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お前はみんなに見られているが誰もお前のことなど見ていない

テレビの大々的な宣伝とは裏腹に世の中はおかしいとおそらく大半の人が思っているのに、なんでなかなか変わらないかと言うとそう思っている自分自身が何もしてないからです。

もはや今年もすでに5月ですが、この5ヶ月の間にたとえば長年職場で暗黙の了解とされてきてはいるが誰しもが「これやる意味なくね」と思ってることを結局放置し続けてきているなら、そいつは世の中が良くならないことに文句を言う資格はありません。

あるいは家庭のなかで、交友関係のなかで、本当は不満や疑問を抱いているくせに、

「でもやっぱりできないから・・・」

と尻込みして何も変えてないなら同じです。

世の中は細かい個人の現象の集合体で作られているので、自分の目の前の矛盾こそ世の中の悪い部分です。

その世の中の不自由な部分をそのまま維持することに5ヶ月間も加担してきた自分のことは棚に上げて、どのツラ下げて「世の中はおかしい」と偉そうなこと言えるのか不思議です。

いつか誰かがやってくれると思ってるんですか?

その淡い期待はいったい何に向けられているのかよく考えてみてください、天に住まいし大いなる何かなんですか?

いったい自分はいくつなんですか、せっかく何十年も生きてきて、いろいろなことを嘆くわりに、いまだ自分からは何も改革改良らしきことをしてきてないなんて、恥ずかしくないですか。

たった1人でやるのがそんなに怖いのでしょうか。

わたしは集団のなかでたった1人、おかしいことをおかしいと言いがんばって変えたことがありますが、結論から言うとすごく怖かったです。

ドキドキします。だって味方いなかったですもん。

しかも声を上げるとその場の全員から注目されます。

それでも構わない、自分の違和感をなかったことにはできない、その意思の方が強ければ、誰に何をどう思われようが関係ありません。

とりあえず、言い出しっぺは自分なんで、とにかく自分がその自分で考えた新しいことをやります、誰かに助けてもらおうとか、誰かいっしょにやってとかは一切思わず、自分以外の周りが古いやり方のままでも、自分はこうしたほうが絶対良い、ということを毎日毎日実行します。

1人で孤軍奮闘してるあいだ、周囲は冷たい反応です、でもそれは当然です、やりたいと始めたのは自分だから、自分が好きにやらせてもらう代わりに周囲の人だってやり方を変えない自由があるわけです、自分だけ違うことをするとき心の半分はいつだってドキドキしていますが、やはりどう考えてもこっちのほうがいいと思って始めた以上はやり遂げる。

もうほとんどヤケです、開き直ってやり続ける。

体験こそが真理。

やってるうちに、やっぱりこっちのほうがいいよな、あきらかにいいよな、と自分の実体験が自分に確信を与えてくれます、するとじょじょに恐怖は消えていきます。

そのうちに、その新しいやり方が自分にとって当たり前になってくると、矛盾に満ちた古いやり方のままでいる周囲のことが逆に不思議に思えてきます。

それでも少し心細さはありますが、まあいいか、周りは周り、自分は自分、と実践をくりかえしていくうちに心は確実に強くなります。

そういう姿勢に他人は惹かれてきます、たった1人でやることに抵抗がなくなってきたころ、そんな自分に同調して同じことをやってくれる人がひとり、ふたり、と少しずつ増えていきます。

一年半くらい経つと、その集団の全員がそのやり方に従っていて、古くて面倒な習慣はきれいさっぱりなくなります。

本当に?

そんなに上手くいくものなの?

と思った人にはできません。

だってわたしの時の環境や状況が、別の誰かと同じなわけないからです、そんなもんはケースバイケースに決まってるじゃないですか。

そんな超あたりまえのことも考えず、

「本当に大丈夫ならやってみたいけど・・・」

と保証を欲してる人には何にもできないです。

だからその意識がダメなわけです。

失敗がイヤなんじゃなくて、失敗を誰かに見られるのがイヤなんです、なぜなら失敗=恥と思ってるからです。

失敗したっていいじゃないですか、わたし打率1割くらいです、9割うまくいかないです。

と思ったけどそんなことないです、いまは半々くらいの割合で思った通りにいきます、何年もかけて打率1割から5割まで上げてきました。

失敗から学べるから成長できます、というか失敗からしか人は学べない気がします、失敗と反省を重ねて自分らしさがわかるほど、成功しやすくなってきます。

自分にとっての自然を選ぶセンスが出てくるわけです。

とにかくやってみる、やってみて何か起きたらそのときまた考える。

真の大人って、そういうもんだと思うんですよね。

世の中ってぜんぜん大人がいませんよね。

そんなに自分がどう見られるかを気にして、じゃあお前はどう見られたら満足なのか逆に聞きたいです。

自分は特に大した人間じゃない、とほんとに思っているから、自分の意見を堂々持てるし、他人のことも認めていけます。

自分の評価を過度に求めている人ほど、周りが気になって自分の意見が言えない。

そういう承認欲求こじらせ太郎が、自分の生き方を貫く人を見るとこう思うわけです。

「目立とうとしてる!!」

わたしはこう見えてけっこうやさしいので教えてあげましょう、それこそが自己の欲望なんだぞ、と。

誰かが自己を表現する姿が目立とうとしてるように見えるのは、じつは誰よりもお前が目立ちたいと思ってるからなんだぞ、と。

投影というやつです、あの人があんなことをするのは目立ちたいからだ、注目を浴びたいという願望がないならそんなことするはずがないだろう、とは己の願望なんです、誰よりも自分自身が衆望を集めたいと思ってることに気がついてます?

そういう人ほど魅力がないです、なぜなら性格がひねくれているからです。

ひねくれているから素直になれないわけです。

素直じゃないから、おかしいと思ってることをすぐ直すことができないわけです。

自分が悶々とした暗い目で見つめているあのキラキラした人は、そんなに注目されてるなんて思ってないわけです。

見られたい愛されたい!!と思うほどそれは得られず、誰にどう思われようが自分の道を進むのだと思うほど注目と応援が集まる、この世の法則とは本当におもしろくできているなと思います。

というわけで何かひとつでも今年に入って、身の回りのおかしいなと思うことを自分から正した人は、相当すばらしい人だと思います。

#日記 #エッセイ #社会問題 #人間関係


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