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告発の勇気が社会の希望① ジャニーズ性加害ともう一つの事件

「ぼくらはもう加害者。このままうやむやにさせちゃったら、傍観していた加害者同然だ」(「ジャニーズ性加害問題当事者の会」のメンバー・石丸志門さん)

「黙って黙認していたことによって、新たな被害者を生んでしまったんじゃないか」(同・飯田恭平さん)

両者とも、ジャニー喜多川氏の性加害を告発した動機について語った言葉です。

半世紀以上にもおよぶ前代未聞の性加害事件。被害者の数を聞くたびに、こんなに多くの子どもたちに長い間、被害を訴えさせなかったおとな社会の責任を感じます。

声をあげる――。いまの日本社会では、とても怖いことです。なぜでしょうか。同事件を取り上げたイギリスBBCのジャーナリスト、モビーン・アザ-氏は「勇気を出して自ら声をあげても“迷惑な行動”だとみなされる日本特有のものがある」と指摘します。

翻ってみると、私たちは仕事や人付き合いのなかで、空気を読むことが過剰に求められます。組織やコミュニティーのなかで問題提起をすると煙たがられ、居場所を追われる、もしくは不利益を被るかもしれない。そして、口をつぐむ。

では、「空気を読む」はいったい、だれのため?

だれでも、周囲の人に煙たがられるのはつらい。それならばと、太いものや長いものに巻かれて自分だけ安泰で逃げ切ることを考える。その保身は、問題を議論のテーブルにのせることを拒み、歪みを個人に押しつけます。「空気を読む」とはお茶を濁すだけ。事件なら、結果として加害者を利することになります。そして、空気を読み沈黙した結果、いつかその歪みは自分自身に降りかかってくるかもしれないのです。

一人ひとりの沈黙によって解決の道は閉ざされ、歪みは絡まった糸のようにさまざまな問題を引き起こします。そうして問題を肯定し、歪みや被害をなかったことにしてしまう。保身や無関心は己の身を助けないばかりか、加害の加担者にしてしまう。これが、沈黙に内在する暴力性です。これら沈黙の罪、沈黙を強いる罪こそが、同事件を通じて社会全体で共有されるべきことだと思うのです。

社会の主人公は一人ひとりの人間です。社会はその集合体。個人の人権がベースです。日本国憲法は「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」、その権利は「国民の不断の努力によって保持しなければならない」とうたっています。
基本的人権の享有には、多くの話し合いや考えのすりあわせが必要で、ときには摩擦も起こり得ます。でも、その面倒くささが民主主義。考えることをやめ、民主主義のプロセスをカットすれば、改善の道は閉ざされ、人権が奪われる社会をつくってしまうのです。人権のない社会。これほど恐ろしいものはありません。

ジャニーズ性加害事件の被害者たちはこれまで、声をあげても「暴露」と揶揄され、黙殺という仕打ちを受けてきました。でもいま、その勇気が波紋のように広がりを見せ、勇気でつながる連帯が、苦しさを強いられてきた被害者だけでなく、社会の希望になっています。彼らから多くを学び、だれかが声をあげたとき、その勇気に光が当たる社会にならなければと思うのです。

いまもう一つ、子どもたちが声をあげ、裁判を通じて勇気の連鎖を力強く広げている事件があります。次回は、命をかけてたたかうもう一つの事件を書こうと思います。事件を知り、考え、ともにたたかうことが、未来の自分や家族、友人、知人、だれかが同じ被害にあわない社会への一歩になると信じて。(._.)φ


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