2011/3/11を振り返って
2011年3月9日。この日も結構大きな地震があった。東京にいる妹から「地震大丈夫?」と電話があった。「うん、大丈夫だよ」とメールを送ったが、ちょっと気がかりで近くの高台にある親戚の庭から海を眺めた。いつもと違って湾内に白波が立っていた。
3月11日。午前中は友人宅でお茶のみ、昼前に自宅に戻り昼食を済ませ、いつもの通りテレビを見た。だがこの時世界を驚かせる大地震が来た。メス猫のハナを息子の部屋に投げ込み、玄関は開けたまま外に出た。道路を見ると路面に亀裂が入っていた。
先に外に出ていた従弟が「M子(私のこと)、津波だぞ」
そのとき一瞬、私が10代のときに経験したチリ津波の記憶が蘇った。大船渡にいた叔父が腕に抱えていた、生まれて間もない息子が波にさらわれたことを思いだした。
長磯のほうに目をやると海が渦巻き出していた。防波堤の方に目をやると、海の底から海水が沸き上がる勢いでどんどん海水が広がっていた。繋がれていた船等が流されていく。
いつの間にか7、8人ぐらいが現場で海を見ていた。その時に消防車が通りかかり「津波だ!逃げろう!!」と避難するように指示された。私たちは裏山に避難した。
裏山から見た漁港は、瓦礫と各家の屋根で海水が白く泡立っており、海の水が見えないほどだった。そこから引き波が始まり、海底が見え始め海の底から流された船や車が見え出した。
引き波になってから、知人が私たちのところにやってきて、部落の状態を教えてくれた。流れ込んだ津波で、部落は洗濯機の中のような状態だったと。
私は裏山を下って、部落の様子を見に行った。小さい川から溢れだして、数件家があったところが瓦礫の山になっていた。瓦礫をかき分けて、高台に向かった。高台から見た地域は瓦礫の山々だった。親戚や友人宅を目で探す。私の実家はあったが、弟の家はない。
林道を通って実家に向かおうと思い、まずは私の車を置いている駐車場に向かった。駐車場に着くと、私の車のタイヤが汚れていて、ここまで津波が来たようだった。そこで夫と会って、一緒に実家に向かった。
途中で三々五々人だかり、そこの輪に入って様子を聞くと「何人が亡くなった」と話していた。途中、一歳上のお茶飲み友人の旦那さんに話しかけられた。「おい、おっかあが居んねえ。なんでぇ新築に建て替えたばかりの二階にでも避難したと思ってたのに」
その夜は兄夫婦・弟・自分たち夫婦の5人で練炭コタツにて夜を明かした。夜中にも大きな地震を感じた。津波も来たらしかった。
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