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マグロでいて良い社会とそれを助ける機械

先日、突発的にスケジュールがあいたため、思い立ってマッサージに行くことにした。
久しぶりに受ける施術はさすがプロの技と思えるほど的確で、最初から最後まですべての指圧がピンポイントに気持ちいいツボを捉え、それでいて余計な会話を一切しないマッサージ師だったため、60分間ただただ無言で気持ちよさにどっぷりとつかることができた。

かたや普段の生活の中ではなかなかマッサージ店に赴く時間を捻出するのも難しく、体が痛くてどうしようもないときは夫婦でお互いをマッサージし合ってしのいでいる。
もちろん我々はマッサージのプロではないので完璧な施術からは程遠い有様ではある。ツボからちょっとずれてるなーと思ったり、なんならちょっと痛かったりすることすらある。
だからこそ逆に、私が揉まれる側になった際には「ああ、そこそこ!」とかいちいちオーバーリアクション気味に反応することにしている。
マッサージ店では恥ずかしくて声には出せないが、妻に対しては「そこがアタリです」というフィードバックや、「あなたのおかげでほぐされてますよ、ありがとう」といった敬意を伝えるつもりで意図的に声を出すわけだ。

少し下世話な例を出す。
世の中の相当数の女性は、セックスの際に演技をしたことがあるらしい。
こういった言説を聞くたび、男性である筆者としてはいったいどういった心境でそんなことをしているのかと想像しがたく感じていたのだが、上述のマッサージに対する反応では自分も同じことをしているのだなとふと気がついた。
相手への敬意表明とその場の雰囲気を盛り上げるために行っているということなのだろう。

我々は「気をつかう生き物」だ。自己と他者との関係性を重んじる、社会的な生き物だ。
相手が人格を有していると感じると「気づかいセンサ」が反応し、なんらかの気づかいをしてしまう。しかも反射的に、無意識的に、そうしてしまう。
相手が微笑めばこちらもつられて微笑んでしまうし、会釈をされれば返してしまう。
この「無意識に気をつかってしまう」という人間の特性は素晴らしいものではあるし、そして同時に悩ましい存在でもある。
社会システムを円滑にまわす潤滑剤として寄与をしていることに疑いの余地はないが、時に不要なストレスを生んでしまうタネともなる。

筆者は美容室が苦手でもう何年も行っていない。
気さくに話しかけられても会話をうまく続けることができずストレスに感じるし、逆に一切話しかけられなくても、こちらから気をつかって話しかけるべきではないかと悶々としてしまう。

先日、twitterのタイムラインに「店員さんに顔を覚えられたら、もうそのお店には行けなくなる」という投稿が流れてきて首を激しく縦に振った。

https://twitter.com/irk_hrk/status/1615999830912036865

筆者の勝手な解釈だが、店員さんに認知されるまで、そのお店はその人にとって「システム」だったのではないか。
コーヒーショップのことを、お金を支払ってコーヒー(や一服する空間)を入手するシステムとして認識していたのだ。
自身がそれをシステムと認識していれば、そこに「気づかいセンサ」は反応しない。機械的にお金を支払い機械的にコーヒーを受け取るだけだ。

ところが、店員さんに認知されてしまうと、そこは一気に「社会」になる。
対価を支払いコーヒーを受け取るという機械的な仕組みではなく、人と人とのコミュニケーションの場として脳に再認識されてしまうのだ。
そしてそうなると「気づかいセンサ」も反応してしまうようになる。
「いつもありがとうございます。」と話しかけられれば、微笑み返さねばならない。いや、反射的に微笑み返してしまう。そこに自分の意識は関係ない。無意識に社会性を発揮してしまうのだ。
一度「システム」を「社会」として再認識してしまうと、もう元に戻すことはできない。次回以降の訪問ではきっとその店員さんを見てそわそわしてしまう。微笑まざるを得なくなってしまう。そのストレスから逃れるため、訪問できなくなってしまうということなのだろう。

チェーンの飲食店で「ごちそうさま」と言うべきか言わないべきか、という議論がネット上では定期的に発生する。(*1)
これも飲食店を「システム」とみているか「社会」とみているかの違いなのだろう。
飲食店を「システム」と認知している人は、システムにお礼は不要と考えるし、反対に「社会」であると認知している人にとっては礼節を欠くべきでない相手となるわけだ。

このようなお店での気づかいも、セックスにおける演技も、根底にあるものは同種の性質だろう。
人は人と接する中で相手への敬意を自然と抱き、相手を不快にさせないよう、良い心地を味わってもらえるよう、礼節を持って接する。そして場合によっては自分の感覚を偽り、演技してまで相手を慮ってしまう。
本来、こうした「演技」を意図的に行っているのであれば問題はない。
問題は、意図せずあらゆる対象に「演技」を強いられることへのストレスだ。

感情労働」という言葉がある。
自己の感情を抑圧し、定められた感情表現で顧客に対応することを求められる労働を表した言葉だ。例えば接客業で、理不尽なクレームに対しても自己の感情を抑えて礼儀正しく振る舞わなければならないシチュエーションなどがそれにあたる。
感情労働は、肉体労働や頭脳労働と異なり、精神的な重圧やストレスに連続的に晒され続けなければならないという特徴があるとされる。
感情労働について語られる際、多くは接客側の視点で語られる。だがここまで例示したように、実は顧客側にとっても同様のストレスがかかっているのではないだろうか。人間の特性によって双方に不要な「演技」が強いられているのではないか、と感じるのである。

近代社会は機械の代替として人間の労働力を利用してきた側面がある。
素早く正確に疲れ知れずで働く理想的な機械が存在すると仮定して工場などのシステムを作り上げ、技術革新によりそういった機械が登場するまでの代替手段として人間の労働力を利用してきた。(*2)
つまり「システム」を作ろうとしてそこに「社会」を入れ込んでしまった構造になっているとも言える。
コーヒーを購入するという「システム」を利用したいのに、そこで機械の代わりに人間が働いているがために「社会」としての振る舞いが強要されるのである。
生産ラインの各工程や事務作業の多くが、昨今ではDXの名の元にロボットやITシステムによって本来あるべき形に代替されていっている。
そしてそんな中、感情労働に関しても同様の置き換えが起こりうる未来が見え始めてきている。

例えば ChatGPT は疲弊しない話し相手を提供し始めたし、ファミレスの配膳ロボットはホールスタッフを顧客のクレームから救い始めている。(*3)
そしてこの変化は顧客側をも「演技」から解放するだろう。ロボット相手に会釈する必要も微笑む必要も、「今日は暑いですね」なんて忖度した会話を切り出す必要もないのだから。

もちろん、世のすべてのサービスが「システム」として感情抜きで構成される必要があると説きたいわけではない。だが本来「システム」として振る舞うだけで十分であるはずのサービスに少しずつ感情のリソースを削られヘトヘトになるような状況も好ましいとは思えない。
感情のリソースを大切な人や大事な事柄に向けて分配するために、その他の事柄に多少不感症になるのも悪くないのではないかと思うのである。
機械の力を借りることで、人はもっと「マグロ化」してもいいのかもしれない。



*1:「チェーン店 ごちそうさま」で検索すると過去に発生したあらゆる議論をみることができるわけだが、なぜ人類はこの議論を定期的に繰り返すのだろうか。

*2:「機械の代替としてのポストヒューマン」という言説は日本版WIRED刊行休止記事の中で若林恵さんも語られていた。人間の労働を機械が奪うのではなく、人間がそもそも機械の代替品だったのだという逆説的な指摘である。

*3:すかいらーくグループの配膳ロボット導入に関する記事に書きこまれた一般の方からのコメントが非常に秀逸だった。すでに配膳ロボットはスタッフを感情労働から解放しているのである。下記に引用する。

ネコと働いてる側です。
今年4月に導入されてから 「まぁ助かる」くらいのものだったけど この間ネコに不調が出て1週間入院になった。 
その間は以前の人が運ぶスタイルに戻っていた。久しぶりにこのスタイルに戻ったら
信じられないくらいのストレスを感じた。
注文の品を運んでも テーブルに置くスペースを作らないお客・一言文句をつけるお客・完全無視のお客…もちろん、ありがとうと言って下さるお客さんも多くいたが…
ウェイター業務ってこんなにストレスを受けてたんだと 改めて考えさせられた。
ネコ導入でお客と接する機会が減ると 従業員のストレスは格段に減る。
ありがとう、ネコ。

https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2212/22/news064.html

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