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手のひらのにおい

DVDデッキの青い光が昼よりもずっと眩しかったことは覚えています。ふすま1枚を隔てたところにいる兄はまだ起きていたんでしょうか。今となってはわかりません。

顔を手で覆うと、安心します。
視界が遮られて、指と指の間から見える洗濯物は、別の何かに見えて、自分の家じゃないみたいです。世界の誰も知らない、わたしだけの穴ぐらで、ただただそこに在ると、手のひらの匂いや温度に気がつきます。温度はともかく、手のひらの匂いなんて普段気にしたことなんかないのに。皮膚の匂い。
匂いに気がつくと、呼吸にも気がつきます。空気を吸うと涼しく、吐くと暖かい息が手のひらに伝わります。そして、息をしている音も。
深い水の中に沈んでいるみたいで、寂しいけれど、これでいい、これがいいという声を、こんな時はきちんと受け止めてあげられます。

手のひらを通じて、こんなにもわたしはわたしがいることを感じているのに、世界の誰からもきっとわたしは見えていません。現実の世界でふすま1枚向こう側、ドア1枚向こう側になにかがあったとしても、いま手のひらの匂いを感じているわたし、は誰からも見られていません。わたしも、誰も見ていません。

昼は、明るすぎてよく見えてしまいます。なんにも見たくない、見えたくない時、この身体ひとつしか信じられないとき、夜はとっても優しい味方です。制限なく、深く広く豊かに潜り込めますから。


頭をからっぽにしたくても、最近の日中はますます1人になれませんし、なれたとしても家人たちの気配に警戒してしまいます。この身体ひとつとは程遠い。

それが家の良さでもあるし、この環境によって培われた力も受け取ったものも数え切れないけれど。
それでもやっぱり、わたしはここを出なければおかしくなってしまうし、出て行く力がないいまは、手のひらの匂いに頼ります。どこよりも濃密で、どこまでも優しいあの時間に。


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