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あことバンビ。好きと言えずに愛おしい
「あことバンビ」という漫画が完結しました。
あまりにも突然で、でもやっぱりとも思います。どっちにしても、結末に至るまでの日々をもっともっと読んでいたかった。あぁ、喪失感…
あことバンビがもそうなのですが、漫画や音楽、小説に映画など、自分にとって大きな存在になればなるほど簡単に作品を好きと言えません。わたしにとって、好きと断言することは怖いことだから。
その理由はふたつ。
1つはそれが好きということで自分の弱いところをさらけだしている気持ちになるから。
ふたつめは好きか嫌いかという単純で明朗な基準で大事な作品を語ることはできないし、そんな風に扱いたくないからです。
大事な作品の多くは、どこかしらわたしの弱いところに触れているからこそ響いています。
わたしが文章を生きづらさを多少なりとも解決するために書いてるのと同じように、多くの人が自分事を文章や絵、映像や写真の形に加工して伝えようとしたのが表現です。敬愛する〇〇に捧ぐ、というのも、〇〇が自分事に感じているから作れるのだと思うと、全ての作品というのは、誰かが自分を救うために書いたもので、回り回ってわたしも救ってくれているのだと、思わずにはいられません。
作品を知ることは、その人の深いところを覗くこと。
だからこそ怖いのです。誰かにこの作品が好きだと言って、その人に作品を通して自分の深くて、場所によっては弱い部分を知られることが。そして、弱いところを否定されることが。
当たり前に、大事な作品になればなるほどわたしの深いところを刺激しています。人間、深いところなんてところはどうしたって混沌としていますから、従ってわたしを救う作品は必ずしも面白い!とあけっぴろに言えるものではありません。
むしろ、悲しくて寂しくて虚しい瞬間がどこかしらにあって、でもそれを含めてその作品が愛おしい。こンなふうにの入り乱れる感情を「好き」という単語に閉じ込めるのはあまりにも乱暴だと感じてしまいます。
「好き」にいろんな種類があることはその対象が人の場合、多くの人に共通認識されていますが、これが人以外になると単純に「好ましい」の意味だけで捉えられてしまうように思います。そんな風に、わたしの大事な作品たちにタグ付けなどしたくありません。
今のところ、響く作品たちに当てはまる言葉は古文単語の「あはれ(あわれ)」でしょうか…。
しみじじみとした趣や徐々に湧き上がる気持ち。寂しさ、悲しさ、愛しさ、人情、情けといった意味をもちます。
諸行無常の世の中を生きるしかないわたしたちは、きっと「あはれ」な想いと無縁ではいられないのです。きっと、誰でも。
「あことバンビ」も、面白さの中にやっぱりどこかで寂しさの膜がある作品でした。セリフと絵の間にある何かを感じたくて何度も読みました。何か、が、感情移入から染み出た自分の想いか、作者であるHEROさんが生み出した作品の空気かは判然としませんが、きっとどっちも正しい。登場人物たちの目線の先に、開いた唇の間に、握りしめた拳の中に、それはありました。
「あことバンビ」は、しばらくの間、喪失感をわたしに与え、時間と共に混沌としたところに混ざるのだと思います。
HEROさんに最大限の感謝を。
そして書籍化してほしいと心底願っています。ぜっっったい買います。払わせてください。
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