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痺れて、からい

 『委員長』。中学・高校でクラス委員長を六年務めた、美咲のあだ名だ。顔見知りの多い地元大学に進学したため、あだ名はそのまま大学の同期にも広がった。
 
 委員長と呼ばれることに、美咲は内心、悪い気はしなかった。「しっかりしている」と、周りの大人たちの期待に応えてきた自負があったからだ。その称号は、むしろ喜ばしいもので、頼られることも、周りをまとめていくことも嫌いではなかった。
 だからこそ、揶揄されたことに衝撃を受けた。上京して社会人になり数か月、初めてのことだった。

『あいつ、なんであんな仕切りたがりなの、真面目ちゃんかよ。うぜえ』

 給湯室から聞こえてきた、同期の、チャラチャラした男の声。新人同士で回すべき雑務を頼んだら、いやに反抗的で揉めたのだ。追従する女の声も聞こえた。

『いい子アピール? でも、委員長は表立って頼めば面倒なの全部やってくれるからいいじゃん。使えるものはうまく使わないと』
『俺は怠いわ。お、同期LINE来てる。今日も飲み行く?』

 行く行く! と甲高い女の笑い声。嫌なのに、何度もリフレインする不愉快な会話。振り切りたくて、早歩きになる。悪口より傷ついたのは、美咲の知らないグループがあったこと。仲間内の飲み会の誘いは、美咲にはなかった。

(あいつらに呼ばれたとしたって、嬉しくもないじゃん)

 これは負け惜しみだ。本当は、悔しかった。私は正しいはずなのに、楽しくない。
 夕食に作り置きを食べるつもりだったが、こんな気持ちで、一人で食べるなんて嫌だ。今日はあの店に行こう。美咲は泣きたくなる気持ちをこらえ、最寄駅近くの中華料理屋へ足を運んだ。
 
 古い引き戸を開けると、『いらっしゃい』と店主の低い声がした。早い時間なので空いていた。どんなに泣きたくても、怒りに震えても、空腹になる。そんな時はこれが食べたくなるのだ。

「『シビ辛麻婆』お願いします」

 まもなく、赤く煮えた麻婆豆腐が運ばれてきた。それは、辛いものが苦手な人が見たら禍々しささえ覚えるほどの、辛味をふんだんに使用した看板メニューだ。小さく「いただきます」と手を合わせ、レンゲを口に運ぶ。

 たまらない。立ち上る花椒の香り、まずご挨拶とばかり舌に触れる、ラー油の刺激。そこに、豆板醤の、旨みを伴う真っ直ぐな辛味が展開する。美咲好みの固めの豆腐が口の中でほどけて、大豆由来の甘味が辛さの中に淡く咲く。そして粗ひき肉、葱の歯ごたえと共に訪れる、名前通りの痺れる辛さ。花椒の香りが清々しく突き抜けて、脳天に穴が開いたかと思ったほどだ。
 美咲は汗を噴き出しながら、白米をかきこんだ。そして冷水をあおる。これは休憩ではない。冷水を飲むことで味覚の鋭さが増し、さらなる刺激を味わえる。

 辛さは味覚のエンターテイメントだ、と美咲は思う。特に食事は、生き物としての必要性と娯楽を同時に満たせるのだから一挙両得だ。こんなに素晴らしいものはない。
 料理も、この感情も、全部食べてやる。この時、美味しいと気持ちいいは、とほぼ同じ感情になった。感じていた胸のもやもやは、消えていく。あんな奴ら、どうだっていい。強い刺激だけが、つまらないことを忘れさせてくれる。
 
 それでも、一息ついた時、何とも言えない淋しさが埋まらなかった。不快さを除けばいいというものでもない。何かが足りないのだ。
美咲は無性に人恋しくなった。この胸の澱んだ感情を一気に塗り替えてしまうような、誰かとの繋がりが欲しかった。

「あれ、山田さん」

 店から出て少し歩いていると、聞き覚えのある声がした。振り返ると、同僚の飯島が立っている。仕事帰りの姿で、一人。少しよれたスーツに、困り顔の笑顔が特徴的だ。

「偶然ですね、この辺りでしたっけ」

 飯島は美咲と同期入社だが、中途採用で社会人としては一回り近く先輩にあたる。美咲は自身のラフな格好を隠したくなったが、そこまで気を張る相手でもないかと思い直して、「まぁ、この辺りのお店が好きで」とそっけなく返した。 
 飯島は「そうでしたか、美味しいところいっぱいありますもんね」とにこやかに答え、それじゃ、と去って行った。

(なんだ。あの人も別に誘われてないじゃん)

 そう思った瞬間、美咲はみじめになった。仲間はずれは自分だけではないと安心するなんて、浅ましい。当たり前だ。美咲たちは企画部門だが、飯島は製造部門だ。部署も違えば、世代すら違う。話なんて合う訳もないし、これからも話すことも特にないだろう。

 そう思い込んでいた美咲だったが、予想外の出来事が起きた。新製品の企画において、美咲と飯島が同じチームになったのだ。

「山田さん、よろしくね」

 美咲のデスクまで声を掛けに来た飯島に、「よろしくお願いします」と返したが、控えめな飯島に、新製品の企画の仕事が務まるのか。美咲は甚だ疑問だったが、後日、その評価は覆った。
 飯島は非常に数字に強いタイプで、データや統計を読み解く力に長けていた。発想にこそ奇抜さや斬新さはないものの、根拠に基づいた提案や説明には説得力があり、前職からの繋がりで関連会社にも顔が利いた。上司たちが満足げに目くばせしたのを、美咲は見逃さなかった。

「飯島さんて、すごいんですね。私、びっくりしちゃって」

 プロジェクトチームの飲み会で、隣の席になった飯島に声を掛けた。

「いえいえ、そんなことはないですよ」

 飯島は謙虚に返して酒を飲んだ。
 正直なところ、美咲は飯島を地味でぱっとしない人だと思っていた。自己主張もしない、同僚にいじられてもへらへらと笑って流す態度が、気に入らなかったのだ。
 しかし、仕事をする上で評価されるのは、やはり『仕事ができること』ではないか。誰と、どうつるむとか、そんなことはどうでも良いこと。酒が入った勢いもあって、美咲は思わず同期との関係について飯島に打ち明けていた。
 飯島は、しばらく黙って聞いていたが、あっけらかんと言った。

「別にいいじゃないですか、好かれなくても」

 その言葉に、美咲は目を丸くした。「山田さんは、真面目なんですね」と飯島はほほ笑んだ。

「職場だけの付き合いですから、疲れ切ってしまうまで向き合わなくていいんですよ。家族とか、友達とか、そちらの方が大切ですし」

 飯島は、僕だって、と言葉を続けようとして、はっとしたように、なんだか偉そうにすみません、と謝ってきた。いえ、そんな……と美咲の言葉も尻すぼみになって、頼りがいなく消えた。
 
 美咲の胸はざわついた。まさかこんなに簡潔に、腑に落ちる形で返されると思わなかったのだ。大人の余裕というべき態度は、学生時代に嬉しかった『先生』の態度そのものだった。『委員長』に馴染んだ、最も好ましい人との繋がり。美咲は不意打ちの喜びに、面食らった。次の言葉に窮したところで、料理が運ばれてきた。

「おまたせしました、海老真薯のあんかけです~」

 歌うような節回しで店員が運んできた料理に、飯島の頬がほころんだ。

「やった! 僕、これ好きなんですよね」

 勢いよく口に運んだ飯島につられて、美咲も目の前の料理を口に運んだ。
とろみのついた餡の口当たりの柔らかさ。出汁の香りが口いっぱいに広がり、ぷりぷりとした蒸し海老の香りと共に真薯を味わう。繊細な味だ。しかし、どんなに疲れていても、これならばきっと食べられるだろう、という、安心できる味だった。上にトッピングされた柚子の皮の細切りが、餡や海老の味わいと相まって爽やかに広がっていく。
 これはやっぱり日本酒に合います、と飯島は笑った。よほど好物なのか、もう満腹だから食べてよ、と渡された上司の分も嬉しそうに食べている。大人っぽいものを飲み食いしているのに、まるで子供のようだ。
 
 美咲は何故か胸の奥が熱くなるのを感じた。いやいや、これは気のせいだ。そう思おうとしたのに、目はもう飯島のことを追っていた。
――この人でも、いいかもしれない。
 それは、理想の王子様でもアニメのキャラクターでもなく、地に足の着いた人、という新たな可能性だった。地味だけど、職場で評価の高い優秀な人。この人だって、同じ職場の、年下の女性に言い寄られて、悪い気はきっとしない、と思う。穏やかだし、悪くないじゃない、きっと。うん、きっとそう。

「飯島さん、良かったら連絡先交換しましょうよ」

 あ、間違えた。脈絡なく、早まって出た言葉。美咲は、少し困ったような飯島の目にひるんだ。思わず、同期会とか、あるかもしれないじゃないですか……と言い訳がましく口ごもったが、言いながら間違いを重ねてしまったことに気が付いた。飯島は、虚を突かれたような顔をしたが、「いいですよ」とスマートフォンを取り出した。
 
 安心したのもつかの間、美咲はSNSのアイコンを見て固まった。そこには満面の笑みの子どもが映っていた。無邪気な笑みが愛らしい子だ。
 あの、この子は、と美咲が平静を取り繕って言うと、飯島は照れくさそうに「娘です」と言った。他の先輩が飯島のスマートフォンを覗き込む。

「おお、つむぎちゃん、大きくなったじゃん」

 皆も画像を見て、可愛い! 飯島君に似てる! と声を上げ、子どものいるメンバーは子育ての話でもちきりになった。美咲は笑顔で相槌を打っていたが、途中でトイレに抜け出した。

 まただ。自分だけ知らない、仲間外れ! 美咲は頭を抱えた。『委員長』たる彼女にあるまじきことだった。猛烈な羞恥に襲われたのだ。この人でもいいだなんて、何と自惚れた考えだったんだろう。恋とも呼べぬ恋が、恋と名付ける前に終わってしまった。今すぐ帰って、浴槽に頭まで浸かって、あああああああ、と、泡をごぼごぼ吐きながら思いっきり叫びたい。

 帰り道、いつもの中華料理店の暖簾が見えた。こんな時こそ、あのシビ辛麻婆が食べたいのに、胸も胃もむかむかして、何も食べられる気がしない。塗り替えようもない感情のうごめきを抱えたまま、美咲は帰宅し床に就いた。夜は、いつまでも長かった。
 


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