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先輩としての贈り物

もうすぐ大学を卒業して1年になる。ということは、わたしのひとつ下の後輩たちも卒業するということ。
部活の後輩にメッセージを送ると、家に遊びにきてくれるというので、今日は後輩への卒業祝いを探しにいきました。

卒業祝いなのだから、消えるものではなく残るものを贈りたい。それに、一応は社会人として働いている先輩としてはやはりちゃちい物は選びたくありませんでした。何がいいのだろうと物も決めずに歩き回ります。
傘はわたしの上の先輩たちに部活としてプレゼントしたことがあるのでナシ。職種的に名刺やスーツも必要ないので名刺入れやビジネスグッズも微妙です。a癖サリーも考えましたが、どう考えても仕事の邪魔。

うんうん悩みながら、雑貨屋を練り歩きます。
ふと、別に仕事で使うものでなくてもいいのではと思いましたが、すぐに打ち消しました。仕事で使うものでなければ、言い換えれば日常的に使う物でないとだめなのです。だってわたしは、先輩ですから。

自分で言うのもなんですが、わたしは彼女にとっての「憧れの先輩」なのです。わたしの後に部長を務めたこともあり、嬉しいことに卒業した今も慕ってくれています。部活や部長としての諸々は、まごうことなき「仕事」でした。そんな「仕事」を通じていまのわたしと彼女の関係があるのですから、わたしが彼女に贈るものはこれからの彼女の新しい仕事を支えるもの以外にはあり得ないのです。

そう考えると、疲れて始めた足も次の店へと進みますし、背筋も伸びます。「憧れの先輩」として後輩に閲する。その中で生じるやり取りや視線に含まれる羨望は、少なからぬ社会的な生命力、いわば自負となってわたしに与えられているのです。上に立つものとしての振る舞い。それは時に窮屈で、枷になることもあります。しかしながら、全くの枷になりえない役割などありませんし、それが必要な場面は人間社会の中で生きていく限り、それこそ家庭内であろうと出てくるのです。

わたしはその力を与えてくれた後輩に感謝しています。だからこそ、相応のもので、かつ彼女が慕う「あこがれの先輩」が守っていると感じられるような贈り物をする義務があるのです。
たぶん、今の同年代の中ではあまり受け入れられない考え方です。古臭いといわれるかもしれません。なんと言われようと、わたしにとってはそれが必要ですし、正直、社会的にも意義があることだと思うのです。

結局今日はコレというものが見つからず帰宅しました。電車に乗ってしばらく経った頃、ハッと候補の物が浮かんできました。嬉しいことに明日も休みです。近場でそれを売ってる店があるといいなぁ。

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