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千本松渡し a story #5/6

    五、北村淳一のもう一つの遺稿

  希美子おばさんへ

  父の遺稿を読んでいただいてありがとうございました。さすがに専門家ですね。わたしとは読解能力が全然違います。でも、ちょっとずるい気がしました。だって、希美子おばさんは、私の知らなかった秘密を知っていたんですもの。祖父が自転車事故で亡くなったことは知っていましたが、その時に脳死状態になったことは、父も祖母も、ひとことも私には言いませんでした。ですから、希美子おばさんが書かれた事実の数々は初めて知ったことだったんです。東京から急遽大阪へ帰った父が病院へ着いた時、祖父はまだ生きていて大きく呼吸していた。父は、ベッドの横で、祖父に「頑張れ、頑張れ」と小さく声をかけた。でも、祖父のその呼吸は、人工呼吸器によるものだった。別室に呼ばれて、祖母と医師から、回復の見込みがないことと植物状態になる可能性を聞かされた父は、一瞬、途方にくれた。入院費用はどうなるんだろう。いったい、自分は東京の大学へ戻れるのか。いろいろな不安が一度に押し寄せて、父はその場にうずくまりそうになった。それでも、やっと覚悟を決めて、再び祖父の枕元に戻った時、祖父の血圧が急激に低下して、祖父は亡くなった。

 そうでしたね。その時に父は、祖父が自分の不安な心理を悟って、自ら死を選んだんだと思った。父親を殺したのは自分だと感じた。その後も、その罪悪感を忘れたことはない。とっても、悲しい話です。今、父が生きていれば、祖父が死んだのは、あなたのせいじゃないと抱きしめてあげたいほどです。でも、その話は本当のことなんでしょうか。この「夢のなかへ」が、父のそんな昔の体験を反映していることは間違いがないようですが、ちょっと、できすぎじゃありませんか。だいたい、一人娘の私にもしたことがないそんな秘めた話を、どうして父は希美子おばさんにしたんでしょう。それとも、南おじさんから聞かれたのでしょうか?

 ごめんなさい。思いがけない話を知って、ちょっと頭が混乱しています。この話は、今度お会いした時に、ゆっくりお伺いしたいと思います。今回のメールは、その事が本題ではなくて、父のもう一つの遺稿をお届けするのが目的でした。そうなんです。先日、「夢のなかへ」を発見した時に、もうひとつ、短い文章の断片を発見していました。希美子おばさんにとっては、こちらの方が関心がある文章だと思いますが、ふたつ一緒にお送りしては混乱すると思って、ひとつずつ送ることにしました。私を登場人物にした小説を断念?した父は、今度は、普通の回想記を書くことにしたようですが、(ファイルの保存日時を見てわかりました。)その冒頭部分は、またしても千本松から始まっています。おばさんには何度もご面倒をおかけして申し訳ありませんが、短い文章ですので、お読みいただければ幸いです。

                              まゆみ    
                                                        ✳︎✳︎✳︎


     「千本松から」 

                         北村淳一


  かつて父の亡骸を焼いた火葬場のある小さな斎場を出て、元の歩道をさらに歩き続けると、ループ状になった2階建ての高速道路のような、鉄とコンクリートの巨大な構造物が見えてきた。横のほこりっぽい車道は、そのループとつながっている。ループに消える車、ループから現れる車が、前方から後方から、わたしの横を何台もすり抜けるように、通り過ぎた。小型の運搬車や商用の車が多い。この辺りは、工場地帯である。わたしが歩いていた歩道は、車道からはずれて、ループの下をくぐった。両側を金網にはさまれた路地のようになっている。背の高い人が歩いたらぶつけそうなくらい、ループの低い部分は頭のすぐ上にあった。「頭上注意桁下制限高2M」という表示があった。少し歩くとループを越え、目の前に古びたコンクリートの堤防が現れた。この道は、堤防の鉄門の間を抜けて、川べりへ出た。その先に千本松の渡船場があった。すぐ横に、巨大なコンクリートの橋脚が聳えていた。その柱にそって目を上にやると、はるか頭上に、青龍のような千本松大橋の細長い橋梁部が見えた。橋を渡って往来する車は、短い距離で、あの高さまで登らないといけない。だから橋の両端が二層のループ構造になった。いつの頃からか、この橋は「めがね橋」と呼ばれるようになった。

 安治川から分離して、大阪市西南部の西成区と大正区の間を流れ、大阪湾に注ぐ木津川の両岸には、造船所や鉄工所、セメント工場などがつらなる工場地帯だ。木津川は、それらの工場に資材などを運び込む船が頻繁に航行する、大事な流通の経路だった。だから、川口に近いこの辺りは、長らく無橋地帯だった。千本松大橋ができたのは、1973年(昭和48年)のことだ。この橋が出来れば、千本松の渡船は廃止される予定だった。でも、自転車や歩行でこのループの道を上り降りするのは、体力的にも、時間的にも大変な事だった。住民たちの希望で、千本松渡船は、存続が決まった。                          

 私は、この渡船場からほど近いところで生まれ育った。私の父親は、毎日の朝夕、この渡船を使って勤め先の鉄工所に通って、私を育ててくれた。でも、父も私も、この千本松大橋の完成を見ることはなかった。私は、1969年に東京の大学に入るためにこの地を去り、父は、その一年後に死んだからだ。私が、この懐かしい千本松渡船場にやって来たのは、東京に転居してから初めてのことだった。もちろん、千本松大橋を見るのも。その間、40年という時間が過ぎていた。とりわけて蕪村や犀星を気取っていたわけではないが、もう、誰も身内の人間が住んでいるわけではない故郷に、足が向かわなかったのである。大阪に一人残された母は、一人息子の私の面倒を見るという口実で、父の死んだ一年後に、東京に出てきたからである。

 まったく思いがけなく、高校時代以来の友人が死んだ。まだ、59歳だった。高校時代に、一緒に「夏花」という同人誌をつくった仲である。私は主に短い小説を書き、彼は詩と評論を書いていた。あの頃は、いつも一緒に行動していた。私の家に彼を呼ぶことはなかったが、住吉大社の近くにあった、彼の家に遊びにいったことは何度もあった。立派なステレオセットとピアノがあった。私の通った高校は府立だったけれど、裕福な家庭の子弟が多く、豊かじゃない家庭に育った私は、コンプレックスを抱いていたんだろうと思う。私は友人が少なかった。だから、彼や彼が中心になって始めた「夏花」の同人たちとの交友は、当時の私にとっては、とても貴重なものだった。

 私たちは、東大入試が中止になった年に、大学を受験した。地元の国立大学を受験した彼は落第し、一浪の後、関西の私大の文学部に進学した。仏文学を専攻した。彼は、私たちの高校にゆかりがあった詩人、伊東静雄を尊敬していたのだが、立原道造のような建築家兼詩人になるのだと、建築学科進学を目指して理系のクラスにいた。だが、どうやら挫折したらしい。彼から、志望を変更したという短いハガキが来たが、詳しい説明はなかった。私もあえて尋ねなかった。東京と関西に分かれた大学時代には、年賀状を交換する程度のつきあいになったが、大学卒業後、彼が東京勤務になった頃から、つきあいが復活した。彼は、広告代理店に就職していた。私は、東京外大で中国語を専攻した後、彼より一年早く、新聞社に就職していた。その頃は、地方や海外に配属される前の研修期間で、まだ東京にいた。私も彼も、互いに仕事を覚えるのに必死だった頃だから、よけいに、気のおけない社外の友人の存在が貴重だったのだと思う。よく彼とは一緒に飲みに行った。いろいろな話をした。 

 彼と東京で再会して間もない頃だったと思う。話の流れで、最近何か書いているのと彼にたずねられた。大学時代、私は中国語に加えて朝鮮語もかなり熱心に勉強していたので、とても小説を書く余裕はなかったし、新聞記者になってからは、よけいに時間がなくなったよと答えた。そっちこそどうなんだと聞くと、彼は、自分には詩も批評も才能がないことがわかったから、もう何も書いていない。詩のかわりに広告のコピーを書こうと思って、今、コピーライターの学校に通っているんだと言った。コピーライターという職業が一般に知られてブームになる前の話である。その時、私は世の中にそんな職業があることさえ知らなかった。

 その後、いろいろな事があったが、彼とのつきあいは、私の海外赴任もあって、深くなったり浅くなったりはしたが、それからも切れずに続いた。彼は広告代理店を辞め、建築家と一緒に、街づくりのコンサルタントの会社を興した。違った形だが、少年の頃からの夢を叶えたのだ。彼の死の知らせは突然だった。ガンで入院していることも知らなかった。奥さんから知らせを受け、始発の新幹線に飛び乗って、大阪での葬儀にはかろうじて間に合った。これは、身内や本当に親しい少数の友人だけが参列する密葬で、会社の経営者でもあった彼の公式な社葬は後日、日を改めて行われるということだった。そんな密葬に、東京に住んでいる私にわざわざ連絡するかどうか奥さんは迷ったそうだが、知らせてくれてよかった。彼の死顔を見ることができたから。穏やかな顔だった。高校時代の彼の面影がよみがえった。

 葬式の後、急に思い立ってタクシーに乗り、千本松に来た。大学入学以来一度も来なかった場所に、どうして行く気になったのかというと、ここが、死んだ友との思い出の地でもあったからである。私は彼を、狭い団地である自分の家に呼んだことはなかったが、ここには一緒に来たことがあったのだ。二人が主になって発行した高校時代の同人誌「夏花」(この誌名は、伊東静雄の詩集からとった。彼の案だった。)に、私がここを舞台にした短編を発表したからである。彼がその小説の舞台を見たいと言ったので、土曜日の午後、一緒に自転車でここに来た。私はいつも自転車で通学していたが、彼はわざわざその日だけ、自転車に乗って登校した。彼はいつもは阪堺電車で通学していて、学校に登録していない自転車で登校する事は禁じられていたのだが、その日は見つかることはなかった。

 当時、私が「夏花」に書いた短編は、「千本松」という題名だった。なにしろ、ガリ版刷りの手作りの同人誌だったから、あまり長いものは掲載できなかったのだが、それでも、編集担当だった彼に長すぎると言われて、少し削ったことを覚えている。彼はSFのファンだったが、実際に書いたのは詩だったし、他の同人も俳句や短歌を書いていたから、長さのことを言われたら反論できなかった。それに、自分は悪筆だったから、ガリ版を自分で切るのを勘弁してもらっていたので、余計、そんなことは言えなかったのだ。この短編小説は、「夏花」に三回にわたって連載された。そして「夏花」は三号で終刊した。

 千本松の渡船場で彼と一緒に渡船に乗って、木津川を往復した。油の浮いた川の臭いは、やっぱり油っぽい感じがする。濁っていて見えないが、川底は泥だらけだろう。もちろん、魚なんか棲んでいなかった。それでも、小さい渡船に乗って、エンジンの音を聴きながら川を往復すると、なにやら開放感があった。ずっと両岸の工場地帯の景色を見ている南も、この小さな船旅を楽しんでいるようだった。                   
                                      「北村くん。君の『千本松』は本当に面白かったよ。それで、作品の舞台であるここを一度見たかったんだけど、あれは怖い話だったね。私小説じゃないのはわかるけど、いや、私小説だって、必ずしも事実を書いているわけじゃないのも知っているけど、でも、北村くん。ひょっとして、本当にお母さんを刺そうと思ったことがあったんじゃないの?」

 彼がこういう質問をするだろうことは、ここに来ることが決まった時から予想していた。その小説は、主人公の高校生が母親を刺した話だったから。でも、彼も他の同人たちも、この小説が「夏花」に掲載された時点では、不思議なほど、その事には触れなかった。作り話だと分かりきっていたからか、それとも、危なそうな話題だから避けていたのか。

「あれはあくまで小説の世界だよ。母親とぼくとの間は、ごく普通の関係だ。ぼくに姉がいて、小さい頃に死んだというのも、つくり話。もともとの「千本松」の構想では、川向こうに父親が愛人を囲っていて、その愛人に女の子が生まれた。その子が三歳になった時、妻、つまり主人公の母親がそのことに気づいた。自分になかなか子供ができないことでノイローゼになっていた妻は、その子を誘拐することにした。夫と愛人への復讐の意味もあってね。でも、その子と一緒に、千本松の渡船に乗った時、それまで大人しくしていた女の子が急に暴れ出して、川に飛び込んだ。船頭さんが川に飛び込んで引き揚げたけれども、女の子は死んでしまった。

 この出来事は事故として処理されたけれど、妻にも夫にも、そしてもちろん川向こうの愛人にも大きな心の傷を残した。妻は、その事件から間もなく妊娠して男の子を産んだ。その男の子は、死んだ女の子にそっくりだった。というような話だったんだ。でも、うまく人物造型ができなかった。それで、いろいろいじくっているうちに、今の形の、ぜんぜん違う物語ができたというわけだ。だから、もともとは、母と息子の物語でさえなかったんだ。どちらかというと、夫婦の問題。」

「ふーん、そっちの方が小説らしいな。面白い。ぜひ作品に仕上げてよ。いっそ、千本松渡しを舞台にした短編をいくつか連作風に書いたらどうだろう。ジョイスがダブリンを舞台にしていくつかの短編を書いたように。面白いものができそうに思うんだけど。それにしても、その第一作が、母に愛されない息子の物語になってしまったというのは、なにか奥に深い意味がありそうな気がするんだけど、それは、ぼくの邪推かな?」

 その時、彼は私の目をのぞきこんで、そういって笑った。人をひきこむような微笑だった。長身で垢抜けていて、性格も明るかった彼は、女生徒によくもてたが、あまり美人じゃない紅一点の女性を除いて、男ばかりの、わたしたち同人誌の仲間たちとつきあう事をいつも優先していた。女の子に縁がないわたしを気遣ってくれたのだろうか、一度、私に女生徒を紹介するような事さえしてくれた。それは、うまく行かなかった。私の内向的な性格のせいだ。

 「実はね、ほんとうは姉がいたんじゃないのかと疑った事はある。流産したのか、生まれてすぐに死んだのかどうかはわからないけれど。水子という言葉があるよね。流産とか、貧しさのせいで堕胎されたとかで、この世に出られなかった子供のこと。たぶん、その水という言葉から、この木津川を連想したんだと思う。自分で書いておきながら、たぶん、なんていうのはおかしいんだけれど、南くんならわかると思うけれど、小説や詩を書くというのは、構想を立てて筆記していくというより、書いているうちに、自分でも思いがけなかったような、着想が浮かんでくるというものだと思うんだ。」

 しばらく沈黙が続いた。次に私の口から出たのは、まさに、自分でも思いがけなかった言葉だった。

「僕は、昔から姉か妹が欲しかった。でも、母は、僕以上に女の子が欲しかったんだと思う。僕を見る母の目は、いつも、あなたはどうして女の子じゃないのと言っているようだった。母は、子供の頃からずっと、僕を愛していなかったし、今も愛していない。」

 いまこうして回想している、これらの千本松渡しでの会話は、本来は大阪弁でなされた。少年の頃に大阪を離れて、普段は標準語を使っている私も、たまに彼と会って話すときは、昔のように、大阪弁に戻る。当時はもちろん大阪弁で私たちは会話していた。でも、今回はあえて標準語で書いた。どうしてだか分からないが、この甘美な少年時代の思い出は、大阪弁で書くのにふさわしくない思った。何れにしても、彼は、当時、私がこんな告白をできるくらいの親友だった。そして、この友情は一生続いた。

    
  東京で再会した時、私には大学時代に知り合ったガールフレンドがいた。東京に来たばかりの彼には、まだそんな女性はいなかった。今度は、わたしが彼に女友達を紹介する番だった。私のガールフレンドは、その後、妻になった女性だが、彼女の友人にインテリア・デザインの勉強をしている女性がいた。その人は詩が好きで、広告コピーにも興味を持っているということだった。その人は在日二世だった。私と、後に妻になった女性が知り合ったきっかけは、在日の人達の指紋押捺拒否闘争を支援する会に参加したことだった。当時は、韓流ブームなどはまだ影も形もなかったし、知識人の間では、朴政権の軍事独裁に苦しむ韓国よりも、自主独立を謳う北朝鮮の方が評価されていた。私たちは、そんな時代に、その在日の女性と知りあって、友人になった。とても綺麗な人だった。彼女は、政治的な運動からは距離を置いていた。高価ではないけれど、いつも洒落た服装をしていた。服装だけではなく、全てにセンスの良い女性だった。日本で生まれ育ち、日本の学校へ行った人だから、日本人とちっとも変わらなかった。言葉も、歯切れのいい東京弁だった。彼女の愛読書は、サン=テクジュペリの「星の王子さま」だった。大学の卒論でサン=テクジュペリを採り上げた彼に、これ以上ふさわしい女性はいないと思った。四人でのグループ交際が始まった。それは楽しい日々だった。

                 ***
                                       
 残念ながら、原稿はここまでです。たぶん、ここまで書いて、続きをどう書き継ぐか構想している時に、おもいがけない死が父を襲ったのだと思います。それはとても残念なことでした。それにしても、父はこれから何を書こうとしていたんでしょうね。希美子おばさんは、ひょっとして、もうお分かりなんじゃありませんか? 
                              (まゆみ付記)
      

 


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