不思議夜話 20
片側二車線が交差する広い道路の端に、ひとり立っていた。
道路幅の割に車は少ない。斜向かいには無機質な厚みのない灰色の小さなビルが一つ立っており、それ以外には建物は無さそうだ。どうやらそのビルへ行かなければならない用事があるようだ。それにしても、射す光が黄色がかっている。どことなく南国の風情がする。服も派手な開襟シャツで、頬を撫でる風まで生温かく感じた。信号が変わって目の前に車がゆっくりと停止する。道路を横断しようとして、交差点にはスクランブル横断歩道の白線が斑に引かれているのに気付いた。一瞬迷ったが、背中から聞こえてきた音声信号機に急かされて、斜めに横切ってさっきのビルに向かった。
五階建て程度のビルには人の気配がない。中ほどにある階段は外光を嫌って薄暗く、微妙な冷気を放っている。ちょうど、昔住んでいた公団住宅か、裏通りにある訳ありの雑居ビルのようだ。カツカツと靴音がやけに響く階段を上がってのっぺりとした鉄の扉を開けると、広くはないが家庭的なリビングが目に入った。
髪が長くボサボサで無精ひげの男が、こちらに笑みを浮かべて迎え入れてくれた。麦わらでできたカンカン帽のようなものを頭に載せている。鼻に小さなサングラスを掛けているので、今一つ誰だか判然としないが、微笑みかけるという事はまんざら知らない仲ではないのだろう。
「あのさ、さっそくだけど」
と言いながら男が譜面のようなものを取り上げて、小ぶりのダイニングテーブルの向こうから軽く投げて寄越した。
「ちょっと、声出してくれる」
―えっ、声かぁ…―
最近カラオケも行ってないしなぁ。何か月か前に地方のスナックで無理やりマイク回された時もひどいもんだったしなぁ。
などと躊躇してると、無精ひげの男は目の前に置かれたキーボードを叩きだした。音はしないのだが不思議なことに頭の中で曲が鳴っている。サビのところに差し掛かって、男は促すようにこっちに視線を送った。
―あれぇ…、歌えるじゃん―
最近出なくなってきた高音部も滑らかに出る。息切れもせずブレスも完璧だし音程も確かだ。チラリと男に目を遣ると、満足そうに口の端で微笑んでいる。ほっとするのと同時に沸々と妙な自信が湧いてきた。さっきまでのビクビクはどこへ行ったのか、我ながら現金なものだ。
ただ、なんでこんなところで歌わされるのだろうか不思議に思った。
その時突然入り口から誰かが入ってきた。弟の隆だ。
チラリとこっちを見て軽く会釈をし、襖の先にある部屋へ行こうとする。お互い結婚し、子供ができてからは忙しいのでめったに合わないが、この間の正月に見た時より明らかに若々しかった。男は演奏を止めて何やら弟に声を掛けている。隆はニヤついて二言三言返した後、奥の間から黒い大きな座敷机を持ち出して、それを部屋とリビングの間に立てかけた。今にも熊が襲い掛かるような感じに見える。ほとんど襖の大きさくらいの壁が空間を塞いだ。暫く眺めていると、厚手の布団がどさっとその上から被さった。
「簡単な防音を頼んだんだよ」
男はこっちに向きかえって言った。
そんな程度で防音できるとは到底思えなかったが、最近ではネットの動画配信で素人の歌唱が盛んに発信されていると聞く。おおかた皆はこんな程度の工夫で録音しているのだろうと、勝手に納得した。
「じゃさっ、ギターを持ってきて」
男がリビングの奥の薄暗がりを振り返った。
ぼんやりとした中からギターを持った女性が出てくる。キミちゃんだ!
幼馴染みの女の子だが、多分何十年も会ってない。最後に見かけたのは大学生の頃だから、随分年嵩かさが増しているはずだが、そこにいるキミちゃんはあの頃のままに見える。小柄でショートカットの彼女は、にっこり微笑んで抱えていたギターを差し出した。
ギターを受け取る。
クリーム色の表板にこげ茶のピックガードが付いており、ネックの上部に「Morris」と縦に書いてある。これは高校生の時、郵便配達のバイトで貯めた金で買ったものだ。あの頃は、フォークソングやらニューミュージックと呼ばれる楽曲が流行り、大ぶりのフォークギターをハードケースに入れて、ボロボロのベルボトムジーンズにチェックのシャツ、ボサボサに伸ばした髪の毛をタバコを挟んだ指で掻き上げるといった「不健康」なスタイルが流行った。
なけなしのお金を握って専門店に行くと、「不健康」をそのまま体現した店員さんが、キミにはこれが良いんじゃないと推薦してくれたギターだった。俺の使ってたので良ければと少し傷んだ黒いハードケースまでおまけしてくれたっけ。当時はラジオの深夜放送でCMをよく耳にした。今もやっているのだろうか。
「ギターはモーリス。モーリスギター」
結構熱心に練習したものの、センスがないのか人前で堂々と弾きこなせるほどには上達しなかった。そのせいか、はしかの様な数年が過ぎると、ギターには見向きもしなくなり、実家の納戸の奥で今も眠ってるはずなのだが…。
懐かしさのあまり、少しつま弾く。
マーチンギターを模したボディから柔らかい、それでいて深い響きが広がる。ああ、そうそう、こうだよな。フレッドを抑える指に響く振動、指が弦をすべる音。このギターの音色ってほんと優しいんだ。彼女ができた時も、その彼女に振られた時も、いつもそばにいてくれた。
いつの間にか、リビングのソファーにぼんやりギターを抱えて座っていた。年甲斐もなく感傷に耽っている場合じゃないなと目を上げると、男はテーブルの上で何やら機械の準備に忙しいらしい。
「あのさ」
という声に振り向くとキミちゃんが後ろに立っていた。さっきより更に一層小さくなってネルのパジャマを着ている。白地に水玉模様のやつだが、彼女と「そういう関係」になかったため初めて見る姿だった。
「昨日、あんたっち泊めてもらったんだけど、お母さんに色々と話を聞かせてもらったんよ」
そうか、お袋のところへ泊ったんだ。それにしても、幼少期でもキミちゃんはうちに泊まったこともないし、こっちも彼女の家に泊まりに行ったこともない。いつの間にお袋とそんな話になったんだろうといぶかった。「あんたのおばあちゃん、結構イケてたんだってね」
彼女がお袋から聞いたという話は途方もないものだった。うちのばあさんが大恋愛の末中国に渡り、シベリアを横断したというもので、当のばあさんからもお袋からも聞かされた記憶はない。確かに、ばあさんは大恋愛の末、うちのお袋を生んだ。将来を約束した男に捨てられ、シングルマザーで困っていたところに、じいさんが現れたとのことだった。そんな感じだから中国大陸はおろか、東京へも行ったことはないはずだ。祖父母は中学入学前後に相次いで他界したので確かめるすべもないが…。最近、お袋もぼけてきたのかなとも思った。
しかし、待てよ。
よく考えるとばあさんの妹は、大正末期に貿易商の御曹司と結婚したって言ってたっけ。中国には船旅で上海へ出かけたことがあるとの事だった。そんなことを、本人ではないが誰かから聞かされた記憶がある。それに、お袋の子供の頃、当時のソビエトに「恋の逃避行」をした女優がいたという話もよく聞かされた。ああ、なるほど。その辺りの話がこんがらがっているのだなと思った。早速、キミちゃんに訂正しよう。
「きみちゃん、あのね…」
と振り返ったら目が覚めた。
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