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千本松渡し a story #4/6


  四、北村淳一の遺稿「夢のなかへ

 小さな斎場の前の歩道を更に歩き続けると、ループ状になった2階建ての高速道路のような鉄とコンクリートの巨大な構造物が見えてきた。横のほこりっぽい車道は、そのループとつながっているらしい。ループに消える車、ループから現れる車が、前から後ろから、わたしの横を何台も通り過ぎていった。わたしが歩いていた歩道は、車道からはずれてループの下をくぐった。両側を金網にはさまれた路地のようになっている。背の高い人が歩いたらぶつけそうなくらい、ループの低い部分は頭のすぐ上にあった。「頭上注意桁下制限高2M」という表示があった。少し歩くとループを越え、目の前に古びたコンクリートの堤防が現れた。左折すると前方にもう一本の道が見えた。二つの道は、合流して堤防の鉄門の間を抜けて、川へ出るようだった。道の交差地点に着いてすぐわかった。なんだ、この道は反対側の歩道からの道だ。そちらから来ていたら、わざわざループの下を潜って薄暗い道を歩かなくてもよかったんだ。こんなところにも、自分の不器用さが現れているなあなどという、つまらない考えが一瞬脳裏をよぎった。

 川に向かってゆるい坂を登り防波堤を抜けると、正面の鉄柵の向こうが大きな川だった。見慣れている隅田川よりは幅は狭いようだが、貨物船や運搬船の姿がいくつか見えて、物流の経路として今も使われている重要な川らしいということはわかった。川の両岸は、工場地帯のようだ。右側にある鉄柵にお供えの花が置かれていた。死亡事故があった道路脇によく置かれている種類の花だ。ここで誰かが亡くなったんだろうか。                    

 大きな煙突が何本も見えた。渡船場の桟橋は左の方に見えた。岸壁から下りの通路が桟橋までつながっていた。渡船はいなかった。船を待っているらしい人が二人いた。どちらも自転車と一緒だ。対岸に目をやると、向こう側の渡船場に小さな船が泊まっていた。まだ動き出す気配はない。渡船場の小さな待合所の壁にかかっていた運行表を見ると、渡船は15分間隔で運航しているらしい。ローカル線の鉄道や田舎のバスよりは、よほど便利だった。しばらく景色を眺めた。さっき墓地から見えたセメント工場の大きな煙突が思いがけず近くに見えた。なるほど、工場の原料や製品などは船で運ぶのか。海が近いのか、川からは微かに潮の香りもした。工場地帯を流れる川だから、お世辞にも綺麗な水だとはいえない。でも、悪臭がただよっているわけでもなかった。この千本松渡船場は、少年時代の父がよく訪れた場所だった。めがね橋はまだ架かっていなかった。渡船だけが、この地域の交通手段だった。父の父、つまりわたしの祖父は、毎朝夕、この渡船に乗って、自転車で対岸の大きな工場に通い、帰宅した。わたしがここに来たのは初めてだった。なのに、懐かしさがこみあげて、涙が出そうになった。なぜだろう。わたしが少女時代を過ごした、東京の隅田川の光景を思い出したからだろうか。そんなに似ているとは思えないのに。

 対岸に停泊していた渡船が動き出した。みるみる近づいてくる。数えてみると、乗客は五人いた。全員が自転車を持っていた。渡船がこちらの都船場に着くと、乗客は次々に下船した。桟橋から岸までは上り坂だから、みんな、自転車を押して歩く。それでも、あっという間に人々の姿は消えた。さて、乗船しようと、他の乗客たちと船に向かったら船長と目があった。やっぱり、あの男だった。なぜなのかわからないが、わたしは、そのことを予感していたようだった。

 その男に初めて会ったのは天王寺だった。新幹線で新大阪駅に着き、駅から地下鉄に乗り換えて天王寺駅へ行き、駅前でタクシーを拾った。奇妙なタクシーだった。そのタクシーは、白に黒のピンストライプという、阪神タイガースのユニフォームのデザインで塗装されていた。年齢不詳の運転手も、上半身がユニフォーム姿だった。背番号は00番。さて、タイガースにそんな選手がいたっけ。もっとも、私はプロ野球のことなんか、ちっとも知らないのだけれど。運転手は、帽子も野球帽だった。もちろん、タイガースの。帽子の下から、白い髪の毛が見えた。ということは、かなりの年齢なのか。ただ、その髪の一部が、黄色と紫に染められていた。これは、とんでもないタクシーに乗ってしまったと思った。なにか口実を設けて、早い目に降りたほうがよさそうだ。大音量で「六甲おろし」を聞かされるくらいならいいが、もっと面倒なことになるかもしれない。乗った時に行き先を告げてしまったのはまずかった。忘れ物をしたと言って引き返してもらおうか。そんなことをあれこれ考えているうちに、運転手の声がした。思いがけず、落ち着いた知的な声だった。しかも、吉本芸人みたいな大阪弁じゃない!標準語だ。それも、クラシック音楽の評論家が話すような、いかにもドイツ語に堪能そうな、子音を強調するキザな話し方だった。車の中には、小さな音でバッハが流れていた。

 「上町台地を南下しましょう。大阪は、昔は大きな坂と書いたのに、坂のない平坦な土地なんです。上町台地の周囲だけがかろうじて坂になっている。東京は坂の街ですね。ある学者の表現では、テーブルの上に左手を置いたような地形だそうです。指の盛り上がった部分が丘陵地帯の山の手。指と指と間の湿っぽい低地が下町になった。だから坂がやたらと多い。それに対して、大阪のテーブルに上にあるのは、言ってみればペニスです。それが上町台地。古代の大阪は、子宮の形をした海の中に、上町台地だけが勃起したペニスのように南から北へ突き出している地形だった。水の都ペニスですね。失礼、今のは冗談です。

 かつて、大阪の地の大半は海の底だった。それらの海は、淀川や大和川が運んでくる土砂で、すこしずつ陸地化していったんですよ。上町台地の北の端には、かつては難波宮があった。平安京はもちろん、平城京よりも古い都です。ずっと時代が下って、同じ場所に大坂本願寺ができた。一般的には石山本願寺と呼ばれていますがね。これは余談ですが、明治以来、歴史家や美術史家は大阪が嫌いだったようですね。本来、大坂本願寺と呼ぶべき寺を石山本願寺と呼び変えたり、鎌倉、室町の後は、安土大坂時代とすべき時代名を安土桃山時代と言ったりね。石山も桃山も、正式な地名としては存在さえしなかったのに。またもや失礼。ついつい声が大きくなりました。

 話を戻しますと、大坂本願寺の跡地には秀吉が大坂城を建てた。それが焼け落ちた跡に家康が徳川の大坂城を建てたというわけです。それが上町台地の北の端。台地の南には聖徳太子の建立した四天王寺があります。あなたがこの車に乗って来た天王寺は、そのすぐ南だ。今、私たちが向かっているのは南の方向、半島の根っこが生えていた古代の海岸線をめざしています。そこに住吉大社がある。日本という国が出来る前からある古い社です。もちろん四天王寺よりも古い。海の神様であり和歌の神様でもある。光源氏もここに参拝しに来たことがある。昔は、住吉大社のすぐ前まで海でしたが、今では内陸になってしまいました。ただし、この車は住吉大社までは行きません。途中で右折します。北畠で、あなたのお父さんが通っていた高校の前を通り過ぎたあたりで、海の方向に向かって坂を下ります。」

 驚いたわ。これは観光タクシーか何かなの?それにしても、古代の大阪から話を始めるなんて、とてもペダンチックでかつマニアックね。それよりも何よりも、あなたは、なぜ私の父親の通った高校を知っているの。あなたはいったい誰なの?そう問いかけながらも、わたしはこれが夢なんだと気づき始めていた。それにしても、わたしのこれまでの経験とはかけ離れている。この夢は、これからどう展開するんだろう。わたしは興味を抱いた。夢なら、しばらくこのまま醒めないで。もっと夢の中へ。深く深く、もっと深く。   
                                      タクシーは、路面電車の線路がある通りをゆっくりとしたスピードで走っていた。いきなり男の口から出た「ペニス」という言葉に混乱させられたわたしは、浮上して航行中の潜水艦のように、波をかきわけて広大な海を進む巨大なペニスと、その上を蟻のように歩く自分自身の映像を思い浮かべてしまったのだが、そのペニスの根本から視線を腹から胸へと徐々に上げて、顔が見えそうになるところで思わず目をつぶった。夢の中で目をつぶるってどういうことなんだろう。そう考えた時、あの建築家の顔らしきものが輪郭を現しそうになった。わたしは再び堅く目をつぶった。そのとたん、巨大なペニスはホットドックのソーセージに変貌した。ケチャップとマスタードがかかっている。そのホットドックは、鮫のような細かな皺のよった銀紙の海のうえに浮かんでいた。こんな映像を思い浮かべたのは、先ほど通り過ぎた路面電車の車体全体を広告媒体にしたファーストフード店の宣伝のせいに違いない。夢の中でも、わたしは冷静だった。そんな映像を思い浮かべながらも、運転手の言葉を脳の片隅で聴いていて、ちゃんとしたタイミングで応答でき
るのは、中学校の授業中、妄想にふけりながらも教師には気づかれなかった頃からの、長年の高等技術のせいに違いなかった。              

 「それは、おいおい分かりますよ。あなたのお父さんは高校時代の三年間、ずっと自転車通学をしていた。雨の日にはカッパを着てね。往きは坂を上がるから大変だった。帰りは逆に、坂を下るから自転車のスピードが出すぎないように制御するだけだったから、漕ぐのは楽だったけれどね。まあ、それでよかったんじゃないかな。朝の、まだ元気な間に坂を上がるんだから。もっとも、高校生なんて、人生でも一番元気な頃だから、自転車で坂を上がるくらい、何でもなかった。それはとにかく、お父さんは、古代の地図で言えば、毎日、海の底から半島まで往復していたことになる。お父さんは海底人だった。住んでる土地の高低差が、社会階層の高低差を象徴するのは、東京も大阪も変わらない。貧しい工場労働者の息子だったお父さんは、中産階級の子弟が多い坂の上の高校に、毎日、自転車で通っていたんだ。その頃の夢は、作家になることだった。高校の仲間と同人雑誌をやっていたよ。なんと言ったかな誌名は、たしか「夏花」だ。でもね、さっき「その頃の夢」と言ったのは、お父さんの夢は、しょっちゅう変わったからだよ。プロ野球の選手にあこがれた子供の頃から、いろんな事に興味を持つのはいいんだが、それがどれも長続きしない男でね。結婚生活はかなり頑張ったが、結局はダメだった。でも、新聞記者の仕事は、感心なことに長続きしたようだね。」

 無事これ名馬というのかしら。父は大したジャーナリストじゃなかったけれども、いちおう部長までは出世したのよ。ところで、さっき「貧しい工場労働者の息子」ってこの人は言ったけど、父は、ちゃんと高校には行かしてもらっているし、東京の大学にも進学したのよ。そんなに貧しい階層の出身とは言えないんじゃないの。                        
                                      「確かにあなたのお父さんのお父さんは工場労働者だったけれど、勤め先が大企業だったからね。安定していた。それに、戦後に職場に復帰してからは正社員だった。給与も悪くなかった。あの界隈では恵まれていた方だ。お母さんもパートに出て、家計を助けていたしね。私はお父さんのことを、『長屋のおぼっちゃん』と呼んだこともあるくらいだから、実際には、生活の苦労を知らなかった。でもね、下層階級の生まれ育ちであったことは間違いないんだよ。戦後の日本は国全体が貧しかったから、お父さんは、自分が貧しいと思ったことはなかったと思う。でも、高校に入ってから、その意識は変わった。お父さんは、自らの出自の貧しさを痛感した。それは経済的な貧しさじゃなくて、文化的なものだった。ブルデューのいう「文化資本」というやつの違いだよ。たとえば、お父さんの高校の同級生には、ピアノを子供の頃から習っていた人間がゴロゴロしていた。今でこそ、子供にピアノを習わすなんて当たり前だけれど、これは1960年代の話なんだからね。」

 この運転手は、あのキザな建築家に負けないくらい衒学的でキザだわ。ブルデューなんて聞いたこともない。けっ、と思ったけれど、これは夢の世界なんだと達観していたから、わたしは、ただフンフンと聞き流すだけだった。さっきから、わたしは運転手の後頭部じゃなく、窓外の街並みに目がいっている。大学を卒業してから、建築家になることをめざして再び大学に入り直し、卒業後にはちょっと世間で名を知られた設計スタジオに勤めることになったのだが、その事務所のオーナーでもある建築家とややこしい関係になってしまったことをきっかけに、わたしはその事務所をやめて、中堅のデベロッパー会社に就職を決めたところだった。すでに大学時代から、わたしは建築家としての自分の才能に疑問を抱き始めていたし、個別の建築物を設計するよりも、都市の景観そのものを造る仕事に興味を持っていたのだ。だから、電車に乗っていても車に乗っていても、わたしはいつも街並みが気になるのだった。

 日本の都市の街並みは、口の悪い人は、日本人はみんなスラムに住んでいるとか、建設現場の飯場に住んでるみたいだとかいう。たしかに、世界で二番か三番かという経済大国の人間の住む都市としては、日本の都市の住環境はとても劣悪だと思う。だからこそ、わたしは個別の建築作品をつくるよりも街並みや住環境をつくることに意味を見いだしたのだし、デベロッパー会社に就職して、今やろうとしているのは、新しいタウンハウスの提案なのだ。それにしても、建築家たちは、わたしが美しい町並みをつくるために、まず最初にやるべきは、電柱電線の地中化だというと、そろいも揃って冷笑するのはどういうことなんだろう。あまりに素人っぽくて、専門家である建築家が口にすべきことじゃないという事なんだろうか。このあまりにも醜い日本の都市の現状には、建築家こそ大きな責任があると思うべきなのに。都市計画なんて独裁者がやることだよ。整然と計画された美しい街並みになんて、ぼくは住みたくないねなんて。ふん、あなたはパリが大好きだったんじゃな
くて。あれこそ、独裁者による計画都市なのよと言って、あの男と喧嘩になった。ああいけない、また、あの男のことを思い出した。

 運転手の話を聞き流しながら、わたしは一方でそんな事を考えていた。言葉にしてみると長くなるが、頭の中では一瞬よぎっただけの思考である。人間の脳は、時によって、言葉がおいつかないくらい高速で回転する。わたしは、さっきから、車窓の外の町並みをずっと見ていた。なにやら、町並みがだんだんと貧しくなっているような気がする。場末に向かっているからだろうか。それよりも、わたしはついつい習慣で、道沿いの電柱に目が行ってしまうのだが、さっきから、木製の電柱が増えてきたような気がする。いくら大阪の場末だといっても、今頃、木製の電柱を使用しているんだろうか。その時、また、タイガースキャップの運転手の声がきこえた。まるで、わたしの頭の中の思考の動きを読んいるみたいだ。

 「町並みの景観がちょっと変に感じるでしょう。実はね。この車は横に移動するだけじゃなく、縦にも移動しているんですよ。つまり、時間を移動している。今、この車がめざしているのは、夕陽が大阪湾に沈む西の方向であり、同時にあなたのお父さんの子供の時代にも向かっているんだ。毎回、あなたのお父さんなんていうのはめんどくさいから、これからはジュンと呼ぼう。彼は淳という漢字を通称として使っているけど、戸籍の上ではカタカナのジュンなんだよ。これは、ジュンが生まれたのが、ジェーン台風の直後だったのでお父さんはジェーンと名付けようとしたんだけど、それが女性の名前なんで、仕方なくジュンにしたんだ。ジュンが生まれた当時は、日本は敗戦後で米軍の占領下にあった。マッカーサーが日本の最高権力者だったんだ。その時代には、台風の名前はアメリカ式に女性の名前がつけられていた。台風1号は、Aで始まるアン台風というように、アルファベット順につけていくんだそうだ。最近ではフェミニストがうるさいから、男女双方の名前が使われているようだけどね。ジェーンというと、戦前の日本ではターザンの恋人の名前として有名だったし、我々の世代だと、ジェーン・フォンダかな。私はそれより、ジェーン・マンスフィールドが好きだけど、おっぱいのでかい。あ、失礼。
                                      それはともかく、ジェーン台風というのは、昭和25年、つまり1950年の9月3日に関西地方に上陸した大きな台風でね、ジュンや私たちが住んでいた一帯は、木津川が溢れて水没してしまったんですよ。わたしたちは、近くの小学校に避難した。臨月だったお母さんは、重たいお腹を抱えてやっと避難したけど、そこで産気づいてね。とうとう小学校の体育館の片隅で出産した。幸い、産婆さんもそこに避難していたんだ。他の女性達も、お湯をわかしたりしてお産を手伝った。だからね、ジュンはジェーン台風の申し子だというのも理屈ではわからないではない。話がとんでしまいましたね。話を戻しましょう。

 私たちが今向かっているのはジュンや私たちが少年時代を送ったところです。それは場所だけじゃなく、時間も含めての話。あなたは建築家として、ピカピカの芸術作品をつくるんじゃなく、古い町並みや町家を再生したいと考えているらしいが、京都や奈良の町家じゃなく、本物の庶民の住まいがどんなものだったから、自分の眼で見るいい機会じゃないかな。さあ、着いたよ。ここが、ジュンが生まれ育った町だ。」           
                                      目の前に拡がっているのは、見渡す限りあおあおした水田だった。よく見ると、米をつくる水田だけではなく、野菜を育てている畑地もあるようだ。水田の稲はまだ緑色をしていて、風があるのか、いっせいに波打った。緑のさざ波。思わず深呼吸しそうになった。気持ちいい。それらの水田や畑の拡がる大地の向こうに長く続く松並木があり、その木々の幹の間から、銀色に輝く龍のようなものが見えた。よく見ると、川だった。振り返ると、前方の川よりはやや幅の狭い川の姿も見えた。そうすると、ここは二つの川に挟まれた中州ということになる。さて、ここはどこだろう。例によって、わたしの考えていることを見透かしている虎運転手がまたまた説明をはじめた。いったい、あなたは観光ガイドなのか、それとも学芸員か。何者なの? たしかに見覚えのある顔なのだが、いまだに思い出せなかった。
 
 「このタイムマシンの運転は難しくてね。H・G・ウエルズが造った初期のマシンは、位置はそのままで時間だけ遡る単純なものだったけれど、こいつは時間線を垂直に移動するだけじゃなく、水平にも動くんでね。というのはたとえ話で、このタイムマシンは機械じゃない。モノじゃないんだ。残念ながら、モノは時空を遡って移動できない。私がいま操っているのは、脳内タイムマシンだよ。あなたが今いるのは、私の頭の中だ。脳内の思考は、どこにだって、ビッグバンの瞬間から宇宙の熱死の時まで、どこにだって自由自在に移動できる。とはいえ、自分の思考を自在に制御するのはなかなか難しくてね。というわけで、場所は正しいんだが時間を少し遡りすぎたようだ。ここは江戸時代のようだな。江戸時代以前は、このあたりは遠浅の海だったからね。江戸自体に、淡路島出身の商人が幕府に願い出て、このあたりを埋め立てて新田にしたんだ。津守新田と名付けた。何度も堤防が決壊して、なかなかの難工事だったようだよ。あっちの川は十三間川、反対側の大きな川
が木津川だ。江戸時代には、船場あたりの裕福な商人や大坂城に勤務する侍たちは、十三間川を船で下って住吉大社に参詣したんだよ。船の中には芸者衆も乗せていた。                             

 ずっと後になるけど、ジュンたちが住んでいた木造の長屋が鉄筋コンクリート4階建ての市営団地に建て替えられることになってね。まだジュンが小学高の低学年だった時代だね。その工事現場がジュンや私たちの遊び場所になったんだけど、最初に地面を掘り返した時に、貝殻がいっぱい出てくるんだ。ああ、昔はこのあたりは海だったんだなと感慨深かったよ。というのは今だから言えることで、あの頃は、さすがの私だって、ものを知らない子供だったから、地面を掘れば貝殻が出てくるもんなんだと、何の疑問も抱かなったんだけどね。りんごが落ちるのを見て、万有引力を発見したニュートンとえらい違いだが、ニュートンだって、子供の時にその事に気づいたわけじゃない。       

 話がそれてしまった。もともとは、この辺りは江戸時代の新田だったという話だったね。そう、昔は水田や畑がひろがる田園地帯だったんだ。それが、大正から昭和と時代が進むにつれて、中小の工場が集中する工場地帯に変わっていった。ジュンや私が生まれたのは、そんな町だったんだ。自然はなかった。川だって汚れていたしね。でも、空き地はまだあちこちにあった。ジュンが生まれたのは、戦後のベビーブームが終わる頃だったけれど、私が生まれたのは、その真っ最中だ。団塊の世代だ。とにかく子供が多かった。もちろん、コンピュータゲーム機なんてまだ影も形もなかったし、テレビさえ一般家庭に普及する前だったから、当時の子供は、みんな外で一緒に遊んだものだ。かくれんぼ、缶蹴り、胴馬、べったん、ばい、花いちもんめ・・・。こう並べても、あなたにはわからないだろうね。年寄りの回顧話につきあいたくもないだろうし。そうだ、さっき話した新田の話だけど、その新田開発を請け負った人の一族の墓がここの墓地にあるんだ。せっかくだから、ちょっと見物していきませんか。あなたのお祖父さんの墓はここにはないが、ここの火葬場で煙になったんだよ。小津安二郎の映画『小早川家の秋』の最後の場面みたいにね。」

 そう言われて、一緒に、人気のない小さな火葬場のある墓地に入り、私が、その教えられた墓を探して歩いている間に、その運転手はいつもまにか姿を消していた。その謎の運転手が、今度は、千本松渡しの船頭として再び登場したのである。対岸から来た乗客達がみんな降りた後、わたしは渡船に乗り込んだ。こちら側から乗ったのはわたし一人だった。船頭は、わたしに向かってこう言った。あいかわらずキザでペダンティックな台詞だ。             
   
 「人間は、現実と夢の世界を往還して生きている。だから、他人を理解しようとすれば、その人間がどんな夢を見ているのかを知らなければいけない。でも、現実もまた夢の一種ではある。これは荘子以来変わらない真実だ。それはそうと、あなたはさっきからずっと聞こえている音楽に気がつかないようだね。(渡し船にもBGMがあるの?)ああ、やっと気づいたようだね。そう、バッハのカンタータ第140番だ。「目覚めよ、とわれらに呼ばわる物見らの声」。この音楽がどういう意味なのか覚えているね。」

 そこでわたしは本当に目覚めた。そして、その謎の運転手や船頭さんが誰だったのかもわかった。洪先生だ。父の幼なじみで先輩の精神科医。在日の人で、子供の頃は徳山くんと呼ばれていた。勉強ではいつも父より遙か先を進んでいて、東大の医学部にストレートで入学した秀才。今は、マッド・サイエンティストと呼ばれている。その洪先生の、私はいま実験台になっていたんだった。

 原因不明の長期の眠りに陥ってしまった父を覚醒させるために、あらゆる方法が試されたが、どれも効果を見せることはなかった。後は、洪先生に頼るしかなかった。洪先生の方法は、娘として、父と共通した脳波を持つ私が、父の傍らで眠って、父の夢の中に入り込み、父の夢の中から覚醒を呼びかけることだった。しかし、洪先生によると、睡眠中に私の脳波に乱れが生じ、このまま放置すると危険なために、かねて覚醒の合図に条件付けしていたバッハのカンタータを聴かせたのだが、それでも、わたしはなかなか目覚めなかったという。

 でも、洪先生。もう少しだったんです。あの千本松の渡し船に乗ったら、対岸にきっと父がいたに違いないんです。その対岸こそ、父の夢の世界への入口だったんです。だから、もう一度、夢の中に入らせてください。

    

                 ***
                                       
 父の草稿はここで終わっています。これで完結しているのか、これからまだ続ける予定だったのかはわかりませんが、あきらかに失敗作ですね。なによりも、長い眠りをテーマにしたところなんて、「虎とホーキ星」の影響のもとに書かれていることが明らかだし、娘の私をこんな風に描いていて、公表できるわけがありません。でも、自分が脳死状態になって、その原因究明と治療のために、一人娘が自分の夢の中に入ってくるなんて物語をどうして発想したんでしょう。SF好きだった南おじさんの影響かな。南おじさんは、こんな変なバカ話が大好きだったから。あるいは、「虎とホーキ星」が南おじさんの霊に捧げられた、ファンタジー風の小説だったから、父はそれに対抗しようとしたのかもしれません。あるいは変奏曲風の小説を書こうとしたか。

 それはともかく、勝手に登場人物にされた私としては、私と安川さんのことを父が気づいていたらしいことが一番の衝撃でした。どうしてなんでしょう。まさか、母から聞いたわけはないし。だって、別れた妻と連絡なんかしませんよね、普通。謎です。希美子おばさんはどう思いますか。おばさんのご意見を聞かせてください。この小説の感想だけじゃなく、父が私と安川さんの関係を知っていたかどうか。ひょっとして、父に安川さんのことを話したのは、希美子おばさんじゃないでしょうね。

                            まゆみ付記    
                                       

                                       

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