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小友記|日記みたいなもの

日記っぽい何かです。

あとからオートエスノグラフィっぽい何かにするうえでの参考にしよっかな〜くらいの気持ちでいます。ほんまの日記と違ってネットに公開されてるものなので、書けることの範囲には制限がありますけど。

なんか急に書きたくなったこと、Twitterに載せるにはなんかちゃうかったり、どのアカウントで投稿するべきかよくわからんかったりしたら、こっちに書きます。あと、Twitterでした投稿に追記するようなこともここでします。



6月14日(金)

「文化人類学入門」という授業を受けていて、

「スーの愛想笑い」

という思考実験とジレンマを思いつきました。

ある国に、ひとりのジャーナリストがいます。仮にその名をスーとしましょう。

スーの国は小国で、建前上は近代的な思想に基づく憲法と現代的な社会をもっています。そこでは政治家たちはある特定の同じ地区に集住し、その地区で独自の風土を形成しています。仮にこの地区をサム地区とします。そしてしばしば当局は失敗をし、スーの国の民主主義は脅かされていました。

そこでスーは、文化人類学の考え方をとりいれて、サム地区の「風土」を研究することにしました。フィールドワークによってエスノグラフィーを作成しようと考えたスーは、知り合いのつてを使ってある政治家の事務所に転がりこみ、研究のことを承知のうえで秘書として雇ってもらいました。

ある日スーは、サム地区で開催される立食会に参加する機会を得ました。そこでさまざまな政治家と談笑をするなか、スーはある政治家からナンセンスなブラックジョークを披露されます。そのブラックジョークは、スーの国が建前としている近代的な思想では、とても肯定し得ないものでした。

スーは、愛想笑いをしました。
しかし同時に、全くの不可抗力として、スーはその政治家のことを内心見下してしまったのです。

スーが愛想笑いをしたのは、フィールドワークの鉄則として、現地の人々と良好な関係を築いている必要があり、そのためには愛想笑いのような態度をとる他ない、と、肌で確信したからでした。しかしこの時、スーの認識のなかでは、スーとその政治家との間には明らかな優劣があります。より近代的で啓蒙された存在であるスーと、無知蒙昧でナンセンスな政治家、という非対称な構造が、たちまちスーの意識のなかに立ち現れます。この場では、一見すると政治家のほうが権威的に上位にあり、スーが劣位にあるかのように見えますが、ある側面では、調査者であるスーのほうが、被調査者である政治家よりも有意なのです。

思考実験:これは、アリなんでしょうか?

そんな気持ちの悪い状況になってしまうくらいなら、いっそのこと「いいえ、そのジョークはナンセンスだと思います」と真っ向から否定し、決闘的な態度をとってしまったほうが、むしろスーと政治家との関係は対等になり、誠実かもしれません。しかしそんなことをすれば「良好な関係」は危ぶまれ、フィールドの人々から見たスーの「よそもの」感は強まってしまいます。

ジレンマ:愛想笑いをすれば非対称性が立ち現れます。しかし、否定的な態度をすれば「よそもの」になってしまいます。

「そのようなナンセンスは構造がもたらすものであって、構造の中に生きるいち個人である政治家の問題だというべきではない。だから、その政治家の尊厳は認めつつ、構造そのものを見下す、という場合わけをするべきだ」

という考え方もできるかもしれません。しかし、そんな場合わけは彼らからすれば知ったことではありません。「構造=文化=われわれ=私」です。それに「目の前の彼は構造に『言わされている』だけであって自らの意思と責任で『言っている』わけではない」などというとらえかたは、その彼の、自由と責任ある個としての尊厳をそもそも否定しているとも考え得ます。

スーはどうするべきだったのでしょう?

浅学なので答えが出せないです。

文化人類学に限らず、大学という守られた空間で学問をしているつもりになっていて、かつ、エリート主義じみたものにはなりたくないというふうに思っている学生は、これと似たような悩みを抱え続けながら研究らしい何かをすることになるんでしょうね。

「第三項として生きる」について

クソナルシズムの文章にいつの間にかなってないか? ってなって、それはちょっと自分の本心とは違うなという違和感が執筆過程でずーっとありました。公開する10時間くらい前に、ようやくその違和感の本質をなんとなくつかめたので、言語化して、ラストにぶち込んだ、という経緯があります。

思えば僕はずーっとこんなことばっかやってて、こんな文章ばっか書いてて、無意識のうちにオートエスノグラフィーの効果を理解して実践していたのかもしれないなと思います。多分これからもこういうことは続けます。この日記がそうだし。

僕はずっと「自分が自分らしく生きるための手段として小説を書いてる」というふうに自分の行いのことを言語化していて、けれども「どうしてそれが自分らしく生きることに繋がるのか?」とか「そもそも自分らしく生きるって何?」とか、そういうことを問われるとうまく答えられないみたいな状況で、5年くらいずっと気持ち悪かったんですよね。そのあたりを、ようやくある程度は納得できる形で言語化できたなあというところです。

最近、いろいろな方法論を勉強していると、「僕がこれまでの人生で実践してきたあれこれは、この研究手法の方法論で説明できるじゃないか」というふうな気づきが多いです。やっぱ社会学って「後追いの学問」で、人間が自然と実践していることにあとから説明をつけているだけですよね。もちろん、それがあってこそよりよい発展があるのだから、大事なんですけど。

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