腕に火傷。されど行く


ここ数日、真っ白な腕が頭の片隅に居続けています。
それを見たのは電車の中。斜め向かいに座っていた若い人の腕でした。指はせわしなくスマホを操り、半袖から飛び出た両腕はスマホと指を接続しています。そのほとんど動かない、ただ身体をつなぎとめている腕のまぶしさが離れないのです。その腕は白いだけではありません。キメも滑らかさも、この腕に水をたらしたら水滴のままコロコロとつたっていくに違いないのです。結局、自分の停車駅につくまでずっとホクロ一つないその腕をさりげなく、しかし熱烈に見ていました。

腕を見ているとき、わたしの中にあるのはただただ「見たい」という欲求でした。その腕になりたいな、とか、きれいな腕だから舐めたいな、とか、そうした羨望や情欲はなく、美術品を見るように、ただ、ずっとずっと眺めていたかったのです。そして数日経った今もなお、その美しさの余韻が残っています。

きれいでいたいという欲求はそれなりにあるつもりです。年を取って、シワはかわいいかもだけれど、シミはできてほしくないですし、肌はガサガサよりもつるつるがいい。それなのに、情欲はともかくなんで羨ましくもなかったのかなぁと思ったとき、自分の腕を思い出しました。電車に座っているわたしの腕ではなく、自室の、卓上ランプが照らす暖色に染まった腕です。そこで見たわたしの腕は、きれいでした。ホクロは右腕だけで10個以上、火傷の跡も3つくらいあり、電車の人とは比べるといかにも使ってきた腕です。火傷もただバイト先のラーメン屋で失敗しただけ。名誉の勲章にもなりやしない。

でも、わたしの腕をきれいだなと思ったあの部屋では、その美しい腕はありませんでした。そこにあった腕は、わたしの火傷とホクロだらけの腕だけ。そもそも比べるものがないのです。暖色のランプという小道具も相まって、比べるものがない世界にいたわたしは自分の腕に向かってステキね、と褒めてやることができたのです。

斜め向かいの腕は、誰かと比べても遜色ない美しさでした。そりゃもう、わたしの生活が否応なく刻まれた腕とはまるで別物で、どちらをゲームアバターとして選ぶかと聞かれたら斜め向かいの腕一択です。でも、結局わたしたちが生きるのは現実で、火傷とホクロがある腕でこれからも生活していくのです。その現実でわたしはちゃんとわたしの腕がきれいに見えることを知っていました。知らないままあの腕を見たらら悲しくなっていたかもしれませんし、キャラデザを変更したくなったでしょうけれど、まぁ、わたしの腕もきれいだしな、で終わることができるのです。
比べる前に自分の腕を知ったおかげで、あの完璧な腕を前にしても「わぁ、きれい」という感想が全てで、そこから自己否定になんか走ってやりません。自己肯定感という嘘くさい言葉は好きじゃありませんけれど、そのいわゆる自己肯定感を高めたければ、比べない環境を作ればいいのだなとこの時わたしは発見しました。

火傷もホクロも、決して好き好んで増やしたくはないのですが。増えたらまた卓上ランプの暖色にさらせばいいのです。ひとりで。



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