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改札口にて

あれほど暑く長かった夏がやっと終ったと思ったら、逆に過ごしやすい季節は足早に過ぎてしまった。そしていつの間にか早朝は息が白くなる季節になってきた。戸外へ出ると冷たい北風に思わず肩がすぼむ。冬がやってきたのだ。通勤とはいえ出かけるのが億劫になる季節だ。
最寄駅は2つの路線が交差するターミナルで、通勤・通学の人の群れが入り乱れていつもごった返している。駅には南北に線路を跨ぐ自由通路があり、中央付近に10台ほどの自動改札機が並んでいる。多くの人がうつむきながら無言のままで改札口に吸い込まれ、そして吐き出される。体温の感じられないモノクロームの風景だ。

この最寄り駅で出会うのを楽しみにしている母子がいる。
示し合わせているわけでは無いが、自由通路を北から下る私と、南から上ってくる母子と、丁度この改札口で毎朝のようにで出くわす格好になる。身振り手振りで仲良く談笑して歩いている親子の姿は、普通に微笑ましくそれほど珍しいものではない。が、この二人は一般的な親子とは少しだけ様子が異なる。
実は母親は白杖を手にしているのだ。
小ぶりのリュックを背中にした母親の右手は、子どもの肩に軽く添えられている。小学校低学年だろうか、その少年は、大きなランドセルに背負われて、少し斜めに被さった黄色のキャップ姿が可愛い。行き交う人とぶつからないように、また、点字タイルから外れないように気遣いながら巧みに母親を誘導して行く。少年は駅員が座る改札口まで来ると、右手で左肩に置かれた手に軽く触れ、母親に道を譲る。入れ替わるようにして母親が定期券の入ったパスケースを翳しながら改札口を通り抜けていく。連携プレーは流れる水のように自然だ。次の瞬間、少年は少し脇にそれて、その姿をじっと見守っている。

今日は改札口を通り抜けた母親が、少し点字タイル路から外れた。その時、
「右、右!」
と明るい声がかかった。
「はい、はい」
母親も笑い声混じりに頷きながら応じる。
止まっていた駅の風景が時計じかけのように動き出した。
母親が点字タイルの曲がり角を杖で探りながら曲っていくと、
「行ってらっしゃーい!気をつけてね」
「行ってきまーす!」
元気な声が駅のコンコースにこだまして、鼻をくすぐる陽だまりのような匂いが広がっていく。やがて母親がホーム行きのエスカレーターに乗るのを見定めると、少年は踵を返してもと来た道を駈けていった。
季節が移り変わっても、この駅で毎日のように繰り返されるシーンだ。
そして私は、今日も少し外れたところに佇み、微笑みながらそれを眺めていた。

何でもない日常の一コマが掛け替えなく愛おしい。胸の奥底に小さな灯がともり、それがゆっくりと膨らんで私を満たしていく。遠く芥子粒のように小さくなっていく少年の姿に思わず「行ってらっしゃーい。気をつけてね」と呟いてみた。
込み上げてくるものを抱きしめながら、慌てて改札口を抜ける。
もう寒くはなかった。

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