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人間にできること、人間ができてしまうこと

『ヒトラーに抵抗した人々 反ナチ市民の勇気とは何か』(中公新書)を読み始めたらとまらなくなっている。啞然とする。人間がやったこと。人間がなしえてしまったことの数々。

ユダヤ人迫害は有名だが、迫害したのはナチの人間だけではない。迫害の初期の頃…?逃れる為に住み慣れた土地を離れるとき、彼らは現金100マルクとわずかなものしか所持をゆるされなかったとか。今の貨幣価値にしてどれほどかは知らないが、移り住んだ土地で生活を立て直すこともできない状況に置かれた。そしてその後、彼らが置き去りにせざるを得なかった財産・金品や高級品は没収され、競売にかけられ、ドイツの一般庶民たちが詰めかけて安く手に入れたらしい。慄然とする。善良な一般庶民、家庭人。真面目に生き、友を大切にし、家族を愛したひとりひとり。我が子の笑顔を見ようと、喜ばせようとして、ユダヤ人家族が置いて行かざるを得なかったアクセサリーや子どもの晴れ着やおもちゃを安く手に入れていそいそと持ち帰っただろうか?他人が泣く泣く手放した服に手を通して微笑んだだろうか?賢く掘り出し物を手に入れたと、自慢したのだろうか?

他人のことなど言えはしない。底値買いは生活の知恵、無駄遣いをせず少しでもいいものを安くと、劣悪な労働環境に置かれた生産国の人たちから搾取して店頭に並んだ品物を選び抜く。小売店に頼んで取り寄せて買うより手軽で早く手に入る(翌日配達が可能なことも)からと、クリックする。何故翌日配達が可能になるのか。ある通販の会社の倉庫での体験談を読んだ。その悔し涙の上で享受する安さ便利さを選んだときには既に知らずして加害者側に居る。

ヒトラーは一般庶民から熱烈に支持されたらしい。ドイツ経済を回復させたから。高かった失業率が下がり、生活が良くなったから。そのヒトラーの政権が迫害するユダヤ人たちを迫害することや財産・金品の没収は当時としては正当な行為だった。こんな酷いこと、こんなあさましいと感じられる生き方が実際に『できてしまった』のだ、当時の普通の善良な人たちに。みんなそうしていたのだろう。それが普通だったのだろう。

そんな当時、みずからの身を危険にさらして、迫害されるユダヤ人をかくまい、逃し、彼らが置いて行った財産を運んで手渡した人たちもいた。ヒトラー政権に同調せず、対立した人たちもたくさんいた。本文中にたくさん出てくる、名前の下の生没年。読み進むに連れて増える、『刑死』の文字。ちょっと読むのがつらくなって逃げてきてnoteに向かう。こんな厳しくみじめで辛い、そして強い生き方が、できてしまったのだ、当時生きていた人たちに。周囲からは、頭がおかしいとみられたかもしれない。親きょうだいにまで迷惑をかけるとんでもないやつと思われたかもしれない。思われただろう。今がどういう世の中かわきまえない人間だと言われたかもしれない。私が今、自分のきょうだいによって言われたように…?いや、おそらくはもっと強い調子で。

ユダヤ人であるかアーリア人であるかなど、生き方・能力・人間性などの判断基準にはならない。合理性などない。でもそれなのに、嫌っていい、いじめていい、辱めていい。なぜなら、『そういうことになっている』から。それに同調しないのはおかしい人。

ナチスに同調して漁夫の利を得た人間と、ナチスに同調せず抵抗し屈しなかった人間の違いはどこにあったのだろう。私はその時代に生まれたら、どう生きたのだろう。

今はまだ、半分読んだところ。考えながら読み、苦しいけれども読むのをやめられない。

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