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鼓動のために|小説

君はもういない

君はもういない

夜風が肌をなぞったはもういないはもういない夜祭に行きたいと言った君は花火になった照らしている夜空祭りが終わる君はもういない君はもういない君はもういない君はもいない君はもういない君はもういな君はもういない君はもういない君はもういないはもういないはもういないはもういないはもういないはもういないはもういない

僕が最後のひとりになったとき!!!

君は

君は……

君は。

……●●

君の●●

君の●●が鳴った

●●

……残り火と朝を待った。

●●

それは、

始まりだった。


鼓動のために

原作 鼓動/カンザキイオリ
筆 紀まどい


これは始まりなのだが、何を書けばいいだろうか。俺はいま、人生で初めて、私小説を書いてやろうという試みをしている。私小説。俺が実際に体験したことを、そのまま書き記すことで、まあ文章としてそこそこに面白いものにしてしまおうという浅はかな試みだ。

なんだかうまく書けないので、勢いで誤魔化すことにしよう! そう、俺は小説がヘタクソだァ!!!!! ヘタクソ! バカ! ゴミ! 訂正。ヘタクソ、だった。——もぉっと訂正。ヘタクソだったんだが、ここしばらく、ヘタクソじゃなくなったんだと自惚れていたんだな。しかし、やっぱり俺は小説がヘタクソなのだ。それを知ったのはつい、最近の話だ。

なぜなら俺、磯狩冬也には、別の名前がある。

俺は、巷を騒がせた気鋭の学生小説家「鼓動」でもあるのだ。

……正確には、「鼓動」、だった。

それはよくある青春小説のような始まりだった。

高校1年生の夏、俺は文芸同好会に入部した。

俺はどういうわけかちょっと堅苦しい文章が人より書けるという特性があって——要するに厨二病で、世の中のことをわかった気になって冷笑しながら高尚そうにつらつら書くということができた。それで当時俺は、将来小説家にでもなってやろうかねえ〜と漠然とした全能感にふらふらとながされていた。

その同好会は、しかし、俺が入った頃にはあまりきちんと機能していなかった。1年生は俺以外には、大して話したこともないクラスメイトの三崎小春ただひとりしかいない。そして、主力メンツであった(らしい)2年生はみな、優等生なので、大学受験に備えて塾に通い始めたりなんかして、とても小説を書く余裕なんかないという。ただ部室に通いつめ、たま〜にいる先輩ひとりふたりと、俺と、小春。その4人がそれぞれに、ただ押し黙って持ち込んだ小説を読んでいるだけ。先輩は自習とかしてたかな。

心地のいい空間だったけど、では、小説を書こう! 同人誌を作ろう! ……というような話にはならなかった。雑談といえば、進路の話、受験の話、成績の話……。はあ。ああっ! とアホづらかいてあくびをぎゅっとひとつ、目を開ける。するといつのまにか、部室棟の入り口にある植木は梅の花をつけていて、先輩は、

「受験に本格的に専念するから……」

と、あたかも花でも手向けるみたいな微笑みとともに、「部長」という笑えない重荷を俺に押し付けてきた。いや、笑うしかなかったんだけど。はは。

そして4月。そう、それは学園青春モノあるあるすぎだろワロタという感じの始まりだった。

「——夏休みまでに何か実績が出なかったら、まあー、文芸同好会は廃部かなあ」

交友関係の狭い俺でも、こいつの顔は知っていた。俺と同級生でありながら去年の6月から生徒会役員をやっている、さわやかイケメン陽キャの副会長くん。

「そんな、急に言われても困……りますよ」

すると、ふっ、とも、はん、ともつかない微笑をもらして「タメ口でいいって。同級生なんだから」と俺に変な顔をみせる。

そんなこと言われたって。こちらは新しく部長になった(押し付けられた)ばかりの陰キャ、いっぽうお前は権力者。そしてお前が握っているのは、この部活の生殺与奪の権だぞ? こちらとしては、はなはだ「怖がるに値する正当な理由がある」と主張させていただきたいね、まったく!

……と、いう目つきだけをしてみた。

「……ま、新しく部長になったばかりで、いろいろと分からないことが多くて困るよね」

伝わってる? 伝わってない? どっち?

「この高校の部活動はちょっと特殊で、活動のための部品も、ここ、部室棟の維持管理費も、ほとんど『生徒会費』から出てる。つまり我が校の生徒みんなから集めたお金だ。だから、うちで活動してる部活動さんには、お金を払った生徒みんなが納得できる、充実した、いい感じの活動をしてもらわないと困る」

ほら、と、副会長は窓の外を顎で指した。ちょうどよく散りかけの桜の花が部室棟の窓にはかかっていて、その先にはグラウンドが見通せた。

「あそこでデカい声で取っ組み合ってるラグビー部は県大会決勝までいってる。この学校の生徒みんなのエースだ。——いっぽう、この文芸同好会は、最近、特に実績を出してない。だから、この学期のうちに、何でもいいから実績を出して、ちゃんと活動してるっていう証明をしてもらわなきゃ——」

「もらわなきゃ?」

「廃部」

「そんなあ……」

副会長の目をみた。怖かった。しかし、どういうわけか、冷たい目ではなかった。なんというか、何かを品定めしている目のようだった。

すると、一転、とたんに目から怖さがなくなって、

「君、お名前なんだっけ?」

「? ……磯狩」

「違う。下の名前だよ」

「え、あ、冬也。トウヤって言……います」

「ふーん。……ま上の名前も知らなかったんだけど」

なんだこいつ。

「ま、ほんとに何でもいいからさ。読書会してレポートを書くでも、小説を賞に出すでも、何かしらやってくれさえすれば、それを使ってぼくが会議のなかで君達のこと擁護できるから」

あ優しい。

「何か、何かをやってくれさえすればいい」

「ありがとう……ございます」

そう俺が頭を下げると「だぁからタメ口でいいって」とけだるげに部室を後にしようとし、ドアに手をかけると、息を吸い、

「でもまあそうだな。せめて学生向け文芸コンクールとかに応募して、入賞してくれれば、やりやすくなるかもな」

とだけ言い残した。

◯ ◯

「……ってことみたいでさ」

4月最初の定例会。部の方針を決めたりとかする作戦会議——部と言っても、2年生の先輩たちはひとり残らず受験組になっちゃったので、適当な位置に突っ立ってる俺と、窓からいちばん遠い席、大きなテーブルのいちばん端っこの、じめっとしたパイプ椅子で小さく縮こまっている小春の2人しか居ないのだが。

「……」

事情を話した。小春は黙ったままである。それはそうだ。俺なんか、今でも考えがまとまっていないんだから。

タイミング悪く、春らしくもない寒波が襲っていた。「……寒いなこの部屋」小春は黙ったままである。俺は暖房をつけた。——そっか、この暖房も生徒会費で運営されているのか。——追い出されてしまう恐怖が急にリアルみを帯びて、悪寒がはしる。ああ、よけいに寒くなった。

「ど……」

俺が話を切り出す。

「どう……しよっか」

書くの面倒だから省略!

結論!

5月初旬締め切りの高校生向け文芸コンクールに応募しよう!!!

ということになった。

窮鼠猫を噛む。歯が立つかどうかは関係なかった。

◯ ◯

小春のことがわからなかった。

小春は寡黙な奴だった。去年も毎度、部室にたむろする時には、ラノベだったり、ティーン女性向け漫画だったりを持ち込んで、誰とも話さず読んでいた。俺はそういう作品にあまり興味がなかったから、正直、小説を書く人間としてそこまで高く評価していなかった。だから、文芸同好会解散の危機に際しても、小春はあまり頓着しないんじゃないかと俺は危惧していたのである。俺は小説家になろうという漠然とした夢を部活動というシステムにもたれかけることで、将来設計という安心材料を守りたかった。それに対し、小春が文芸同好会にそこまで思い入れがあるイメージはなかった。

しかし、文芸同好会になくなってほしくないという小春の思いはどうやら硬かった。今や俺と小春の2人しかいないというのに。俺も小春も陰キャラで、新入生の勧誘なんてとてもままならないような状況なのにである。どうして? と、俺は戸惑った。だが俺が戸惑うと、小春も焦って、いや、いや、ぜったいに、文芸同好会は無くなっちゃだめ、と言った。俺は俺と小春の利害が一致していることに、あたかも梯子を外されたかのような困惑をしつつも、そ、それなら……と、コンクール作品の執筆を決めたのである。

  1. まず2人で別々のプロットを書く

  2. そのプロットを誰かに見てもらう

  3. 意見を聞いて、どのプロットをもとに作るかを考える

ということになった。

正直、俺は小春のことを見下していた。形上平等を期すために2人で書いて競争というふうにしたが、まあ、ふつうに俺のプロットが通って書くことになるかな、と、それで、あまり物語の核にはならない部分の執筆を小春にお願いしようかな、と、その程度に考えていた。

どうしてそんな思い違いをしていたのだろう。普段から見ていた小春の趣味があまりにも「女の子」然としていたからだろうか。そんな趣味が、どうにも俺には軽薄なもののように思えていたのかもしれない。そんなところで語られるお気持ち的な物語など、「わかってる」側の俺にかかれば簡単に「論破」できてしまう浅はかなものである、というような見下しがあったかもしれない。それはある種の男尊女卑かもしれないし、単なる俺の個人的な自惚れだったかもしれないし、気付かぬうちに拗らせていた俺の幼稚的な全能感の現われだったかもしれない。

どうしてそんな思い違いを。

4月中旬。俺と小春が1本づつプロットを完成させた。副会長さんを呼びつけて、読んでもらうことにした。副会長は部室のいちばん奥、ガタガタのパイプ椅子に、窓に背をもたれかけるように座って、葉桜を透過した春の陽に肩を焼きながら、俺たちの原稿を読んだ。きっとパソコンの画面もよく照らされていただろう。しかし俺たちからすればそれは逆光なので、俺には副会長の表情が暗くてよく見えなかった。固唾を飲んだ。

「……これ、どっちがどっちだっけ?」

「えと、一本目が俺で、二本目が小春……です」

すると「ああ、やっぱそうだよね」と画面から顔をあげて

「作者が賢そうだなと思ったのは一本目だけど、面白い作品になりそうだと思ったのは二本目だった」

とパソコンをとじ、ポケットに左手を突っ込んだ。

びっくりした。それってつまり……と俺がいうまでもなく「採用するべきなのは二本目のプロットかもね〜」と副会長はポケットからスマホを取り出し、いじり始めた。

なんだこいつ!?

「なんっていうかさ」副会長は続ける。「冬也くんのプロットには“人間”が居ないよね。冬也くんが書きたい物語のための駒っていうかさ。心が書かれてない。だから、なんっていうかなあ……物語の真ん中が空洞なんだよね」

いっぽう、と加えて、「小春のプロットは、複雑な物語ではないんだけど、登場人物がちゃんと人間だよね。人間の心が物語の真ん中にきちんと存在してる。だから、小説にしたらきっとこっちの方が面白い」

俺はまだ困惑していた。副会長の言葉が等速直線運動をして頭の中に入り、そのまま突き抜けていく。目にハッカを垂らしたように視界がスースーする感じがした。

「……いや、ぼくは文芸とかそういうの詳しくないからよくわかんないけど。あくまで読者の意見ね」

俺の表情をみて、副会長が少し心配そうに予防線をはる。

「あ、いや、その……ハハハ」

微妙な表情をするしかなかった。すると、副会長の表情は少しだけ固まり、視線がスマホの画面に落ちる。

「冬也くんはさ、きっと、小説を“書く”のを楽しんでるよね」と言った。そして「でも、そうして書いている目の前の小説を、自分が読んでる、っていう様子はあんまり想像してないんじゃない?」と結んだ。

少しも受け入れられなかった。それは、俺は今攻撃されている、という本能的な勘違いのせいで、心が臨戦体制になっていたからだった。つまり、副会長の言葉は俺に明確なダメージを与えうる脅威だった。

図星。

その事実を俺は受け入れられなかった。その後副会長が付け加えた「でもさ、文章は冬也くんの方が上手いね。やっぱり。読める文章を書くのは冬也くんだな。いい感じに凸と凹がはまってるよ君たち」というフォローもなんだか入ってこなかった。

「あ、あとさ」

副会長がスマホから顔をあげた、と思ったら、スマホの画面を俺たちに見せてくる。

「その文芸コンクール、団体での応募が不可能みたいだよ」

えっ!? と、俺たち3人は同じ画面に頭をつき合わせた。そこには俺たちが目をつけていたその辺の私立大学主催の文芸コンクールの要項が表示されていて、作品の条件の覧には「応募者個人で執筆したもの」とあった。

「まぁ、でも面白いねこの賞。ペンネームでの応募が可能で、本名を非公開にしてもらえるんだ。今どきだねえ〜」

そのまま副会長は椅子から立ち上がり、

「ま、そんなわけで、あとはおふたりでどうにかしてね」

と部屋を出た。窓のすりガラスからうっすら影が見えるのだが、向かった先はどうやら生徒会室のようだった。

◯ ◯

このさいバレなければどうということはない。俺たちは応募期限の5月初旬までに、小春の小説を書き上げることにした。

  1. 物語が面白いのは小春

  2. 文章が上手いのは冬也

不本意ながら、一旦その意見をもとにして、俺が小春のプロットを小説に書き起こそうということになった。

いいや、正直に書こう。俺の方がいい小説が書ける、と俺はこの期に及んで自惚れていた。打ち負かしてやろうとさえ思っていた。そうして小春に、ああ、やっぱり私より冬也くんの方が小説が上手いわ、と思わせることによって傷つけられた俺の名誉は回復されると考えていた。

しかし、書けない。

いいや、ある程度は書けた。いわゆる「見せ場」のようなシーンはなんとか書き上げることができた。漢文訓読調っぽくしてリズムをよくしたり、そういう文章を整える作業はやはり俺は得意だったから、まあ読めるシーンが書けた。だが、そうではない、どうでもいいシーンがどうにも上手く書けなかった。締め切りが1週間後に迫っていた。俺はなくなく、これだけしか書けなくて……と穴だらけの、とびとびの原稿を小春に渡した。小春は意外にも、それをまじまじと読んでくれた。「なんだよ」俺が聞くと、「……かっこいいね、この文。私はこれは書けない」と言ってくれた。

名誉回復とは違っていた。その肯定は、傷ついた名誉感情を癒してくれた。その一言でにわかに納得した俺は、その後の執筆を小春に任せた。

4月下旬。そろそろ桜は花が木に残っていなくて、黄緑色の枝葉が部室棟の窓をみずみずしく占拠していた。

翌日、小説は完成していた。

みなさんは、花が散ったあとの桜の葉っぱになんて見向きもしないだろう。俺もそうだった。葉桜は好きだけど、それはあくまで花のアクセント。美しいもの、それはやはり花で、それ以外はどうでもいいただの支柱。——そう思っていた。

俺が「どうでもいいパートだから書けない」と思っていたパートは、小春の手によって、最高に面白いパートに変貌していた。

それがどうしてなのかはわからなかった。まるでキャラクターたちの心臓が脈打つ速さがそのまま原稿に乗っかっているかのようで、決して止まることのない拍動と同じように、読む手が止まらなかった。

◯ ◯

「いや〜」

一学期の終業式が終わると、体育館の出口で俺の肩をたたくものがあった。副会長である。

「ああ、どうもっす」

「おめでとう。まさか最優秀賞をとるとはね」

俺の手には、高校からの追い討ちの賞状があった。

「……なんか、身に余るっていいますか。コンクールの主催の大学からも賞状もらってるのに、高校からももらうなんて。しかも終業式で全校生徒の前に引っ張り出されて。正直勘弁してほしいかも笑」

「今日はよく喋るね」

副会長は下駄箱からローファーを取りだし「大学からもらったのは、作品に対する賞状だろ? いっぽう、高校がくれたのは、部活動に対する賞状だよ」床に落とし、足をいれて「『この高校の部活動のなかで、あなたの部活がいちばん活躍しました』っていう証。ありがたく素直に喜べばいいのに笑」と歩き出した。慌てて俺もついていく。

「なんか……現実感が無いですね。こんなことになるとは思ってもいなかった」

「そうだねえ。ま、おかげでぼくも、生徒会の中で堂々と君たちを擁護できた」

建物を出るとセミの合唱がやかましくて、季節の風合いの致命的な変わり目を感じさせられた。あの桜の日が遠い別世界のように思われる。

「……もしかして、俺たちを表彰するように仕向けたのって——」

「そういえば、」わざとらしく副会長が遮る。

「この、ペンネームの『鼓動』ってのは、君ってことでいいの?」

● ●

小春の小説を読んだとき、その衝撃は、名誉の回復だとかそういう次元の話ではなかった。尊厳破壊ですらない。それは、敗北の受容だった。俺は、自分が小説がヘタクソなんだということに、その日、ようやく気がついた。

俺は、この作品は小春の名義で出すべきだと言った。もはやこれが俺の関わった作品だとはとうてい思えなかったためである。しかし、小春はそれを拒否した。小春ひとりの手では完成し得なかったし、まだところどころ文章に自信がないから推敲してもらう必要があるというのだ。確かにそうだった。そころどころ日本語が雑で、俺が最後の仕上げをする必要があるのは分かり切っていた。それでも俺は、この作品を俺の名義で出すのは烏滸がましすぎると思った。

ふと思いたって、要項を見返した。

  1. 個人名義でなければいけない

  2. ペンネームで構わない

  3. 本名は非公開にできる

俺は俺の名義で出したくない。小春も小春の名義で出したくない。しかし、文芸同好会という名義では出せない。ただし、名義の捏造はできる

俺たちは、文芸同好会に所属する架空の小説家をでっちあげた。

彼のペンネームは「鼓動」。

冬也のトウと、小春のを、とって、つなげて、コドウである。

俺たちの偶像が、胎動を始めた瞬間だった。

● ●

「なるほど……考えたなあ」

俺の説明に副会長が感心していると、後ろから小走りで追いついてきた影がひとつあった。

「おっ、天才小説家の鼓動先生じゃないですか〜」

副会長はそう、小春に挨拶した。

「……いや、鼓動は冬也くんのことだよ」

「謙遜しないでくれ」と俺。「あれはほとんど小春さんの小説だった。俺の小説じゃない」

すると「冬也くんが文章をかっこよく整えてくれなかったら賞なんか取れなかったって」と小春。

そこに、副会長の声が割って入った。

「ずいぶん喋るようになったじゃないか、小春」

先生ってつけなきゃかな? と続ける。ふふ、と小春は笑った。

「じゃあ、鼓動は、ふたりでひとりなんだな。君たちふたりが、鼓動先生なんだ」

そうかなあ、えへへ……と、このときは二人して、まんざらでもなさげに恥ずかしがるばかりだった。

この時までは。

● ●

それは、始まりだった。
夜祭に行きたいと君は言った。
その瞬間から何か匂った。
忍び寄る影はもう遅かった。

君は、花火になった。
今でも夜空を、照らしてるんだ。
心臓が脈打つ速さと同じように!

君は、朝を拒んだ。

あれから夜は明けない。
駄菓子を持って、はしゃぐ子供の声。
紛れ込んだ血の味と導火線。
ソーダの味が、今は邪魔くさい。

君の鼓動が鳴った。
次第に誰もが耳を抉った。
僕が最後の一人になった時、祭りが終わった。

● ●

夏休みに入ってからも俺たちは活動した。次の賞をみつけては、部室に通い詰め、原稿を書き上げた。小春がプロットを書き、俺が地の文の「とっかかり」をつけ、小春が一気に書き上げ、俺が仕上げる。その手順を踏襲して、次に書き上げた小説もなかなかよかった。8月中旬、応募した。二学期に入る。9月初旬。準優勝。また部室で2人でよろこんだ。

「よ! またも入賞、おめでとう! 購買でアイス買ってきたぜ」

訂正。副会長を含めて3人でよろこんだ。

「あ〜あとそれからね、」

スイカバーの個封をていねいに開けながら副会長は告げる。

「そろそろ部費予算の申請しなね。たぶん、いくらか多めに申請しても受理されるよ」

二学期。受理された予算のうち「雑費」ということにした5,000円が封筒で渡された。チョコレート、じゃがりこ、シュガーラスク、コンソメのポテチ、300円くらいのケーキを買えるだけ買って部室に持ち込んでむさぼった。食いきれなかった分は備蓄して、しばらくは、ちまちまとつまみながら次の原稿作業を進めた。今度は、まず小春がプロットを書いて、それに俺が地の文のあたりをつけている間にまた別のプロットを小春が書き、俺が原稿を小春に渡すと、小春はその新しいプロットを俺に渡して……というふうな交換作業で、2本の小説を同時に書いて、2つの賞に同時に応募してやった。クリスマスイブの2日前、片方の賞が先に発表された。「審査員特別賞」だった。

俺たちはまたもよろこび、そうだ、クリスマスケーキを買って部室でお祝いをしよう! ということになった。もちろん、副会長も呼んだ。……というか、俺たち陰キャは、買い物というものをご家庭のおつかい以外でやったことがないので、どちらかというと副会長に助けを求めた。副会長は快く承諾してくれた。クリスマスイブ、高校の最寄り駅で待ち合わせ、商店街の小さなケーキ屋さんに3人で入る。ショーケースを前にして、俺と小春の鼓動は高鳴った。こんなものを、子供である自分の判断で、自分の責任で、自分の勝手に買って、今日は食ってもいいのか! ああ……しっかり食え……と言わんばかりに、お会計のとき、すっと副会長が前に出て、財布を取り出す。え?

「おごるよ。楽しみな」

ふ、副会長〜〜〜〜〜!!!!!😭😭😭😭😭

その後、3人で部室に入り、ケーキを開けた。時刻は17:00。俺たちはケーキを貪りながら、残されたもうひとつの賞の結果をスマホで見た。

「副会長は見なくていいんですか?」

このとき、意気揚々と楽しんでいる俺たち2人を尻目に、副会長ひとりだけは、なにかもの思いな顔で窓の外を眺めていた。

「うん。いいよ」

すっかり葉が枯れ、枝のみになり、他の雑多な木と見分けがつかなくなった桜に雪が積もっていた。そんな平凡な冬の景色を背にして、副会長の立ち姿はなんだか特別だった。

このひとは、どうしてここまで良くしてくれるんだろう。

そんな今更な疑問がふと浮かぶ。

「早く見ようよ!」

小春にせかされ、俺はスマホをタップした。





ル。





ル。


固唾をのんだ。


——ヒューマンドラマ賞 優秀賞
——受賞者:鼓動(筆名)

どっと歓喜。その様子を、副会長は耳だけで聞いていた。

いてつくクリスマスの、暗い夕方である。

● ●

帰り道、副会長から、近くのコンビニに行かないかと誘われた。

小春もついてこようとしたが、

「男同士でしかできない話がある」

とかなんとか言って退けた。俺はこの期に及んでまだ男尊女卑を内在化しているきらいがあったので、のこのことついていった。

「なあ、冬也はどうして文芸同好会に入ったんだ?」

300円程度で適当に買ったコーヒーを片手に、副会長が聞いてくる。俺は焼き鳥を両手にもち、もぐもぐと応じた。特に警戒心とかは抱いていなかった。

「……俺は、小説家になりたい……と、思ってました」

「過去形。今はそうじゃないの?」

「いや……わかんないっす。今が楽しくて。もう」

「ふーん」

ずず、と副会長がコーヒーを啜る音が、なんだか様になっていた。

「……それが、“男同士でしかできない話”……ですか?」

「やーなんていうか。……そうか。君は、今が楽しいのか。でも、小説家になりたい、っていう漠然とした夢は別に捨てたわけじゃないんだ」

「まあ」副会長の言は質問の答えになっていなかったが、「そう……ですね」俺は反論できなかった。

「じゃ、君はこのまま一生、作家『鼓動』として生きていくのか?」

急に緊張感が走る。俺は答えに窮した。

「ぼくは詳しくないからわかんないけど、さ。小説家って、ただ文章を書くのが上手い人ってわけじゃないと思うんだよ。小説家っていうのは『名前』が資本なんじゃないのかな。いい文章を書き、ひとから読まれた、という実績が『名前』に投入される。すると、その『名前』にはまた書く機会が舞い込んでくる。それを繰り返していくうちに、『名前』という資本を中心とした、実績と執筆のぐるぐるがどんどん規模を増していく……。小説家って、そういう商売なんじゃないかな、ってぼくは思う」

「で、」唖然とする俺の、左胸のあたりを指差して、

「いま、きみの資本は『鼓動』だ。君、では無いんだよ」

一拍。副会長は、また、ずず、とコーヒーを飲んだ。

「今の君は『鼓動』という資本のためにはたらくひとりの労働者だ。君自身は資本をもっていない。だから、いつか君が『鼓動』から離れる日が来たら……。君は、ただちょっと文章が上手なだけの一般人。小説家には、もう戻れないかもしれない」

おぼろげながら、俺は次第に理解してきていた。これは「男同士でしかできない話」などではない。

「君は一生、小春と一緒にやり続けるの?」

これは「小春がいる場ではできない話」だ。

しばらく、コーヒーを飲む音がしなかった。俺の喉も、咀嚼した鶏肉を飲み込んでしまって久しかった。しばらく、そこには何もなかった。心臓の音さえも。

「……正直、」

いてついた空気が徐々に温度を取り戻す。

「そこまで、考えてなかった……です。副会長はすごいや。俺はそういう、お金とか、ビジネスとか、効率とか、そういうことを自発的に考えられるほど……なんって言うんでしょうね——」

「主体的じゃない」副会長が補完する。「そう、そうです」と俺も応じる。

「でもさ、君にも主体的な部分が……魂があるはずだ」今度は副会長は、俺の頭のあたりを指で刺した。

「たとえば。君は、どんな小説が書きたいの? いや、言い方を変えよう。『鼓動』で書いている小説は、本当に、君が書きたかったような小説だったのか? ……どうだろう? ……黙るなよ。君は、もともと、小説家になりたいとさえ、漠然とだったかもしれないが思っていたんだ。滅多に無いことだよ。すごいことなんだ。そうまでして君を突き動かした、何かがあったはずだ」

急に火力が増した。追い詰められた俺が変な顔をしていると、「ま、その答えは今、ぼくに教えてくれなくたっていいけど」と前置きし、告げた。

「『鼓動』が本当に、君にとって最善の場所なのか。……それだけ考えてほしかった。それだけだ」

● ●

「な……んで」

3学期のはじめ、俺は小春に「鼓動」の解散を提案した。

「なんで……どうしてそんなことをいうの?」

思えば、この時、俺が考えていたことをきちんと頭から、ていねいに説明してさえいれば、今のようにはならなかったのかもしれない。けれどもこの時俺が小春に抱いていた感情は、見下しから、畏怖に変わっていた。尊敬でも尊重でも友愛でもなく、連帯でもなく、畏怖。これは見下しよりもよくないものだった。見下しの時代から続いていた「小春は“女の子”だから」という偏見と、畏怖の時代に培われた「小春は天才だから」という距離感とが悪魔的な相乗をもたらし、俺に「理解してもらう」ことを諦めさせた。……俺自身が、それを克服できないほどに、弱い人間だった。

「……俺が」

苦し紛れの、細切れの、パッチワークのような言葉しか紡げなかった。それはあたかも、小春のプロットに俺が地の文の「あたり」を付けただけの、いつもの穴あき原稿かのようだった。

「俺が書きたい小説が、書けないから」

「あと、」しまいには俺は、副会長の理論を借用しようとして、「『鼓動』の活動が、俺にとって、無駄だから」大失敗した。

暖房で、十分に暖められたこの部室は、睦月の夕方に入り浸るにはあまりにも適していた。けれども、この時ばかりは、寒かった。滲んだ汗を熱いとすら感じるほどに、俺たち2人は、心臓の底から冷え切っていた。冬のせいだった。

「そう……」

すると小春は視線を落とし、読んでいた本を無理やりカバンに詰めると、体をひるがえして、そのまま、部室から出ていってしまった。

俺はしばらく独りでその場に座っていた。これでよかったのだろうかという疑念だけがあったが、しかし、もう後には引けないことを俺は十分理解していた。

部室を見渡してみた。机に積み上げられているのは、推敲のために印刷したこれまでの小説の原稿の数々。読もうかな、と一瞬思った。すぐ、やめた。読んでしまったら、足を止めてしまうような気がしたのだ。

俺はただ、原稿の山を手でひとつ、撫でて、それで、おしまいにした。

鼓動が終わった。

また、4月がやってきた。

去年は俺と小春の2人しかいなかった。そして今年は俺ひとりしか居ない。状況はさらに絶望的。例に漏れず勧誘活動なんて一切できていない……にも関わらず、今日は後輩がひとり来ていた。しかし、

「先輩があの『鼓動』なんすよね!? 先輩、僕も文芸同好会に入れてくださいよ!」

「あー……」

面倒な質問。答えに窮する。

「……えっと、何年生……ですか?」

「? 2年生になりました!」

じゃあ、「鼓動は俺じゃないんだよ」と言ったところで「でも表彰式で見ましたよ」と返されてしまう。そうしたら、もう事情を全て話すしかないじゃないか。……面倒だなあ。

「そ、そっか。え、えっと」

「……あれ?」俺がもじもじしていると、後輩は机の上に積み上げられた原稿用紙をみつけて「これ、『鼓動』さんの原稿……っすよね!?」とつっこまれる。

「あっ」

俺は返答ともなんともつかない嗚咽を出して、パニック気味の思考のまま「そ、そう」と肯定してしまった。

「え、読んでもいいですか!?」

「い、いい……あー……どうだろう」

俺のなんとも煮え切らない態度に、少し、後輩の表情が疲れてきているのが感じられた。

「……俺は、鼓動じゃないからなあ」

観念して俺は、ことの顛末を全て話した。鼓動は俺ではないということを。しかし、小春だといいたいわけでももはやなかった。つまり、鼓動など存在しない、偶像であるということを。その後、俺がその偶像から逃げる選択をして、小春がこの部室を去ってしまったことを。……その全てを。

「……そう、なんすね」

後輩はしばらくその場で考え込んでいた。いつのまにか勝手に原稿を手にとっていて、その文章と、俺の顔とを交互に眺めていた。

見定めている……? なにを比べているんだ?

「……先輩自身の小説、っていうのは、それじゃ、読めたりしますか? 読んでもいいですか?」

「えぁ」一番の急所を突かれる。「それは……」

「だって、先輩は先輩がやりたいことのために『鼓動』を捨てたんでしょう? だったら、先輩がやりたかった、それ、を見せてくださいよ」

「……実は」俺は素直になるしかなかった。

「それ以来、まともに書けてないんだ」

どうしてなのかはわかっているようでわかっていなかった。ただひとつ言えることは、昔の俺の小説がどうやらヘタクソなものだった、ということをわかってしまった今、俺が俺自身に求める小説のクオリティは高くなってしまっていて、俺は、俺ひとりで書いた原稿に納得がいかなくなっていた。……いいやもっと正直なことを言えば、俺は、ほんとうに書けなかった。書いてもすぐに指が止まってしまって、次の言葉が思いつかなかった。苦し紛れの、細切れの、パッチワークのような言葉しか紡げない。小春のプロットに俺が地の文の「あたり」を付けただけの、いつもの穴あき原稿の書き方しかできないのである。……ああ、いいや、だめだ。そんな書き方じゃ、まるで俺がストイックになったみたいじゃないか。そうじゃないんだ。この頃の俺はもっともっと、きちんとダメだった。

「こう、」俺は無理やり言葉を続ける。「……人の、心、みたいなものが、書けないんだ」

「……なる、ほど」後輩はそうつぶやくと、

「……ありがとうございます。素直に言ってくれて。……僕も素直になります」

顔をあげ、俺の目を見て微笑んだ。

「僕、正直、文芸同好会とかどうでもよかったんです。ただ、『鼓動』っていう、この学校のヒーローみたいなひとのそばに行きたかった。そうすれば、僕はこの学校での生活をより楽しめるんじゃないか、って……。だからぶっちゃけ、僕は文章を書く気はないです。読む気も、そんな無いです」

「……そう」と俺が生返事をすると「なので、」と続く。

「……僕がこの部活に入ろうとする、だなんてのは、はなから失礼なことだったかもしれませんね」

そう言うと、後輩は、カバンを手にして、ひるがえり、ドアに手をかけた。

あ。デジャブだ。俺はそう思った。目の前にある後輩の表情はあまりに爽やかで、あの日の小春のそれとは似ても似つかない。これは青春の一ページ、ごく平和的な「じゃあね」のシーン。……なのに、どうしてこんなにも、胸がつまされるのだろう。

「お話ありがとうございました! ——︎“冬也”先輩」

そのまま、後輩は部室から出ていった。

……書けない。

書けない。

書けない。書けない。書けない。書けない。

その時の俺の心境は、今の俺にとってさえ、重くて、苦しくて、筆舌なんかには尽きるわけもないそのどうしようもない気持ちを、ここに書くことなんかできない。

俺は、書けない!!!

書けなかった!

今だって書けない。その時だって俺は俺の思う小説が書けなかったし、今だった俺は書けない。どうすればいい。どうすれば俺は正解だったんだ。

その時の俺は今の俺と全く同じように、じわじわ、じわじわとパニックに陥っていった。夕方のことだった。夕日がいやらしい角度で薄暗い光を部室に差し込んでいて、そのことが俺の両手を苛立たせた。俺はパイプ椅子から立ち上がり、机の上にあった原稿用紙の山に手をかけた。

「……偶像だ!!!!!!!」

俺はその山を思い切り押し飛ばした。面白いように空力効果がはたらいて、束になっていた原稿用紙はばらけ、宙を舞った。

「偶像だ! この言葉も、全部、全部が!!!!!」

宙を舞う無数の原稿を俺は手ではらいのけたり、潰したり、やぶいたりした。その瞬間だけ俺は獣だった。俺の中にあった獣が人間の皮をつきやぶって出てきたのかもしれない。埃と共に舞い上がる物語の竹林に迷い込み、吠えて偶像を喰らう俺は虎。俺の声は誰にも聞こえない。俺の言葉は誰にも届かない。

ふと、落ち着いた。

眼球に直射した黄金色の西陽が俺を強制的に人間に戻した。

「俺は、納得できない」

部室を片付けするのも、面倒だった。

その後の展開は早かった。……早かった、と俺が思っているだけかもしれない。

職員室に通報が入ったらしかった。「文芸同好会は規約に違反して賞を獲得している」と。知らせてくれたのは副会長だった。極力擁護するとは言っていた。しかし、表情は芳しくなかった。

5月7日、高校からの賞状取り消し。

5月13日、部費減額決定。

5月20日、過払いの部費の返金を勧告。

俺は応じなかった。拒否した、というよりは、逃げた。処分に納得していないわけではなかった。ただ現実と向き合うことが怖くて、全て無視していた。その頃になると、俺は部室にもいかなくなっていた。

5月27日、俺は職員室に呼び出された。

「まあ、別に磯狩を責めたいわけではなくってね……」担任の先生から告げられたセリフは、意外にも穏やかだった。

「個人か団体かなんて境界線も曖昧だし、磯狩に悪意がなかったのも先生はわかってる。ただ、お金が絡んでいるからね。そのお金を集めるために、きちんとしたルールと、きちんとした話し合いをしているからね。……だから、きちんとしなきゃいけなくなってしまう。それも、わかるね?」

「……正直、」俺はとにかく逃げたかった。左手の袖を右手でにぎって、俺は視線を落とした。

「どうでもいいです」

「……そうか」

6月3日、生徒会執行役員会で、文芸同好会は部活動登録を抹消された。

温情だったのか、単に面倒だったのか。「部室を整理するため」という名目で、夏休み中はまだ部活としての活動ができる……つまりは部室を好きに使えるということになった。しかし俺はもう、あの部室に近寄りたくもなかった。ちょうど受験が迫っていたこともあり、だんだんと、俺の世界から文芸同好会のことは、——『鼓動』のことは、消え去っていった。

半年後。

モコモコの手袋で、ぱふ、ぱふと二拍手する。

「……合格できますように」

一礼して、起き上がる。はあっ、と白い息が出た。

我が家は正月に帰省はしない。この住宅街にとどまって、ただぐうたら松の内をやり過ごすのが習わしだった。もっとも今年に関しては、俺は受験勉強のためにとてもぐうたらなんかできない。自習の合間に、気分転換にと思って初詣に来たのである。

「まあ、頭は冷えた……かなあ」

俺は自宅へ向けてきびすを返した。

帰路の途中、高校の敷地を横切ることになる。相変わらずラグビー部の連中はデカい声を出しているし、あのクリスマスの日と同じように木の枝には雪しかついていない。

……そうか、もう、あの頃から一年も経っちまったのか。

ふとなんとも言えない気持ちになって、校門前、足をとめ、校舎を見つめてみた。

あの部室棟の……ああ、あのあたりだ、と、文芸同好会の部室だった空き部屋をみつけた。遠くて、外からでは中がどうなっているのかは見えなかった。もっとも、別に見に行きたいわけでもなかった。

そりゃ、あの部室にあった蔵書の数々や、積み上げられた『鼓動』の原稿たちは、俺の青春の思い出だ。記念にすこし拝借して、将来にわたって机の引き出しに仕舞い込んでおくのも悪くはないかもしれない。しかし今は大事な時期だった。あの青春の記憶は、俺にとってはまだ特急呪物なのだ。受験に専念しなければいけない今、そんなものを自室に置いていたら集中できるものも集中できない。

俺は帰ろうとした。すると、ふと、焦げ臭い匂いがした。

校庭の隅のほう、周りに何もない、誰の邪魔にもならないところに、ひとつの焚き火があるのを俺はみつけた。周りに何人かの生徒と職員もいる。

ああ、お焚き上げでもしてんのか。そういえば生徒会活動の紹介パンフレットに書いてあったような気がする。ああした方が逆にエコなんだとかなんだとか。なんとはなしに、俺は焚き火を眺めた。

部室棟から焚き火へと歩いてくる人影があった。——副会長だ。手には何やら、書類の束のようなものを持っている。一歩、また一歩と焚き火に近づく。副会長のシルエットが熱気でゆらめいていた。

それは直感だった。

校門をくぐって、俺は走り出す。焚き火に向かって——副会長に向かって。

途中で俺に気づいた副会長は、おっ、と表情を整えて俺に挨拶しようとする。

「おい」俺は副会長の挨拶を遮った。

「ひさしぶりじゃないか! どうした、そんなに息を荒げて」

「そ、それ……」肩で息をきって、なんとか言葉だけを続ける。「『鼓動』の、原稿……っすよね……?」

すると、副会長の表情は、すこしも動かなかった。

何かを考えているようだった。

「……? 副会長、さん……?」

「実はね、ぼく、半年くらい前の選挙で会長になったんだ」

「あっ、そう……っすか。……え?」

「うん」

そのまま、彼は焚き火の方へと向かった。

「あっちょっと」

俺の言葉は彼の一挙投足にすこしも影響しなかった。

「えいっ」

彼は、原稿の束を焚き火の中へと放り投げた。

「あっ」

紐で束ねたりしていなかったので、空中を待ってすこしばらけた紙には、すぐさま火がついたのち、そのまま焚き火の周りの地面に散乱した。あたかも花火が地に落ちて咲いたかのようだった。周りの大人たちが「うおっ」と驚く。「あっすみませーん」「気をつけろよ〜?」そんな軽い会話で、たった今の事件は落着した。儚いものだった。花火は、一瞬で燃え尽きた。地面には、黒いススだけが残された。

「……ぼく、いま忙しいんだよね」

『彼』が、俺に話しかけてくる。

「話があるなら、あとで時間取るって感じじゃだめかな」

冬の昼間の、カラッとした陽の光は、彼の表情をひときわ鋭利なものにした。もし、このとき、俺が手袋をしていなかったら、強く強く握り込まれた俺の手のひらには、大学試験に差し障るほどの深い爪のあとがついていたことだろう。恐ろしさと、怒りとは、打ち消すものではなく、共鳴するものだった。

「……っざっけんなよ」

身勝手なことを言っているのは俺の側だということはわかっていた。俺が部室を自ら整理しなかったことに責任がある。そこに残されたものは、学校や生徒会としてはごみでしかない。だから、無碍にされても仕方がなかった。しかし、

「あんたにとっても、あの原稿は……青春だったんじゃないのか?」

ただ、納得ができないだけだった。

「……ふふ」

彼が、笑う。

「やっと、タメ口でしゃべってくれたね」

「君、小春のこと知らなさすぎなんだよ」

彼から説明された、ことのあらましは、俺をうちのめすのには十分すぎるものだった。

「なんで俺が小春のことを最初から呼び捨てしてるのに疑問を抱かないのさ」

彼と小春は、中学の頃からの友人だったらしい。それで、文芸同好会のことも、高校一年生の頃からよく聞かされていた。俺は、小春がどうして文芸同好会に入り浸っていたのかも、小春が文芸同好会の存続にこだわった理由もわかっていなかったが、

「小春はただ居場所が欲しかった。それだけなんだよ」

俺は小春のことを何もわかっていなかった。

「最初、部室で君と会った時。ぼくは、嫉妬していたんだ。小春にそうまでして『居場所』として執着されている、文芸同好会に。——つまり、君に。しかし話をしてみると、君はそこまで『脅威』じゃないということがわかったんだ」

俺は、彼のことも何もわかっていなかった。

「ぼくは君を見下すことで、文芸同好会へのやさしさを発揮できたんだよ。もともと、小春が楽しく高校生活を送るためには、文芸同好会には存続してもらわなきゃいけなかったからね。あとはぼくの気持ちの問題だけだった」

そして、『鼓動』のことを俺は何もわかっていなかった!

「どうして『鼓動』の小説が面白いか……いいや、君の原稿に小春が手直しをすると面白くなるか、わかるか? 小春には、人の心がわかるんだよ。君にはわからないものだ。わかるほどの精神的な経験を君はまだ積んでいなかったから、わかろうとしてもわからなかったものだ。だから、『出来事』的には対して何も起きていないシーンであるかのように君の目には映るシーンに、小春はきちんと『出来事』を見出して、拾い上げていた。だから小春の小説は……鼓動の小説は、最高に面白かったんだ!」

俺は、3人のことをわかっていなかったのだ。

「ただ。ただ……君たちは、よくやった。よく、やりすぎたんだ。小春の欲求が高度に満たされているのをぼくは感じ取っていた。それは、文芸同好会によってじゃ、ないんだ。小春の欲求を満たしていたのは、『鼓動』だった。『鼓動』が資本として膨張し、小春と鼓動との自他境界線もあいまいになっていった。小春に忍び寄る、偶像としての『鼓動』の影に、気づいた時にはもう遅かった。——なあ。君は、小春の気持ちに気づいていたかい?」

俺は、何もわかっていなかった。

「……そうか。そう、もう遅かった。平和的に終わらせる手段はもう残されていなかったんだよ。だから、その状況は、ぼくの嫉妬心を解放するためにはちょうどいい免罪符だったんだ。ぼくは君に、男同士でしかできない話、を持ちかけた。ああ、あれは小春がいてはできない話だった。けれど、ぼくにとっては確かに、男同士でしかできない話だったのだ。ホモソーシャルっぽいことを自然に考えてしまうぼく自身をぼくは心底軽蔑していたけれども、君だって似たようなもんだったから……ああ、君はそういう言葉はわかんないよな」

彼の離間工作は確かに功を奏した。

「すると、どうだ。小春は俺のもとに帰ってきてくれた! これで、一件が落着した! ……そのはずだったのさ。ぼくははなから、君が小説家としてうまくやっていけるだなんて、少しも考えちゃいなかったからね。あのあと君がどんなふうに立ち回るかなんてことは、もはや、心底どうでもよかったのさ」

しかし、状況は誰にもコントロールされていない。

「だが……だが君は、ひどい、ひどい失敗をした」

通報者はやはりあの後輩だった。

「ぼくは正直どうでもよかったし、ぶっちゃけ、とっとと潰してしまいたくすらあった。なにせ、君たちの不正を黙認したのはぼく自身だ。生徒会や職員室のなかでのぼくの評判が落ちてしまうより前に、とっとと証拠隠滅してしまいたいのが本音だったさ。けれど……小春がそれをさせなかった。どうするのが正解なのか、ぼくにもわからなかった。わからないで、あたふたしているうちに……君は、逃げた。身勝手に、自分勝手に、逃げ去ってしまった。文芸同好会を見捨てたのは君だ」

——ふたりで入った、学校の近くの喫茶店で、彼は話に一区切りをつけた。俺の反応を伺うためだった。

彼は相変わらずコーヒーで、俺はメロンソーダ。俺はひたすら弾ける甘味に逃げながら、彼の話に必死についていった。長話だった。暮れなずむ窓の外の景色は、俺の反応と完全に同化していた。

「……君は、知らないことだろうけど」

俺の返答が期待できないことを悟った彼は話を続けた。

「夜祭に行きたい、って言ったんだ。小春は。去年、いや一昨年のカウントダウンの花火大会のことだよ。君たちが……『鼓動』がダブル受賞をした直後だな」

「そこで……」続けた。「小春は、『鼓動』としての活動が、本当に楽しい、って言ってたぜ。心の底から笑ってた。幸せそうだった。満たされていたんだ。あの日々を、最も青春にしていたのは、小春だったんだ」

それだけ言って、彼は黙った。彼の表情もまた、窓の外の景色と同化して、しんしんと、喫茶店の換気扇だけがその世界にただ存在していた。

「ぼくが、今、どうして黙っているか……わかるか?」

彼は、そのとき確かにそう言った。

「え?」

「ほんの冗談だよ。だが真剣に考えろ。今、ぼくはどうして黙っていると思う?」

混乱した。換気扇の音がうるさかった。神経が研ぎ澄まされていくと、それだけじゃなく、ソーダの弾ける音、窓の外を行き交う車の音、遠くから微かに聞こえるラグビー部の練習、焚き火の音……俺の鼓動の音でさえもが、うるさく、飽和して感じられた。そのまま、俺の思考は世界によって埋め尽くされていく。

しかし、俺はもう知っていた。この世界には、確かに血が通っているのだということを。

「……その、小春の幸せを奪いたいと願ったのは、他でもない、自分自身……だから。なのに、目の前にいる俺にあてつけるような口調で、その事実を明るみに出してしまったから。だから……その会話をそれ以上つづけると、そのツッコミどころを俺に突かれてしまいそうで、怖い……から。だから、次に言うべき言葉が見つからなくて、あんたは、……俺を、試そうとしている」

グロテスクだとしても。心臓を晒し合いながら、俺たちはこの世界で、どうしようもなく生き続けているのだということを。俺はこのとき、知りはじめていた。

「——合格。おめでとう。縁起がいいね」

そういうと、彼はかばんからひと束の書類を机の上に出した。

「これは……資料?」

「大学の。まあ、君の学力なら、今よりもうちょっとだけ頑張れば、ここくらいには受かるんじゃねえの」

そのまま彼はカバンを肩にかけ、伝票をひろいあげた。

「……財布出さないんだな笑」

「?」

「まあいいや。じゃ。もう、会うこともないだろう」

「え、待ってくれよ」

俺が呼び止めるまもなく、彼は席を発つ。

「がんばれよ、『鼓動』先生」

そのまま、流れ作業で会計を済ませ、彼は退店した。喫茶店のドアの鈴の音だけが、ちりんちりん、と、滑稽に響いた。

「……あっ」

そうか。あそこで俺は、奢られそうになっていることを察知して、形だけでも財布を出すそぶりを見せるべきだったんだな。と、そのとき、わかった。

それはよくある青春小説のような始まりだった。

大学1年生の春、俺は文芸サークルの新歓に参加した。

俺はどういうわけかちょっと堅苦しい文章が人より書けるという特性があって——要するに厨二病で、世の中のことをわかった気になって冷笑しながら高尚そうにつらつら書くということができた。加えて最近は、ほんの少しばかり、人間の心というやつもわかるようになってきていた。しかし、俺はまだ俺の文章が大して面白くはないということも理解できていた。俺を侵していた幼稚的な全能感はもうなかった。だから、切磋琢磨する場が必要だと考えたのだった。

「あ、君が連絡くれた子だね。ようこそ!」

学生会館の部室の扉を開けると、先輩が明るく出迎えてくれた。

しかし、俺の視線は先輩の後ろの方、あるひとりの新入生のほうへと向いていた。

——やっぱり、そういうことか。

「え?」

あいつも不器用すぎるだろ、と、今の俺は、あの副会長のことさえも、少しはわかってやることができるようにまでなっていた。

「なんで……なんで冬也くんがいるの?」

その声色が、まんざらでもなさげだったのを汲み取って、俺は安心した。

「……久しぶり」

それは、始まりだった。

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この小説はカンザキイオリによる楽曲「鼓動」をモチーフにした作品です。

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