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【掌編】珈琲豆

「珈琲豆」

珈琲のアロマには、リラックス効果がある、とあの人は言った。珈琲を淹れる時の、彼のお決まりの文句だった。
匂い、でも、香り、でもなく、アロマ、というところに彼の自意識が見えた。
その小さな愚かしさは、私の胸に慈しみとかなしみをもたらした。可愛い人だった。


彼の真似をして、赤い小さなコーヒーミルのハンドルを回して豆を挽く。小気味のいいような凶暴な音を立てて豆が挽かれるとともに、彼の言う「アロマ」が立ち昇る。ザラザラと挽かれた豆は砂のように零れ落ちる。
私の手で挽かれてゆく珈琲豆を見て、ふと思った。
……そのうちに彼の肉体の形も温かさも香りも彼のなにもかもが。
この豆のように、砂のように、私の頭から零れ落ちていってしまうのだ、きっと。
時間という凶暴な刃物に引き裂かれ、潰されて、細かにされ、砂時計の砂が落ちるように。
立ち昇るアロマは、葬送の煙のごとく空に虚しく消えてしまう。

彼の記憶が挽かれてゆく時、その香りは私に束の間の安らぎをもたらすのだろうか。
挽いてしまえば、潰され細かにされ、零れ落ちるのだとしても、その空虚な安らぎに身を委ねる快楽に、私は溺れてしまうのだろうか。


私はそんなふうに彼の思い出を消費したくはない。香りも味わいも愉しまず、いっそ硬い硬い豆のままで、握りしめていたい。
ここにはいない彼を、本当の彼自身ではない私自身の彼の記憶を。
私の中に、閉じ籠めて、封じ込めて、ありもしない永遠に微睡ませておきたい。


まだ真新しい傷口を抱えて、胸を引き絞るような願いを抱き、私は赤い小さなコーヒーミルのハンドルを回し続けていた。
いつまでも、いつまでも。









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[Profile]

マナ

パフォーマンスユニット"arma"(アルマ)主宰。朗読とダンスが融合した自主企画公演を上演している。ミュージカルグループMono-Musica副代表。キャストとして出演を重ねている他、振付も手掛ける。
ここには掌編小説の習作を置く。
お気に召さずばただ夢を見たと思ってお許しを。

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