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検索に探検心を取り戻す

もうほとんど死語となってしまったが、かつて「ネットサーフィン」という言葉があった。
広大なネットの海に漂流しているコンテンツを、興味が赴くままに探索していく様をサーフィンになぞらえて、誰かがそう表現したのである。

もっともネットの海を探索していく行為は、個人的にはサーフィンというより潜水のようだと感じていた。
インターネットが普及し始めた当時、筆者は中学生だった。
夜な夜な親が寝静まった頃にPCの電源を付け、回線を接続し、広大なネットの海に旅立つことが日課となっていた。
ブラウザという窓越しに覗くインターネットの世界は、このまま普通に生活していたらきっと知る事が出来なかったであろう未知の情報であふれていて、どこまで行っても終わりの見えない深い海を、毎夜手探りで探検しているような気分だった。

知らない知識を得たい、知らない世界を覗き見たい。
こういった好奇心は誰しもが持ち合わせているし、それを満たすために未知の環境を探索していく行為は、得てして楽しい。
仮にこの気持ちを「探検心」と呼ぶとして、当時のネットサーフィンはそれを満たしてくれる行為だった。
コンテンツを探し、そのコンテンツから未知の情報を得て、その情報を元に新たなコンテンツを探していく体験。これは探検のそれと構造として同種なのではないかと感じる。
ブラウザの名称に「Internet Explorer (インターネットの探検者)」「Safari(狩猟遠征旅行)」「Netscape Navigator(インターネット景観の航海士)」など、「探検」と親和性の高い語句が使われがちなことも偶然ではないだろう。ネット黎明期は皆、ネットサーフィンに内包された探検性に魅せられていたわけだ。

そう考えたとき、当時まだディレクトリ型検索エンジンだった Yahoo! は、さながら港町としての役割を担っていたのだと感じる。
何はともあれまずは Yahoo! にアクセスし、気になるカテゴリを選択し、新たに提示されたサブカテゴリの中からさらに選択し…と、興味の赴くままにウェブサイトを探訪していくというのが検索エンジンの当時の使い方だった。
毎晩のように「これから冒険に出かけるぞ。」「さあ、今日はどの島を目指そうか。」とネットの海にダイブしていく。そんなネットユーザ達の探検に対して「始まりの街」としての機能を検索エンジンが提供していたのである。

さてそんな検索エンジンもロボット型に置き換わり、Google一強になって早20年あまり。いまの検索体験はいささかつまらなく感じる。

いわゆる「いかがでしたかブログ」や広告悪用によって検索結果の質自体が低下してしまい利便性が損なわれたから、という側面ももちろん大いにあるとは思う。
だが、別の視点として「検索=利便性を満たす道具」と定義しすぎてしまったことにも問題がある気がしている。
もはや、検索は探検心を満たす道具ではなく、効率よく情報にたどり着くための手段になってしまった。そのために、検索 = つまらないもの、になってしまったのではないかと感じる。

昨今、当時のネットサーフィンのような探検心を煽る体験はコンテンツ配信サービスやSNSに代替されてしまった。
TikTokは画面をスワイプするだけでどこかの誰かが紡いできたローカルなミームと出会わせてくれるし、Youtubeはあらゆる教養コンテンツをレコメンドしてくれる。
こうした、コンテンツを蓄え、それらを囲い込み、ユーザの興味にあわせて適切に提示してくれるサービスが、現代において我々の探検心を満たしてくれる存在になっている。

ただ、このような囲い込まれたサービスの中でコンテンツを享受するだけの探検は、いささかパンチに欠ける気もする。
例えばYoutubeに出てくる動画は、その構成やサムネイルの作りがどれも似たり寄ったりだと感じることはないだろうか。
サービスごとに空気感のようなものがあって、その空気感に合ったコンテンツが再生数が伸びやすいことから、そのサービス内のコンテンツの表現や内容はどうしても画一的になっていかざるを得ない。
よく言えばそれが各サービスの特色ともいえるし、逆に言えば1つのサービスだけでは似たようなコンテンツしか摂取できない状況にあるともいえる。
これは探検というより、パッケージツアーのようなものだ。

もっと、得体のしれない、咀嚼のしづらい、まだ知りえないコンテンツと出会うためには、自分のフィールドから飛び出し、まだ見ぬ未知の世界へ旅立つ必要がある。
そしてそういった体験の提供にはやはり、各種のサービスを横断してインターネット世界のすべてを見渡すための入り口である、検索という存在が必要不可欠なのではと感じる。

では、これからの検索体験はどのようになるべきなのだろうか。
それは利便性から脱却し、探検性を再度手に入れる、ということが必要なのではないかと乱暴に考えてみる。
つまり、欲しい情報が1発で見つかる、という便利な体験ではなく、欲しい情報を気の向くままにディグっていく、探検性のある体験を提供すべきなのではないか。

そもそもGoogleのトップページには検索フレーズを入力するテキストボックスしかない。つまり、ユーザが明確に「調べたい語句」がある場合にしか利用できない形になっている。
これでは「なんとなく何かを知りたい」というような、衝動的であいまいな行動を受容できない。

google.com トップページ

韓国でシェアが高い検索サービス「NAVER」はどうだろうか。
NAVERはいわゆるポータル型サービスで、トップページには検索欄の他に各種サービスへのリンクやトレンド情報などが並んでいる。これにより特定の検索ワードを思いついていない状態でも利用することが可能だ。

naver.com トップページ

また、検索結果の表示の仕方にも違いがある。
Googleはキーワードとの一致度が高そうな検索結果をなかば事務的に順に表示するだけなのに対し、NAVERは各種サービスごとにカテゴリ分けされて結果が表示される。
例えば、「이상한 생물(不思議な生き物)」と検索すると「NAVERブック」、「VIEW(ブログ記事)」、「知識IN(Yahoo!知恵袋のようなもの)」など、各種サービスで扱われているコンテンツも表示されるのだ。
通常の検索結果の他に「国立公園で保護された野生動物を観に行った」といったブログ記事や、「こんな生き物をみつけたんだけど、なんて種類ですか?」という質問コンテンツなどが表示され、画一的な検索に比べてより幅が広く興味をそそられる検索結果を提供してくれている。

NAVERには、自社であらゆるサービスを運営しているコンテンツプラットフォーマーという側面もあるため、意図的にユーザの回遊を促すよう設計しているのだと思われる。

naver.com 「이상한 생물(不思議な生き物)」の検索結果


奇しくも筆者がこの記事を書いているちょうど同じ日に、Google I/O 2023 が開催された。
Googleが開発したLLM(大規模言語モデル)である PaLM 2のお披露目と、それらが各種サービスに取り込まれより便利な機能が提供される、というようなことが発表されていた。

Googleはサービス提供開始から現在に至るまで、インターネット世界を便利に渡る方法を提供してきた。
だが、玉石混交のコンテンツがひしめき合い飽和している昨今、ただ利便性を追求していくだけではそこに楽しみを見出しづらい状況にあるのかもしれない。
検索が昔のように探検性を取り戻し、人々が検索を駆使して知的好奇心を満たそうとしはじめたとき、検索という体験が再度、エンタメに昇華されていくのではないかと思うのである。


この記事は、Dentsu Lab TokyoとBASSDRUMの共同プロジェクト「THE TECHNOLOGY REPORT」の活動の一環として書かれました。今回の特集は『検索』。編集チームがテーマに沿って書いたその他の記事は、こちらのマガジンから読むことができます。

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