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チョン・ヤギョンなんて知らない 「第八回」



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 仙石さんと杉本さんは、韓国語の個人授業(仙石さんは「デート」だと思いたがっていたが、)だけをしていたのではなかった。何度か会ううちに、互いにすこしずつ自分の過去や現在の生活について話すことになった。そして、年齢差や社会的立場を越えて、互いの心の距離をせばめていった。少なくとも仙石さんはそう信じた。しかし、いろいろと話をした後で、話題が仙石さんのS市役所での仕事に移った時、仙石さんがまず話題にしたのは長谷部さんの事だった。長谷部さんは仙石さんに大きな影響を与えた元上司だが、S市の元市長でもあって、当然、杉本さんもよく知っていたから共通の話題になりえたのである。仙石さんは自分自身の役人生活のことを話す前に、まるで時間稼ぎをするように、長谷部さんにまつわる話をした。

 長谷部さんは元々は県庁からの出向の身分だった。京都大学の法学部を卒業して県庁に入り、将来を嘱望されていたというが、何か問題があって、エリートコースを外れてS市に出向になった。噂によると、給料はずっと県庁から出ていたらしい。だから、真偽は不明だが、S市の職員よりも高級取りだった。でも、もう県庁に戻ることはないだろうというのが、定期異動で仙石さんが長谷部さんの部下になった時に、役所内部の諸事情に詳しい河鍋さんが教えてくれたことだった。長谷部さんは市役所においては遣り手で通っていたけれど鬱陶しがられる存在でもあったから、仙石さんは長谷部さんの部下になることが決まった時には、正直なところ気が進まなかった。でも、実際に接してみると、それは全く間違った印象だったのである。長谷部さんは、確かに有能で仕事には厳しかったけれども、とても優しい人だった。そして大変な読書家であり、多趣味多芸の人でもあった。それになによりも、女子職員にとても人気があることが意外な発見だった。 その人気の秘密はしばらくしてわかった。S市役所だけではなく、当時の一般的な職場では、女子職員が朝早く出勤して男性職員全員の机の上を拭き、始業時間にはお茶を出すことが当たり前に行われていたのだが、長谷部さんはこれを止めさせたのである。机は男子職員も自分で拭け。お茶が飲みたければ自分で淹れなさいと言って、自分でもそれを実行した。男女雇用機会均等法が成立する前のことである。


 その頃の長谷部さんは企画広報部の部長になったばかりだった。この部署は、S市役所におけるエリート部署だとされていた。仙石さんは、長谷部さんの口添えによってこの部にスカウトされたのである。それは仙石さんがS市の職員になってから5年目のことだった。どうして長谷部さんの目に留まったんだろう。仙石さんには心当たりがあった。乃里子さんと知り合ったものとは違う、役所の有志で行ったスキー合宿だった。(こうして振り返ると、仙石さんの人生には実にスキーが影響している。)スキーが得意だった仙石さんが、長谷部さんにコーチしたのである。多芸多才の長谷部さんもスキーは初心者だった。スキー合宿の夜、二人とも酒に強く、それに読書、特に歴史小説や時代小説が好きだということがわかった。他にも大勢いたのに、二人は酒を飲み交わしながら好きな小説の話に時間を忘れた。仙石さんは司馬遼太郎や海音寺潮五郎、長谷部さんは藤沢周平や池波正太郎の話を多くした。特に、池波正太郎の「剣客商売」の主人公である秋山小兵衛が、若いおはるという女性を後添えにして隠居しているのを羨ましい、老後の理想の生活だと長谷部さんが言ったのが記憶に残った。当時の長谷部さんはまだまだ壮年だったし、家には才色兼備と役所内で評判の奥さんがいたからである。その時には仙石さんはまだ「剣客商売」を読んでいなかったのだが、読んでみて、まだまだ働き盛りの長谷部さんが、隠居老人を主人公にしたこの小説を愛する気持ちがちょっと不可解だった。それからしばらくしてからの話だが、仙石さんが乃里子さんと結婚するに際して、長谷部さん夫妻に仲人を頼んだ時に、仙石さんは長谷部さんの奥さんに初めて会った。その時には、長谷部さんが県庁のエリートコースを外れた原因が、当時、人妻だったこの奥さんとの禁断の恋にあったという噂話を知っていたから、緊張しながらも興味を持って観察したのだが、とても魅力的な女性で、長谷部さんが後妻のことを考える理由がますますわからなくなった。まだ若い仙石さん自身が「剣客商売」を読んだ時、仙石さんが感情移入したのは主人公の秋山小兵衛ではなく、息子の大三郎の方だったから。


 長谷部さんの部下になった仙石さんは、それまで読んだこともなかったビジネス書の類まで読むようになった。これも長谷部さんの影響である。長谷部さんは、ありとあらゆる本を読んでいたが、ビジネス書も例外ではなかった。そして、マネジメント、つまり経営学の大家として日本でも尊敬されていたドラッカーの熱心な読者だった。長谷部さんによると、ドラッカーは現代の孔子なのだという。明治国家の経済発展の基盤をつくった澁澤栄一が「論語と算盤」と言ったのは有名だけれど、マネジメントというのは単なる組織運営や金儲けの技術なのではなくて、昔ながらの経世済民の学の現代版であって、ドラッカーの著書は現代の「論語」なのだ。まがりなりにも大学で東洋史を学び、老荘びいきではあっても、孔孟にも親しんできた仙石さんは、この解説にすっかり説得された。さすがに長谷部さんは人を乗せるのがうまい。それにしても、一般企業ならともかく、地方公務員である長谷部さんが、どうしてドラッカーを読むのか。それも、仙石さん自身がドラッカーを読むようになってすぐに分かった。ドラッカーは、営利を目的とした企業よりも、非営利の組織にこそ、優れたマネジメントが必要なのだと力説していたのである。どうやら、ドラッカーの理想の組織はNPOだったようだ。長谷部さんは、市民の貴重な税金で運営されている組織だからこそ、そのお金を可能な限り効率的に使用して、最大限の効果を出さなければならない。その為の方法論がドラッカーのマネジメントなんだよと言った。この話題が出たのは、南さんらと一緒に飲んでいた時だった。以前、杉本さんに南さんの思い出話をしようと、色々と回想していた時に、このことを思い出したのだが、その時は、話題がいきなり朝鮮のことになったので、杉本さんに話すことができなかったのを、この時、やっと話せたのである。それでも、仙石さんは南さんの名前は出さなかった。自分よりも前に杉本さんと親しくしていた南さんへの嫉妬なのかもしれない。南さんは既に死んだ人だし、今こうして杉本さんと楽しく会話しているのも、元はと言えば、南さんの葬儀で偶然出会ったからだったのに、いや、だからこそ、杉本さんの前で南さんの名前を出したくはない仙石さんだった。

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 仙石さんの「長谷部話」はまだ続く。もちろん、全てを杉本さんに一度に話したわけではなくて、何度か別の時に話した内容や、言おうとして結局は言わなかったことも含めて、今こうしてまとめて書いているわけだが、いつかの酒の席で、仙石さんは長谷部さんに老子の話をした。杉本さんに、その時の話をした。専門の法律はもちろん、クラシック音楽や哲学やSFや自然科学の知識を含めて、博識で何でも知っている長谷部さんに仙石さんが対等に話せる話題は、世間で司馬史観と呼ばれる、司馬遼太郎の小説や随筆に表現された歴史認識についての話と、高校時代から愛読してきた、「老子」「荘子」についてくらいしかなかったからである。といっても、その時仙石さんが話題にしたのは、教科書にも出ているような有名な話だった。「老子」の最後からひとつ前の章に出てくる「小国寡民」の話だ。「隣国相望み、鶏犬の声相聞こえて、民は老死に至るまで相往来せず」という例のやつだ。現代では一種の愚民思想として評判が悪いようだが、仙石さんは、「民はよらしむべし。知らしむべからず」という愚民思想は孔孟の儒教の系譜であって、老荘思想は自らを高しとする傲慢さはないかわりに、民の安寧への責任感もない絶対自由のアナーキーな思想だと理解していたので、あえて、孔孟の徒である長谷部さんを挑発した面もあった。S市の前身は江戸時代の城もない小藩だった。S市も、もう一度江戸時代に戻って、老子の言う小国として、地産地消の独立した自治政府としてやっていけないものでしょうか。仙石さんは、そう長谷部さんに問いかけた。もちろん、その時は長谷部さんが将来市長になるなんて想像もしていない。その仙石さんの問いに対して、長谷部さんは否定しなかった。でもこう言った。陶淵明の桃源郷は昔から中国や日本の知識人の理想だったけれども、そんな世界が現実に実現したことは一度もない。今の人間が江戸時代を理想化するのも似たようなものだ。とはいいながら、僕は昔から「廃県置藩」論者だ。今の地方自治はちっとも自治じゃない。国や県の下請けに過ぎない。だいたい、独自の予算というものがないからなあ。仙石くんの好きな司馬遼太郎も、維新という革命を成し遂げて明治国家を築いた武士は、江戸時代という封建主義が生み出した傑作だったと書いていたな。日本各地にそんな侍が存在したことが、明治維新の成功の鍵になった。朝鮮や中国で近代化が失敗したのは封建制じゃなくて中央集権だったからだと。それに、日本の地方文化の多様性というのも、間違いなく江戸時代の封建制の生み出した物だ。そんなことを長谷部さんは言った。自分が考えるような事はとっくに考えている。しかも、司馬遼太郎もちゃんと読んでいる。やっぱり長谷部さんには敵わないなと仙石さんは思った。そんな風に、上下の関係抜きに自由に議論をかわせる長谷部さんという尊敬すべき上司を得た仙石さんは、いつのまにか、地方公務員こそが自分の天職だったと思うようになったのである。

 「それなのに、仙石さんが60歳で定年退職を願うようになったのは何故なんですか?」
と杉本さんがたずねた。仙石さんはしばらく考えて、こんな風に答えた。まず、長谷部さんが上司ではなくなったことがある。長谷部さんはS市の市長になった。そのことがまず仙石さんにとっては衝撃だった。自分こそが長谷部さんに最も信頼されている部下で、結婚式の仲人までしてもらったと自負していたのに、政治家への転身に際して、長谷部さんから一言の相談も受けなかったからである。長谷部さんが出馬を決めた時には、長谷部さんは既に直属の上司ではなくなっていたし、もちろん、仙石さんは現職の公務員だから、立場上、長谷部さんの選挙運動の手伝いはできなかったけれでも、こんな話があるという事くらい知らせてくれてもよかったのではないか。仙石さんはそう思った。なんだか、あんなに尊敬していた長谷部さんに裏切られたような気がしたのである。長谷部さんへの失望はまだ続いた。市長後継者はともかくとして、次長から部長、部長から助役へと、ひょっとして、長谷部さんが引き揚げてくれるのではないかという淡い望みも潰えた。人間なんて自分勝手なものである。いかに謙虚な人であっても世間の評価よりも自己評価の方が高いのが通例だ。仙石さんもその例外ではなかった。出世なんか興味がないと奥さんの乃里子さんにも河鍋さんら友人にも公言していながら、ついつい同期と比べてしまう自分がいた。長谷部さんが市長になった時、仙石さんはまだ部長になれていなかった。次長のままだった。市長には役所の人事権はない。そんなことはわかっているのに、仙石さんは市長になった長谷部さんに不満を抱くようになった。市長として多忙な長谷部さんと仙石さんが直接会うこともなくなった。


 長谷部さんは市長を二期つとめた。名市長だと言われた。ひょっとすると、県知事にもなれるのではないかと思われた矢先にスキャンダルに見舞われて、県知事はもちろん、市長の三期目も不可能になった。スキャンダルとは女性問題である。公費での海外出張中に、秘書の女性と不適切な関係を持ったというのである。週刊誌にそのネタを売り込んだのはその秘書の亭主だった。長谷部さんは疑惑を否定したが、いまもって真相はわからない。かつて、長谷部さんを自分のロールモデルだと思っていた仙石さんは、そんな長谷部さんの様子を一歩離れて冷静に見ていた。仙石さんに出来ることはなにもなかったから。もちろん、自分の仲人をしてくれた人だから何もしないわけにはいかない。でも、市役所の次長という立場があったから、表だって長谷部さんを擁護することはできなかった。代わりに乃里子さんを、長谷部さんの奥さんのところに見舞いに行かせただけだった。皮肉なことに、もうこのまま次長で定年を迎えるのではないかと思っていた仙石さんが部長に昇格したのは、長谷部さんが市長を辞めた直後だった。そして、その頃から仙石さんは60歳で役所を辞めようと考えはじめた。局長職のないS市役所では部長が市職員としての最高位である。ゴールに到達してしまった。そして、市会議員の機嫌をとる以外に、部長にはほとんど仕事がなかった。いや、仕事はあったけれども、決裁書類に判子をおしたり会議に出たり、部下を査定したり訓辞したりすることは、仙石さんの考える仕事ではなかった。部長には市長や助役を補佐する役割もあったが、長谷部市長はもういなかった。三十数年間大きな瑕疵もなく、無事に定年を迎えるのは、それはそれで立派なことではある。世間では、公務員なんて誰にでも勤まる楽な職業で、そのくせ高給をとっていると思っている人が多いようだが、どうしてどうして、そんなことはありません。倒産の心配や、不況で解雇される心配がないのは事実だが、決して昼寝ができるような安穏な職業ではない、仙石さんは大学時代の仲間などに聞かれるたびにいつもそう言っていた。そもそも、仙石さんが社会人になった頃には、定年は55歳だったのである。仙石さんの父親も55歳で定年を迎えた。いくら平均寿命が延びたといっても、60歳まで働いたら充分じゃないか、仙石さんはそう考えるようになった。仙石さんがS市役所に就職した頃に10万人をちょっと越えた程度だったS市の人口は、最近頭打ち状態になったけれども、20万人に近くなった。人口が増えたと言うことは、S市が住みやすい自治体だということだ。自治体の人口の増加と企業の売上の増加は比較できるものではないが、仙石さんにとっては、これが30年を越える役人生活の成果として、それなりに満足できることだった。

 そんな風に、長谷部さんとの思い出話をしながら、仙石さんは自身の公務員生活や現在の心境を杉本さんに話した。それらは自分自身の娘である里香さんにさえした事がなかった話だった。今までにこういう話をした相手は河鍋さんだけだった。自分の娘のような年齢の杉本さんにどうしてこんなことが話せるんだろうと仙石さんは自分ながら怪訝さを感じたほどだった。河鍋さんなら、それはお前に下心があるからだとハッキリ言っただろう。下心ではないと仙石さんは考えていた。そんな邪心があるのなら、妻子との不和や家庭での孤立などをそれとなくほのめかして、杉本さんの同情を買おうとしていただろう。仙石さんはそんな話は一切しなかった。

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 これらの「デート」において、当然ながら、いつも仙石さんが一方的に話していたわけではない。杉本さんもまた、仙石さんに打ち明け話をしたのである。それは仙石さんを驚かせる内容だった。ひょっとすると、仙石さんが勝手に想像した話も混じっているかもしれない。人は、因果関係のはっきりしない断片的な情報を得ると、勝手に頭の中でストーリーをつくってしまうことがある。その方が記憶しやすいから。偉人たちの伝記や国の歴史だって、実際はそのようにしてつくられたのかもしれない。それはともかく、何度かの機会に分けて少しずつ話された杉本さんの話の断片を仙石さんが頭の中で整理すると以下のようになる。


 杉本さんには、4分の1、韓国人の血が流れていた。彼女の父親の母親、つまり父方の祖母が韓国人で、父親は日韓の混血児だった。戦前、杉本さんの祖父は韓国南部の木浦という町で内科医をしていた。日本内地の医科大学で教育を受け、父親の営んでいた診療所の若先生として木浦に戻ってきて間もなく、韓国人の女性と結婚した。二人は幼なじみだったそうだ。いうまでもなく、当時の韓国は日本に併合されていたので、その女性は建前としては日本人だったわけだが、当時においても、日本人と韓国人が結婚するのはかなり覚悟のいることだったそうだ。これは、日本側だけではなく、韓国側からみてもそうだった。杉本さんのお祖母さんは両班の家柄の出身だったから、日本人の医者と結婚することには、家族や親族らの強い反対があったという。愛し合っていた二人は、そんな困難を乗り越えて結婚した。子供も生まれた。可愛い女の子だった。そんな幸せだった家族に大きな試練が訪れた。日本が戦争に負けたのである。一家は、着のみ着のまま、日本に引き揚げることになった。初代の院長である父親と母親は、当時日本人がたくさん住んでいた木浦の日本人たちに請われて、日本から韓国南岸部の木浦に来て医院を開業した人たちだったが、二代目の一家は、韓国人の奥さんを含めて、全員が韓国生まれだった。学生時代を日本で過ごしたり、日本内地旅行をしたりした経験はあっても、戦争に負けて荒廃した日本に住むことは、特に、韓国人だった杉本さんの祖母にとっては、大いに不安だったろう。初代の院長夫妻と二代目院長の家族の計5名は、親戚のいる京都に落ち着いた。京都は空襲を受けなかったから、他の大都市に較べると恵まれた地域だった。一家は、そこでささやかな診療所を開業した。まもなく若夫婦に二人目の子供が生まれた。今度は男の子である。将来、杉本さんの父親になる人だった。二代目は、その子にも医者となることを期待したが、どうしたわけか、その子は医学の道に進むことを拒否した。結局、長女が医者になり、診療所の跡継ぎになった。医者になることを拒否した杉本さんの父親は、大学の進学も拒否して、高卒で警察官になったそうだ。それも、地元の京都ではなく隣の県の警察に入った。当然、家を出た。そこで、警察官をしながら夜間大学にも通って法律の勉強をしたという。大学卒業の資格を得たお父さんは、その後、順調に昇進した。何度か転勤を重ねてから、どこかの警察署の署長にまでなったそうだ。お父さんは警察官になった頃から両親とは疎遠になった。杉本さんも、その頃の父親と祖父母の間に何があったのか最近まで知らなかったという。祖父が医者だったという事さえも知らなかった。杉本さんが父方の祖父母のことを知ったのは大学生になってからだった。父方の祖父母は彼女が生まれる前に亡くなっていると聞かされていたので、彼女にとっての祖父母は母方の祖父母だけだった。父方の親戚には関心をもつこともなかった。でも、京都に父方の伯母さんがいるらしいという事は、いつの頃からか知っていた。その伯母さんが医者をしていて、京都市近郊の町で医院を開業していることは、京都の大学に進学することになった時に父から初めて直接聞かされたことだが、実はその前から、なんとなく知っていた。たぶん、母親からひそかに聞いていたのだろう。彼女が中学や高校に入学するたびに、京都の伯母さんがお祝いを贈ってくれたと聞いていたから。その伯母さんは母の姉ではないことは明らかだった。でも、なんとなくこの伯母さんの正体をたずねてはいけないと杉本さんは思っていた。杉本さんが京都の女子大学に合格して、京都市内に下宿することになった時、初めて父親から正式に伯母さんの存在を明かされた。大学入学に際してもお祝いをもらっていたので、その祝いのお礼を兼ねて、伯母さんの自宅に挨拶に行くことになった。杉本さんと母親が二人で行った。父親は行かなかった。伯母さんの自宅は医院とつながっていた。彼女が伯母さんの家に行ったのは、当然ながら、その時が初めてだった。それくらい、付き合いのない親戚だった。でも、それがきっかけで、京都市内に下宿することになった彼女は伯母さんの家を何度も訪れるようになった。そして、若き日の父親と祖父との間にどんな確執があったのかということや、祖母が朝鮮半島の出身者だったという事を知った。韓国生まれの伯母も日本で生まれた杉本さんの父親も、ともに日韓混血であり、杉本さんには、4分の1だけ、韓国人の血が流れていることも。杉本さんにとっては大きな驚きだった。でも、自分でも不思議なくらい平静に受け止めたし、自分が普通の日本人と違うんだという、なにか芝居の主人公にでもなったような昂揚した気分になったことも事実なんですと、杉本さんは正直に言った。その他にも大きな発見があった。自分が生まれる前に祖父母が死んだというのは嘘だった。まだ赤ん坊の杉本さんと、その祖母が一緒に写った写真が伯母さんのアルバムにあったからである。祖母は、祖父に内緒で、伯母の手引きで杉本さんの家にやって来たのだという。頑固な祖父は、孫が生まれたと聞いても、もう関係がないと言って、会うことを拒否したという。でも、この写真はちゃんと見ていたよと伯母さんは言った。それでも、祖父は赤ん坊の杉本さんに会いに来ることはなかった。杉本さんの父親も、孫の顔を父親に見せに行くことはなかった。杉本さんの父親の頑固さは祖父ゆずりだった。「最近の若い子は読んでへんかもしれへんけど、志賀直哉の『和解』っていう小説があるでしょう。父親と断絶していた息子が、とうとう和解してともに泣く話。あんなドラマは杉本家には生まれなかったんやね。」伯母はそう言って笑った。和解する前に、祖父は死んでしまった。先に祖母が死に、すぐ跡を追うようにして祖父が亡くなった。「私が生まれた時とお祖母さんが亡くなった時、チャンスは二回あったのに、父は祖父と和解しなかった。父は後悔したそうですよ。祖父が死んでから後悔しても始まらないんだけれど。でも、私と祖母との写真を祖父が見たことを知って、少しは救われたって伯母に言ったそうです。それなのに、父はそんなこと私に何も言わなかったんです。それどころか、京都の伯母さん一家ともその後つきあわなかった。私が京都の大学に行くようになった事が伯母さんとの姉弟関係復活のきっかけになるはずだったんですけど、父は急死してしまった。今となっては、父がどうしてあんなに頑なだったのか謎ですね。実際のところ、伯母さんにもわからないそうなんです。でも、伯母さんはこう考えているそうです。父が祖父母と絶縁したのは、その頃、看護師を目指していた伯母さんを医者にするためだったんじゃないかって。祖父は貧しい医者だったから、姉弟二人を医学部に進学させる余裕はなかった。だから父は、そもそも医者になりたかった優秀な伯母のために自分が悪者になって家を出たんじゃないかって。そうだったらいいんですけどね。」そう言った杉本さんの瞳は潤んでいるようだった。もっとも、仙石さんは、相変わらず、杉本さんとまともに眼と眼をあわすことはできなかったので、これは気のせいかもしれない。でも、杉本さんの声はかすかに震えていた。

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 自分の中に韓国人の血が流れていることを知った杉本さんが始めたのは、在日の作家たちが書いた小説を読む事と、韓国語を学習することだった。彼女が特に興味を持ったのは李良枝(イ・ヤンジ)だった。李良枝が34歳の時に、「由熙」で第百回の芥川賞を受賞したのは1989年だから、杉本さんはまだ小学校に入ったばかりだった。当然、彼女は李良枝の名前を知らなかった。大学生になって、日本文学を専攻するようになってからも知らなかったのは、李良枝が、芥川賞を受賞してからわずか3年目に、病気でなくなってしまっていたからだろう。「由熙」は、在日韓国人の若い女性が韓国に留学して、言葉もできず、習慣も違う周囲と馴染めずに、自分は韓国人なのか日本人なのか、それともどちらでもないのかと、アイデンティティに悩む物語である。仙石さんは、日本の多くの大人たちがそうであるように、普段は純文学など読まなくても、芥川賞受賞作だけは読む習慣が大学生の頃からついていたので、この自分よりも若い在日女性作家の作品も読んだことがあった。だから、杉本さんが李良枝の名前を出した時にもすぐに「由熙」の内容を話題にすることができた。杉本さんの尊敬の念のこもった(と仙石さんは思った)視線を感じた時、好意を持つ若い女性の前で、年長者の面目を保つことができて、仙石さんはちょっと得意な気分になった。こんなところで、若い頃の読書の効果が出るなんて。やはり、本はたくさん読んでおくべきである。そして、いまさらながら李良枝に関心を持った。その後、仙石さんが調べたところ、李良枝はソウル大学校の国文学科に留学して卒業している。留学中から小説を書き始めた。帰国後、(彼女は両親とともに帰化しているから日本国籍である。)日本で芥川賞を受賞した後も、執筆活動を続けながら、今度は梨花女子大学の大学院に留学して舞踏を専攻した。そしてその最中、早すぎる死が彼女を訪れたのである。


 韓国語の学習については、杉本さんは主にNHKラジオのハングル講座で勉強したそうである。彼女の通う大学には韓国語の講座がなく、学内には、韓国語を学ぶサークルも存在しなかった。韓国語の講座がある他の大学にそんなサークルがある事を知ったが、それらは宗教がらみだったり、政治がらみだったりして、彼女の気には染まなかった。やっと韓国語講座のあるカルチャーセンターを見つけたけれど、費用がネックになった。大学の学費は父親が亡くなってからも母親が出してくれたが、下宿の費用や生活費は、アルバイトをして、杉本さんが自分で支払っていたからである。その頃はまだ、韓国語を学習するということは特殊なことだった。「冬のソナタ」がNHKで放送されて、突然、韓流ブームがまきおこったのは、2004年、彼女が大学3年生の時だった。しかし、それらは主に中高年の女性たちの間でのブームであって、女子大生や女子高校生にまでブームが拡がるのは、後のKーPOPのブームまで待たなければならなかった。杉本さんがともに韓国語を学習する同年代の友人は存在しなかった。ちょうどその頃、突然父親を亡くした彼女は、それでも、一人でラジオ講座を聞きながら孤独に勉強に励んだ。それが自分自身のルーツを探るための唯一の道だと彼女は信じていた。京都の伯母さんの話を聞くだけでは不十分だ。自ら韓国に行って、祖母の足跡をたどろう。


 大学を卒業した彼女は、所属ゼミの教授だった南希美子教授の紹介で、京都の学術専門の出版社に勤めることになった。小さな出版社だったので、女性社員を正式採用する余裕はなく、アルバイトに近い嘱託社員として入社したのだという。韓国語の独習を続けながら、二年間ほど、その出版社に勤めた。その間、執筆の依頼の仕方、執筆者との交渉、編集、校閲など、いろいろな仕事を覚えた。かなり優秀だったようだ。年長の学者たちに愛される明るいキャラクターでもあった。そのせいか、正式に社員として採用したいという申し出が会社からあった。でも、彼女はその申し入れを断った。その理由は、ソウルに語学留学したいからということだった。
 彼女が語学留学したのはソウルにある成均館大学校だった。ちなみに、韓国では大学ではなく大学校と呼ぶ。成均館は韓国最古の大学校だった。その歴史は李氏朝鮮時代に遡る。日本で言えば、江戸の聖平坂学問所の歴史を受け継ぐといったところだ。「冬のソナタ」のペ・ヨンジュンが在籍した大学としても日本の韓流ファンには知られるようになった。杉本さんは、ここで一年間韓国語を学習して日本に戻った。日本で再び働いて資金を貯め、今度は、李良枝と同じ、ソウル大学校に留学するつもりだった。帰国した彼女は、かつて就職の世話をしてくれた南教授の元をたずねた。せっかく紹介してくれた職場を勝手に辞めてしまったことを侘びるつもりだった。それなのに、南教授は、留学資金を貯めるためと、彼女に新しい職場を紹介してくれた。正確には、教授の夫である南さんが紹介してくれた。彼の友人が経営する編集プロダクションの嘱託社員のポストだった。その編集プロダクションは、関西でも最大手の編集プロダクションであり、数多くの企業や団体の社史や周年史を編集したり、ショッピングセンターの消費者向け情報誌などを編集出版していた。いくつかの自治体の広報誌の編集も業務の一環だった。仙石さんの勤めるS市も、以前からの顧客のひとつだった。長谷部市長の置き土産でもあったS市の広報誌は、小さな自治体の刊行物なのに、県の広報誌にも負けないほど充実しているという評判だった。そして、その広報誌発行の責任者になった仙石さんと編集プロダクションから来た杉本さんが出会うことになったわけだが、そもそもの二人の出会いの背後に南さんの影があった事は、最後まで仙石さんは知らなかった。杉本さんが言わなかったからである。       (つづく)


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