まには参りつつ額をつきし薬師仏の立ち給へるを、見捨て奉る悲しくて、人知れずうち泣かれぬ。
語句
東路の道の果て
東海道の果ての常陸国、今の茨城県のこと。
紀智則による和歌を踏まえている。
なお奥つ方
もっと奥の方という意味。
ここでは上総の国、今の千葉県中部を指す。
薬師仏
薬師如来(薬師瑠璃光如来)のこと。
願いを叶え、病と苦しみを癒し救うとされている。
十三になる年
1020年、寛仁4年。
意訳
常陸国のもっと奥の方、上総国で育った人(=筆者・菅原孝標女のこと)は、
とても田舎者で見苦しかったことだろう。
どうしてそんなことを思い始めたのか、世の中には物語というものがあると知って、
どうにかして読みたい!と思っていた。
退屈な昼間や、夜更かししている時などに、姉や継母たちが色々な物語・源氏物語などについてあれこれ話すのを聞いて、
ますます読みたいという思いは強くなる。
でも筆者が望むようには、
姉や継母が何も見ずに全て思い出して話してくれるなんてことはない。
とてもじれったいので、自分と等身大の薬師仏を作って、手を洗い清めるなどして、誰もいない間にひそかに薬師仏がある部屋に入りながら、
「私を早く京都に行かせてください。物語がたくさんあるというのを、あるだけ私に見せてください」
と床に額をつけて、お祈りしていた。
そしてついに、13歳になる年に、上京することが決まった。
9月3日に門出して、いまたちというところに移る。
ここ数年遊び慣れた家の御簾や几帳などを取り払い、大騒ぎをし、
日が沈む頃のとてももの寂しく霧が一面に立ち込めているときのこと。
牛車に乗るときに家の方へ目を向けると、薬師仏が残されて立っているのが見える。
置いていってしまうのが悲しくて、人知れず涙が出てくるのだった。
解説
作者である菅原孝標女が、源氏物語を読みたいと強く願っていた時の話から、この日記は始まります。
今と違って、本の印刷技術もなかったこの時代に、読みたい本を手に入れるのはとても難しいことだったのです。
上総国は、彼女の父の任国でした。
父の仕事で田舎に住んでいた少女が、任期が終わったため京都へ戻ることになります。
京都へ行けば物語をたくさん読むことができる、と期待に胸を膨らませていた様子が、想像できますね。
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