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【自叙伝】学校への不信感

6歳の時、実母を亡くした私は、父と2人で上京し東京の下町の狭いアパートとも言えないような場所に住み始めた。
6畳一間、流しとガス台だけがついている。
ほんとに、都会の片隅で、父と2人でひっそりと暮らしていた。

大都会の小学校は、広島弁を話す、天パのチンチクリンな子を物珍しく見ていた。
担任の先生は、とても厳しい人だった。
やることなす事、怒られた。ため息をつかれた。

「おたくのお嬢さんがクラスにいるおかげで、うちのクラスは母の日にお母さんへの手紙を書けないんですよ?」と父は先生に言われた。
厄介なのがきたおかげで、と言いたげだった。
それに対して、父がどうしたのか覚えていない。

だんだんクラスの子達が、変わってきた。
ランドセルを傷だらけにされた。
体操服に落書きされた。
私がついだ給食はだれも食べなくなった。
運動会で、私だけ手を繋がれてない様子を見た叔母が涙を流して抗議しに担任に言ったらしいが、何も変わらなかった。

ある日曜日、家の前に、いじめてた子達が来ていた。
父に「いつもいじめてくる子たちが来た」と伝えた。

父はおもむろにプラスチックでできたおもちゃのバットをもち、私を自転車の後ろに乗せ、そのいじめっ子たちを追った。
江戸川の土手を追いかけた。

子供の自転車では到底逃げられない。
父はその子たちを止めると、バットをその子たちに渡して、ドスの効いた広島弁で
「わしの目の前でいつもやってる事をやってみぃや!おまえら、男が、女の子相手にクズみたいな事しよるじゃろうが!わしの前でやってみぃや!!!」

いじめっ子たちは、しゅんとして何もできず、黙っていた。
「これから先、なにかしてみぃ、容赦せんけぇの!おぼえとけぇよ!」
と言い、また自転車に私を乗せて帰って行った。

それでいじめは治るかというと、そんなことはない。
2日はおとなしかったかもしれないが、数日したら、
「お前の親父ゴリラー」とか「やってみぃだって(クスクス)」と父を馬鹿にしはじめた。

担任はただ、「あなたがおかしな事をしなければいいのに、自分で蒔いた種です」というスタンスでしかない。

そこで小2の私は思った。
もう、学校に行くのは辞めよう。私は、自分でできる事を仕事にしてそれで生きていこう。
学校行かなくてもなんとかやっていけるだろう。

その頃、絵を描くのが好きだった私は、公園の隅っこに落書き帳と鉛筆を持っていって、絵を描いた。といってもロボコンとかの絵。
一枚1円で売りますよー、とやった。
昼間から。

小さな子供を連れた若いお母さんたちが、気に留める。
学校も行かずに大丈夫なの?親は?

父は私より先に出勤するので、私が学校に行ってないなどまったくしらない。
訳を話すと、どのお母さんもすごく同情的だった。
中には1円で下手な絵を買ってくれた人もいた。
家に帰っておにぎりとか持ってきてくれた人もいた。

だんだん近所で有名になり、父が帰るまで、うちで夕飯食べていきな!という下町のおっかさんもいた。
ほんとにみんなに寄ってたかって育ててもらった。
寂しくなかった。

小2の三学期は一度も登校しなかった。学校からも連絡はないので、それで世の中まかり通ると思った。
でも、そうは問屋がおろさない。

3学期最後の日、担任がやっと連絡をしてきた。
お宅のお嬢さん学校に来ませんがどうした事でしょうか、と。

父はショックを受けた。
激しく怒りもしたし、泣いた。
ワシじゃお前をまともに育てられん。と父は決断した。

広島の母方の祖父母に預ける、と決めた。
急に決まった転校だった。

叔母たちは、私の目の前で、「これで親子の縁は切れてしまうだろうね」と言った。
母を亡くして、父しかいない私には、この言葉は、死刑を言い渡されたと同じだった。
自分が悪かったために、学校から逃げたために、お父さんまでいなくなってしまうんだ。
でも、泣いて困らせたらいけないと、布団の中で、声を出さずに、泣いてるのを気づかれないように、別れの前夜まで毎晩泣いた。

明日、広島行きの新幹線に乗るという夜、父が私の布団をひっぺはがした。
泣いていると、分かった時。
父も号泣した。
元々父は、私に甘い人だったし、私もお父さんっ子だった。
父といられたらどこだって平気でいられると思っていたし、もう少し大きくなったら、お味噌汁とご飯をたく以外の料理ができたら、もっと2人でちゃんと暮らせると思っていた。
なのに、私が学校行かなかったばかりに、こんな事になって家族がバラバラになって、親子じゃなくなるのなら、これから先、どうやって生きていくんだろう?

父は、翌日、新幹線に私を乗せられなかった。
もう1日、ここにおれ。とだけ言った。
その日をどう過ごしたか、まったく記憶にない。
結局、始業式がある日に、広島に向かった。

父は私に5000円と切符を渡した。
席までついてきて、隣のおばさんに、「この子は広島までいきます、どうぞなにとぞお願いします」と何度もお願いした。
今日から小3になる私は、無邪気に5000円という大金を握って西へと旅立った。
ホームの父も泣かなかった。私も泣かなかった。
親子の縁は切れない。切れたりしない。父は私を手放したくないと思ってくれてる。
絶対だいじょうぶ。
絆は目には見えないけど、私は父を信じてた。

そこから先の日々のことは、またいつか書きます。

叔母が、鳶職のご主人と学校や教育委員会に乗り込んで、担任の先生のやり方に相当文句を言ってくれたと、大人になってから聞きました。
先生がその後、どうなったのかはしりません。

でも、先生がクラスの雰囲気を誘導して、私が孤立したのは、この歳になると明確にわかります。
そして、対応もひどかったと。
特別扱いしろとはまったく思いませんが、厄介に思う必要性もわからない。

そんなこんなで、私の中で、学校や教師というものに、不信感があるのは事実。
そして、あの頃、お節介を焼いてくれたおばちゃんたちの存在が、どれだけうれしかったか。
なので、今、私がお節介おばちゃんとなって、助けを必要としてる子供がいるなら、
なにかしら、手助けしてあげたいなぁと強く思うのです。

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