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チョン・ヤギョンなんて知らない 「第二回」

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 60歳での退職を決意した仙石さんがしたのは、定年に関する情報を収集することだった。まず本を読んだ。仙石さんは昔からブッキッシュな人間だった。とりあえず水に飛び込んで泳ぎを覚えるというよりも、教則本で水泳に関する理論を学んでから海や川に入るタイプだった。これは、幼い頃にいきなり兄に川に放り投げられて溺れそうになった経験からきているのだろう。それから、何か新しい事を始めるにはまず入門書を読む習慣ができた。そしてこの時に仙石さんが読んだのは、岩波書店から出ていた「定年後」という、そのものズバリの本だった。この本は、定年後の生活に関する百科事典のようなもので、定年後に必要になる各種保険、年金や税金などに関する知識と専門家によるアドバイスとともに、「私の定年後」と題した公募手記がたくさん収録されていた。それらの手記の中には、何か趣味のサークルに入って、できれば奥さん以外にガールフレンドもつくると良いという、後で考えると有益な事も書かれていたのだが、仙石さんがこの本を読むことにしたきっかけは、本の帯に印刷されていた、次のような文章のせいだった。「1日8時間×300日×40年の労働時間に匹敵する1日14時間(寝・食を除く)×20年間の自由時間。この第二の『10万時間』を充実させるための一冊!」 そうか、定年後の時間は人生の労働時間の総量に匹敵するのか。仙石さんはこれを読んだ瞬間に、今までと世界が違って見えてきたような気がした。定年後の人生は第二の青春どころじゃない、第二の人生そのものなんだ!


 この本を読んだ仙石さんが最初にしたことは、60歳で退職した後の生活費の計算だった。仕事をしないで暮らしていけるのか。予想できる退職金や預貯金、株式、不動産などの全財産を書き出し、定年後の年金や生活費の予想金額を算定して、80歳までの収支一覧表をエクセルで作成した。その結果、定年後の20年間、特に緊縮生活を送らなくても、80歳の時点で、家を売らなくても夫婦で数千万円のお金が残ることがわかった。これも、乃里子さんが仙石さんと同じ公務員で、一昨年に55歳で退職するまで役所勤めをしてくれたおかげだった。夫婦二人が公務員であったという事はとても恵まれたことだったのだ。最近の世間の公務員バッシングの風潮には抵抗を覚えるが、やはり恵まれた境遇にいたことは否定できなかった。仙石さん夫婦は、高額な遺産を子供たちや孫に残すつもりはなかった。大学の費用まで負担したことで、子供達への義務は十分に果たしたというのが二人の考えだった。幸いなことに、二人の子供は今までのところ問題をおこさず、長男はちゃんとした定職を持ち、長女は結婚した。もう親の援助は必要ないだろう。仙石さん自身は80歳くらいで死ぬつもりだった。もちろん、平均寿命がどんどん延びている現在、介護が必要な状態で90歳を越えて生きてしまうリスクがあるから、80歳時点で残るだろうお金はその時のための保険金だった。もちろん、これらは全て机上の計算である。これから大病にかかるかもしれないし、交通事故にあって半身不随になるかもしれない。乃里子さんにいきなり熟年離婚を申し渡されるかもしれない。でも、そんなことは心配しても仕方がなかった。仙石さんは、作成した定年後収支計画表をながめて、ほっと安堵のため息をついた。


 次に仙石さんが考えたのは、定年後に何をするのかという最も大切なことだった。仙石さん夫婦がその頃よく見ていた民放のテレビ番組に「人生の楽園」というのがあった。定年あるいは早期に退職した夫とその妻たちの第二の人生を紹介する番組である。全体としては、農業を始めた夫婦が多かった。故郷に帰る人が多いが、故郷のない都会人は、地方自治体などの何らかのツテを頼って田舎に移住して野菜や果物をつくる。奥さんは自慢の料理の腕を活かして亭主はそば打ち。農家民宿や小さな田舎のカフェを開業。全国の農村部で展開されているらしい、そんな話が毎週のように放送されていた。しかし、そんな生活は既に仙石さんの兄夫婦がしていた。仙石さんの父親は消防署を退職してから実家の農家を継いだし、つい最近亡くなった母親は小学校教師を50歳で退職してから、ずっと亭主の農業を手伝いながら陶芸を楽しんでいた。高校の教師になった兄は、これも教師だった妻と一緒にまさに「人生の楽園」的な第二の人生を故郷で送っているのだった。母や兄と同じことをするのは嫌だからと教師の道を選ばなかった仙石さんが、いまさら両親や兄夫婦と同じような道を選択することはできなかった。仙石さんは、見かけによらず、へそ曲がりの性格なのである。自分は両親や兄夫婦とは違った形の老後を送りたい。だから、仙石さんには第二の人生で農業をやるという選択肢はなかった。幸いなことに、乃里子さんにも農村暮らしをする気はなかった。仙石さんの兄は趣味が渓流釣りで、仙石さんにも定年退職したら一緒に釣りをしようと言ってくれている。兄は、仙石さんが県内の私大への進学を決めた時、あそこの文学部は良家の子女が多いから、なにごとにも晩熟な仙石さんがひるんではいけないというので、まだ童貞だった仙石さんをわざわざ遊郭(とは古い表現だが、昔遊郭だった建物でまだ営業していた)へ連れて行ってくれたほどの弟思いなのであるが、仙石さんにとっては感謝どころか今では忘れたい思い出になっているので、定年後にも、兄とはできるだけ距離をおいておこうと思っていた。


 早期退職を決意した仙石さんが読んだのは「定年後」だけではなかった。老年を主題にした小説も読んだ。かつて、S市役所で仙石さんの上司だった長谷部さんに教えられた本の中に、中村真一郎の「この百年の小説」があった。日本の近代百年の小説をテーマ別に分類して紹介批評した本だ。中村真一郎は、長谷部さんが尊敬する小説家にして優れた批評家で、プルーストと「源氏物語」を比較して論ずるような知識人でもあった。東大でフランス文学を講じたこともある。漢詩にも造詣が深く、京大の吉川幸次郎教授が後継者にしたがったとも噂される。そんな高級なインテリだから、長谷部さんの勧めがなければ、仙石さんが出会うことは決してなかったろう作家だった。その「この百年の小説」の中に、「老年」の項目があった。採り上げられていたのは、谷崎潤一郎「瘋癲老人日記」、武者小路実篤「真理先生」、獅子文六「父の乳」、川端康成「眠れる美女」、そして、伊藤整「変容」だった。これらの中で谷崎と川端の小説は、仙石さんも若い頃に読んだことがあったので、この時、仙石さんが選んだのは伊藤整の「変容」だった。歴史が好きな仙石さんは、これも長谷部さんの推薦で、同じ著者の何冊もある「日本文壇史」を既に読んで感心していたので、ちょうど良い機会だから小説も読んでみようと思ったのである。「変容」は、65歳でなくなった伊藤整の最後の長編小説だった。中村真一郎と同じく、伊藤整も小説家であり批評家でもあった。若い頃は詩人でもあった事でも二人は共通している。中村真一郎が仏文学、伊藤整が英文学が専門だということだけが違いだった。「変容」は、無思想だと批判された谷崎を擁護する評論を書いたことのある伊藤整が、老年と性について正面から書いた小説で、平野謙は伊藤整の最高傑作だと言っている。中村真一郎も、「恐らく近代日本の老人文学のなかで、最も衝撃的な内容の作品である」と書いていた。何が衝撃的なのか。主人公の画家は、老年の特権として、古い道徳感情を捨てようと決意する。自ら好色漢として生きることにした主人公が選んだ女性は、いずれも過去に関係があった三人の女性だった。その女性の二人までもが主人公より年上だった。つまり、この画家は、六十代の女性に対して性的な欲望を抱いたのである。それが中村さんの言う「かつてない衝撃」の内容なのだった。これを読みながら、仙石さんは、今では平均寿命がずっと長くなっているから、六十代の女性で魅力的な人はいくらでもいるよと思った。同時に、自分にとって過去に深い関係があり、今でも女性として魅力を感じる女性が存在するだろうかと考えて、奥さんの乃里子さん以外に一人も思いつかないことに絶望的な気持ちになった。しかも、現在の乃里子さんに性的な魅力を感じることはなかった。仙石さんは、これから好色漢として生きるなんて、小心な小役人として生きてきた自分には到底無理だと悟った。これからの長い老後の楽しみは、老年セックスの実践などではなく、恋の回想にふけることかも知れないと思った。女性経験はあまりに貧弱だけれど、片想いの記憶だけはたくさんあったから。


 仙石さんが「変容」を読んで感慨にふけったのは「老年の性」についてだけではなかった。主人公の老画家が懐かしい故郷を訪れて、過去に関係があった女性と久しぶりに会うシーンを読んで、あれ?これは、まるで「寅さん映画」じゃないかと思ったのである。実は、仙石さんは渥美清主演の「寅さん映画」が大好きで、48作全作品を見ているのだが、その中の17作目、「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」の物語が、まるでそっくりだったのである。映画では、宇野重吉演じる老画家が、故郷の小都市を訪れて、今は年齢を重ねた、かつての恋人と再会する。もちろん「寅さん映画」だから性的な描写は何もない。「変容」の舞台になった地方の小都市がどこかは何も記述がないが、仙石さんは、映画と小説は同じ場所を舞台にしているに違いないと思った。この映画のロケ地になったのは仙石さんが勤めるS市と同じ県内にある小さな城下町で、S市の広報を担当する事になった仙石さんは、S市と同じような規模と歴史を持った街が、「寅さん映画」のロケ地に選ばれて全国的に有名になったことを羨ましく思っていたので、「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」は特に印象深い映画だった。後に、S市でもテレビドラマや映画制作のロケ地選びに協力する組織ができたのだが、それは仙石さんの提案を上司の長谷部さんが採用したことがきっかけだった。それは仙石さんにとっても大事な思い出だった。だから、「変容」を読みながら、すぐにこの映画のことを思い出したのである。この映画は、「変容」が出版されてから7、8年後に制作されている。その時には、著者の伊藤整はすでに亡くなっていた。ひょっとして、山田洋次監督は、この小説をヒントにして映画の脚本を書いたんじゃないだろうかと想像しながら「変容」を読むことは、なかなか楽しい読書体験だった。小説は、作者と読者の共同作業である。読者には誤読の権利があるというような事を誰かが言っていた。長谷部さんかもしれない。だから、仙石さんがこの小説を読んでこんな感慨を抱いたことも間違ってはいないだろう。とうとう、ひとつも恋は成就しなかったけれど、晩年の寅さんは片想いの思い出には不自由しなかったはずだ。恋する寅さん。失恋する寅さん。恋が成就してしまうのを怖れて自ら身をひく寅さん。「変容」を読んだ仙石さんの感想は、自分の人生もまるで寅さんのようだったんだなという事だった。

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その夜、仙石さんの送別会が開かれた。S市は県庁所在地である大都市のベッドタウン、あるいは文教都市として知られる小さな街なので、駅の周辺にショッピングセンターや商店街があるだけで、大都市にあるような飲み屋街や夜の盛り場といったものはなかった。その夜送別会が開かれた料理屋は、日頃から市役所がひいきにしている三軒ほどしかない店の一軒だった。市役所からは歩いていけた。部の連中と一緒に、その夜の主賓として送別会に出席した仙石さんも、部員たちと一緒に歩いて会場に着いた。通された座敷で仙石さんが目撃したのは、当夜の幹事として先に来ていた児玉くんの横に座ってにこやかに笑っている杉本さんの姿だった。「杉本さん・・。 どうして貴女がここにいるの?」仙石さんは、そう言ったまましばらく呆然と立ち尽くした。杉本さんは、その時日本にはいないはずだったのである。それなのに、どうして今夜送別会があることを知っていたのか。誰が知らせたのだろう。幹事の児玉くんか?いや、今日、わざわざ杉本さんの名前を出した河鍋さんが怪しい。トイレで会った時、河鍋さんは、仙石さんが退職する前に杉本さんを自分に紹介してくれと言ったのである。仙石さんの頭の中で、そんな様々な考えが強風にあおられた風速計のようにグルグルと高速で回転した。


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 仙石さんが杉本さんと親しくなったのは、仙石さんの大学時代の友人の葬儀の式場で偶然出会ったことがきっかけだった。そこで「失礼ですが、仙石部長じゃないですか?」と声をかけてきたのが、市役所で何度か顔を合わせたことのある杉本さんだった。杉本さんは、いわゆる編集プロダクションの社員で、そのプロダクションは、競合コンペを経て発注先に選ばれて、S市役所の広報誌の制作編集と印刷作業を請け負っていた。市役所にとっては出入り業者の一人ということになる。その広報誌は市内の図書館や公民館、学校などの公共施設だけではなく、全国の他の自治体や団体にも配布されている。毎回の企画内容の斬新さや、気の利いた執筆者の選択、そして美しい写真やレイアウトと洒落たイラストなどが好評だった。彼女がS市に出入りするようになってから、もう3年目になる。仙石さんは直接現場作業にタッチする立場ではなかったから、それまで杉本さんとは個人的に親しく話をしたことはなかったけれど、担当者をまじえた飲み会に参加したことがあって、顔なじみではあったのである。知的で魅力的な女性だから、市役所の男子職員に人気があるのは当然だが、女子職員にも人気があったのはその飾り気のない人柄の良さのせいだろう。自分が美人だと気付いていない女性ほど魅力的な存在はない。仙石さんもかねて彼女に好感を持っていたが、発注先を決める権限をもつ部長という立場もあって、積極的に彼女に話しかけるのを躊躇していたところがあった。仙石さんが、部長職なんてつまらないと思い始めたのは、このこととも無関係ではなかったかもしれない。部長として市長と会議したり市議会に出席したりすることは、部長になるまでに想像していたほどには刺激的な仕事ではなかった。それよりも、管理職として、なんとなく現場の仕事から遠ざけられたような疎外感の方が、仙石さんには苦痛だった。たとえば、杉本さんのような有能で魅力的な外部スタッフを加えて、部員たちと一緒に広報誌の企画を考えたりする方がよほど楽しい毎日だろうと思っていたのである。それだけに、思いがけない場所での邂逅に一瞬胸が高鳴った。当然ながら、その日の杉本さんは初めて見る喪服姿だった。いつにもまして清楚な美しさが際だって見えた。仙石さんの鼓動はさらに早まった。

 「やっぱり仙石部長でいらしたんですね。こんなところでお遭いするなんて思ってもいなかったので驚きました。」「こちらこそ驚きましたよ 。実は、故人の南くんとは学科は違ったけれど大学時代の同窓でしてね。それに、彼の事務所とは役所で仕事上の付き合いもあったんですよ。でも、杉本さんはどうしてここに?」仙石さんは、内心の動揺と動悸をなんとか隠しながら杉本さんに尋ねた。最近ようやく身についた、市役所の部長にふさわしいと思える態度と声音で。人生は舞台人間は役者と言ったのは誰だったかしら。仙石さんは社会人になってから自分はずっと何かを演じているなと感じていた。主任、係長、課長、次長そして部長。役所内で出世する度に、違う役を演じているような気がした。もちろん、家族や友人に対してはできるだけ変わらないようにしていたが、それもまた演技のひとつだという気がしないこともなかった。仙石さんの内部にはいまでも幼稚園や小学生の頃、好きな女の子の前で顔を赤らめて何も言えなかった仙石少年がいるのだが、たった今、ちゃんと部長らしい受け答えができたことに仙石さんは心の中で密かに安堵した。


 「私、大学時代に今日喪主をつとめられた南希美子先生の教え子だったんです。南先生は長らく大阪の女子大の教授をされていたんですけど、出身校の京大時代の恩師が引退されて、その後任に望まれて京都の女子大に移られたんです。わたしはその京都での教え子の一期生でした。公私ともにとってもお世話になったんです。ここから近い谷町の先生のマンションにも何度か伺いました。亡くなられたご主人の南さんともお会いしたことがあります。知的でハンサムで素敵な方で、とても父と同世代とは思えませんでした。ちょっと憧れていました。ジムにも通ってるとかで、若々しくて健康には人一倍気をつけられていたから、まさかこんなに早くお亡くなりになるなんて想像もしていませんでした。膵臓ガンで一年以上闘病されていたことも知らなかったんです。ほんとうに驚いたし哀しいです。」
 それを聞いて、思いがけず杉本さんに声をかけられて以来の仙石さんの高揚した気持ちは、一気にしぼんだ。大学時代の悪夢が一瞬よみがえったのである。杉本さんまでもが南の魅力の虜になったのか。仙石さんは大学時代にまるで女子学生にもてず、それに反して仏文科にいた南さんは他学科の女子学生にまで人気のある学生だった。しかも仙石さんは当時唯一のガールフレンドだった女性を南さんに奪われたのである。これはずっと後になって誤解だったことがわかったのだが、それで過去が全て清算されるわけではない。南さんに対するコンプレックスから、今も仙石さんは解放されてはいなかった。だから、先ほども杉本さんの口から南さんの名前が出たとたんに、一瞬暗い気持ちになったのである。そうだ、あれは自分の誤解だった。南くんは軽薄な女たらしではなかった。ということは、杉本さんと南くんの間にも何もなかったはずだ。そんな風な思考がわずかの時間に仙石さんの脳内を一巡して、杉本さんとの思いがけない遭遇という今ここでの現実の喜びが、仙石さんの身体の芯の方から再び暖かく湧いてきた。一度エアポケットに墜ち入った飛行機がすぐに安定飛行を取り戻した時のような安堵感だった。仙石さんの脳内で、こんなに慌ただしい感情の下降と上昇の運動が繰り広げられていたことを知るよしもない杉本さんは、いつもの柔らかい知性を感じさせる優しい口調で仙石さんに尋ねた。
 「ここは一般参列者用の席ですけど、部長はS市役所を代表してこられてるんじゃないんですか?」 「いや、今日は個人の立場で参列してるんですよ。役所は弔電だけで香典は出さない。もっとも今日の社葬は香典辞退らしいけれど。それに、もともと南くんは前の市長の気に入りでね。今の市長は前市長の全てを否定している人だから南くんの会社とはもう付き合いはないんですよ、なんて内輪の話を貴女にしても仕方ないか。今のはここだけの話。」 そう仙石さんは苦笑いをしながら応えた。そしてすぐに後悔した。イケナイイケナイ。軽薄なおじさんの余計なおしゃべりは嫌われるぞ。ここは葬儀会場だ。でも、以前から好意を持っていた若い女性が、肩がつきそうな距離で隣に座っているという事実が仙石さんの気分を高揚させていた。そんな中で南さんの葬儀は始まった。

 その社葬は大阪市内の四天王寺に近い寺町で行われた。現在の大阪市域の大半は、かつては南から北へ突き出すような半島によって外海と隔てられた内海だった。京都や奈良方面から流れてきて複雑に枝分かれした川によって運ばれてきた多量の土砂によって内海は葦のしげる湿地帯となり、やがて人間によって埋め立てられて陸地になった。昔半島だった土地は現在の上町台地になった。その地名とは違って全体的に平坦な地域である大阪において、この上町台地の周辺のみに風情のある坂道が今もある。聖徳太子が建立した四天王寺はこの台地の南端部にあり、難波宮から蓮如の大坂(石山)本願寺を経て秀吉の大坂城へとつながる巨大な建築物はこの上町台地の北端に建設された。その秀吉の時代から徳川の時代にかけて、上町台地にはさまざまな宗派の寺院が集められて寺町を構成することになった。南さんの葬儀が営まれた寺は、そんな一画にあった。仙石さんは知らなかったのだが、南さんが住んでいたマンションもこの近くにあった。この寺は、南家の先祖代々の寺ではなかったけれど、寺の住職が建築家でもあるという関係で、南さんの会社の共同経営者である建築家の安川さんと親交があり、安川さんの紹介で南さんがここを墓所に決めたのだという。こういう事情も仙石さんは安川さんから後に聞いた。仙石さんは市役所に南さんと一緒に何度か来た事がある安川さんとも旧知だった。南さんと安川さんの会社はS市役所と取引がなくなっていたけれども、今回の葬儀の場所と日時などについては、安川さんが仙石さんに個人的に教えてくれたのである。勝手のわからない地域だったので用心して早めに寺に着いた仙石さんに、安川さんは、南さんの未亡人である希美子さんを紹介してくれた。奥さんが大学で国文学を教えていることは生前に南さんから聞いていたが、この時が初対面だった。これはほとんど個人的な事は話さなかった南さんではなく安川さんが教えてくれた事だが、同い年の二人は晩婚だった。南さんと希美子さんは中学校の同窓生だったが、交際し始めたのはずっと後年の、二人が三十代の後半になってからの偶然の再会以後だったそうだ。二人の間に子供はいない。希美子さんを初めて見た仙石さんは、ちょっと見とれてしまった。一般的に喪服の女性というのは魅力的に見えるものだが、それでも彼女は特別だと思えた。ついつい現在の乃里子さんと較べてしまった。仙石さんは少し動揺した。南くんはこんな美人の奥さんを持っていたんだ。しかも大学の教授。なんとも羨ましい。でも、こんな魅力的な女性を一人残して早死にしちゃいけないな。南くんも罪なことをしたものだ、仙石さんはそう思った。希美子さんが葬儀屋さんに呼ばれたので、仙石さんは一人で参列者の席に座った。荒川くんや高瀬くんなど、大学時代の南さんのグループの連中が現れると思っていたのだが、誰も来なかった。どうやら彼らは二週間ほど前の密葬の方に参列していたようで、この日の社葬には来ないのかもしれなかった。葬儀会場には他に仙石さんの知っている顔はなかった。葬式が始まるまで、所在なげに一人で一般参列者向けに用意されたスチール椅子に座っていた仙石さんは、そんな時に思いがけなく杉本さんに声をかけられたのである。      

                            (つづく)


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退職老人。旅行が好き。建築と街歩きも好き。本を読むのが好き。書くのも好き。25年間「神須屋通信」という自分のホームページに雑文を書いていました。サイトを引越して、今でも続けています。このnoteには、それ以外の小説やエッセーのようなものを、ぼちぼち、発表しようと思います。

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