銀河鉄道の父 視聴
まめリスさんの記事で、映画『銀河鉄道の父』を知ったことがきっかけで、Amazonプライムビデオレンタルで視聴した。1度視聴開始すると、開始時刻から3日間でレンタル期間が終了するので、その間に3回観た。
宮沢賢治の評伝は、何故か小学校6年生のときの国語の教科書に載っていた。
当時の担任は、「今の人間はダメだ」と、ことあるごとに説教するおじさんで授業では宮沢賢治のことを褒めちぎるかたわらで、
「それに比べて今の人間は…」
と繰り返し言うので授業はおもしろくなかった。賢治が日蓮宗に傾倒して剃髪したとかの、評伝に出ているエピソードは極端な人柄を想像させ、教科書に目を落とせば挿絵として載っている『目をかたどった花壇(植える花が細かく指示されている)』には趣向に感心するものの花壇として想像すると気持ちが悪く(なにせ、目の形って…)、有名な『雨ニモ負ケズ』(詩として紹介された。手帳に書き付けられていたものというのはかなり後で知った)は説教を押し付けられていると感じた。1日に食べる食事の内容まで細かく決めなくても、とか、それだけ人助けをして生きて みんなにデクノボーと呼ばれ って?…とか、説教くさくて価値観が偏っていて付き合いづらい立派な人という印象を長いこと持っていた。
いくつか読んだ童話も、その独特な言葉遣いで、ほんとうに子どもを楽しませる為に書かれたのかそれとも子どもをなんらかの思想に教化する目的があったのかと邪推するような扱いにくい子どもの私だった。
人間かくあるべし
という思想が先にあり、その頭の中でこしらえた思想に当てはめるべく道具として童話や詩を書いたのではないのか?と、疑っていて、避けていた。
けれども。
詩 永訣の朝 とか、『グスコーブドリの伝記』とか、『銀河鉄道の夜』『よだかの星』『どんぐりと山猫』などに出会ってしまうのだ。
すると、不思議と断片的に言葉や情景が頭に残って離れないのだ。
ふとしたときに、雨ニモ負ケズ の言葉が口をついて出てくるのだ。
映画を見終わって思うのだが、宮沢賢治の童話と呼ばれるものは、映画で使われている「物語」と呼ぶのがしっくりくる。
賢治の死の間際、雨ニモ負ケズ を暗誦した父は、
「いい詩だ!」
と言い、賢治は
「やっとお父さんにほめられた」
と言う。
父は、
「ほめたでねえか。初めて立った時、歩いた時、寝小便しなくなった時。本を書いた時…。いっぱいいっぱいほめたでねえか」
と号泣しながら賢治を抱きしめる。
ほめるということ。
父は愛情いっぱいに賢治に接し、世話をし、話を聴き、真剣に向き合っていた。
幾度も幾度もほめていた。ほめちぎっていた。おまえの物語が好きだ、と言っていた。
神田の書店でのことも。
心いっぱい、身体いっぱい、賢治を愛していた。
でも賢治は、ほめる父に苦笑いしながら、
「親バカだな…」
と言うのだ。
親だから贔屓してくれている、親だから大目に見てくれていると感じていたということか。
人造宝石で花巻の農民を豊かにする夢を語る賢治に、両親は困惑してため息をつく。
夫婦2人になったところで母は、
「賢さんは旦那様にほめられたいだけではないのか」
と、夫に言う。
賢治は、
「ほんとうはお父さんのようになりたかった」
と言う。
賢治の祖父は、息子に
「おまえは、父でありすぎるのだ」
と言う。
賢治の祖父が年老いて、おそらく認知症が進んで錯乱しているときに、祖父は言う。
「家に帰る。子どもが生まれたんだ」
と。
ここにも、父…。
映画の、賢治の父は、あたたかかった。賢治だけでなく子どもたちを愛して愛して、特に初子の賢治は、自分自身の身を顧みないほどに愛し、心配して気遣っていた。まるごと受け止めていた。
賢治は親と折り合いが悪かったけど、裕福な実家のおかげで自分探しができた、と書かれているのを以前読んだこともあるけれども、映画『宮沢賢治の父』は、リアリティをもって心に迫ってきた。
あらためて、宮沢賢治作品を読んでみようと思う。
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