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中国の旅 #2

はじめての北京 1991年 (その1)

 上海から北京に飛んだ。どこの飛行機に乗ったのかは記録も記憶もない。やっぱり、中国東方航空だったのだろうか。たぶん一時間くらいで北京国際空港に着いた。今では、北京には複数の空港があるので、ここは北京首都国際空港という名前になっているようだ。北京中心部からは東北方向の郊外にあった。現在の空港は、私たちが行った時の3倍の広さに拡張されているというが、当時は、大阪の伊丹空港などとさして違わない、古ぼけた印象の平凡な空港だった。ここでも、空港から市街地に向かう道路の街路樹の立派なことに感心した記憶がある。種類はわからないのだが、樹木一本一本の幹が太くて枝ぶりも素晴らしい。どういうわけか、みんな根元に白いペンキか薬のようなものが塗られていた。

 北京も暑かったが、上海よりは乾燥していて過ごしやすそうだった。空港から北京の市街地に入って、まず連れて行かれたのは地壇公園だった。ここに、この日の昼食の会場である「方澤軒」があった。ネットで検索すると、この店は今でもあるようだ。当時はデジカメのない時代だから、なんでもやたらと写真を撮る習慣はなかったので、この時に何を食べたのかは記録がない。かなり凝った中華料理だったような記憶がある。アルバムには、方澤軒の宮殿風の立派な建物の前庭に蓮の花が咲いていて、そこで写した家内の笑顔の写真が貼ってあった。この方澤軒のある地壇公園というのは、かつて清代の皇帝が地の神に祈った宗教的な祭壇があった場所で、地壇は、紫禁城の南東にある天壇に対比される重要施設だった。私たちは、昼食に寄っただけだったので、史跡である地壇そのものは見物しなかった。

 昼食後に私たちが案内されたのは、天安門広場だった。2年前の、あの天安門事件の現場である。実に広大な空間だった。花崗岩が敷き詰められた広場には、最大50万人が収容できるという。世界最大の広場である。広場の周囲には、人民英雄紀念碑、毛主席紀念堂、人民大会堂、中国国家博物館などの重厚な建物が並ぶ、まさに、ここが中国の中心だった。しばらく広場を歩いて、記念撮影をした。その時、私は敷石の所々に傷跡のようなものがあるのに気がついた。きっと、戦車が通った後に違いなかった。何台も縦に並んだ戦車の前に一人立って、戦車の行く手を阻んだ若者の写真は、「タンクマン」として世界に発信され、あの不幸な事件の象徴になったが、あの若者が立っていたのは、この天安門広場ではなく、広場と天安門の間を横切る大通りだった。あのタンクマンのその後は、誰も知らない。

 天安門広場を見物した後、いよいよ、芥川龍之介が「夢魔」と呼んだ紫禁城に入った。現代では、世界遺産に指定されて、故宮と呼ばれている。芥川が北京を訪れたのは、この時からちょうど70年前だった。その時には、ラストエンペラー・溥儀は、まだ紫禁城内で生活していたという。私たちは、天安門をくぐったのではなく、故宮見学の入口である、巨大な赤い壁のような午門から入った。故宮内部は天安門広場よりも更に広大だった。数字を見ても想像できないが、72万平米あるという。広さだけで言えば、日本の皇居の方が広いそうだが、皇居は、バルトが言ったように空虚な空間であって、江戸城の時代とは違って、現在ではほとんどが森である。ここ故宮は、確かに広大な中庭もあるけれども、空間のほとんどは、黄色い瓦屋根と赤い壁を持つ無数の宮殿群によって、びっしりと満たされていた。9千の部屋があり、10万人以上が暮らしていたという。かつては、それらの建物は、人間だけではなく、ルーブルや大英博物館以上の文化財で満たされていたはずだが、それらは現在、蒋介石によって、ほとんど台湾に持って行かれた。しかし、中身は空虚であっても、こうして残された建築群そのものが人類の宝である。あまりにも広大なので、私たちが見物したのは、太和殿などの、かつての皇帝たちが執務をとった建物など、故宮のごく一部でしかなかった。それでも、かなりな距離を歩いて、当時はまだ若かったのだけれども、かなり疲れた。とにかく、「夢魔」がいるかどうかはわからなかったが、故宮は広かった。

 午門から故宮に入った私たちは、南から北へと進み、北門であり観光出口でもある神武門から故宮をでた。次に向かったのは、すぐ目の前にある景山公園である。ここから展望する故宮が素晴らしかった。屋根ばかりだが、故宮の全体を俯瞰できる、絶好の撮影ポイントである。また、ここ景山は、後に清を建国する満州族や李自成の反乱軍らに攻められて北京が陥落した際に、明王朝最後の皇帝である17代崇禎帝が首吊り自殺した場所である、とガイドは語った。悲劇の場所だったわけですね。明代の皇帝たちはとんでもない人物が多かったのだが、この崇禎帝はまともな人物だったと言われている。それだけに、その最後は痛ましい。彼の末期の瞳に映った故宮の姿はどんなものだったのだろう。

 北京での宿舎は長富宮飯店だった。ここも、ホテルニューオータニが経営する日系の高級ホテルである。当時は、まだ開業して間もない頃だったようだ。地下鉄の建国門駅の近くにあった。この近くには、日本大使館を含めて、各国の大使館が並んでいて、NHKの北京支局なども近かった。したがって、北京に駐在する日本人の多い地区だった。この夜の食事は、ホテルで食べた。何を食べたのか記憶はないが、西洋料理だった。

 翌日、ホテルでビュッフェ形式の朝食を食べた後、この日の観光に出かけた。北京は晴天だった。まず、バスで向かったのは、故宮と並ぶ、北京観光の定番中の定番である、万里の長城だった。ホテルから長城まで、かなり時間がかかったと思う。長城観光というと八達嶺が有名だが、私たちが連れていかれたのは慕田峪というところだった。こちらの方が空いていて、時間計算がしやすいという事だったと思う。八達嶺は北京市街地から北西の郊外にあるが、慕田峪はほとんど真北にある。距離的には慕田峪の方が遠そうだが、あまり違わない。慕田峪には、観光のためのロープウエーがあった。中国史に興味があってもなかっても、初めて万里の長城を見たら、その途方もなさに、誰もが感動するだろう。世界中で、ここにしかない雄大な景色だった。しかも、この長城は人力で建設されたのだ。長い歴史を痛感せざるを得なかった。長城の上に、北方民族の衣装を着たおじさんがいて、持っていた蛮刀を持たせてくれた。一緒に写真を撮ろうという。言われた通りしたら、お金を請求された。商売だったようだ。いくら払ったかは忘れた。でも、その写真はいい記念になった。

 長城見物を終えた私たちは、次に、明十三陵に向かった。北京観光では、この二つは今でもセットになっているようだ。明十三陵は、明代の代々の皇帝の陵墓である。長城と同じく、世界遺産に指定されている。明は、南京を地盤にした貧農出身の朱元璋が元(モンゴル帝国)を滅ぼして、14世紀後半に建国した国である。中国統一後は北京に都をおいた。永楽帝の時代に明は大い国力を充実させた。いわゆる鄭和の大航海によって、明は、アジアやインドを越えて、遠くアラビア半島とも交易をした。一般的に、明代の皇帝は極端に独裁的で、代々、名君よりは暗君の方が多かったと言われている。それでも、17代崇禎帝まで、約250年間も王朝は続いた。明十三陵には、北京に首都をおいた永楽帝以後の13人の皇帝や皇后らの陵墓がある。いずれも巨大な陵墓だが、私たちが見物したのは、その中の定陵だけだった。定陵は第14代万暦帝の陵墓である。この定陵は地下宮殿と呼ばれているそうだ。その名に相応しい石の豪壮な宮殿だった。とにかく巨大だった。飛鳥の石舞台などとは全くスケールが違った。ピラミッドの内部はこれに近いのかもしれない。この陵墓の主人である万暦帝とはどんな人物だったのだろう。彼の在世中に、秀吉が李氏朝鮮に侵攻した。宗主国として明は朝鮮に出兵して、朝鮮を援けたが、それによって、明の国力は衰えたと言われる。それ以前に、万暦帝はそもそも暗君だったようだ。特に後半生は、ほとんど後宮にこもりっきりで、25年間も政務を顧みなかったと言われる。明の崩壊のきっかけは、この万暦帝だったかもしれない。私たちの世代の人間は、万暦というと、志賀直哉の「万暦赤絵」という作品を思い出す。ここで言う、万暦赤絵というのは、この万暦帝の時代に景徳鎮で焼かれた赤絵の磁器のことで、日本では、骨董品として大変高価なものだった。万暦帝は政治家として無能だったかもしれないが、その時代の文化には、見るべきものがあったということですね。

 この日の昼食は、十三陵にあるレストラン「明苑賓館」で食べた。何を食べたのかは、例によって、記憶も記録もない。十三陵から市街地へ戻ってから、観光客向けの土産店である友誼商店に案内されて、ここで中国土産をいくつか買っている。会社の同僚らにバラまくための土産だったと思うが、何を買ったのか記憶がない。安物のボールペンかな。この夜の夕食は長富宮飯店で北京ダックを食べた。当時の簡単なメモによると、レストランの女性のチャイナドレスが色っぽかったと書いてある。中国女性の色っぽさにドキドキしたのは、上海の花園飯店ではなく、長富宮飯店での出来事だったのかもしれない。北京ダックについては、なんだ、こんなものかと思った記憶がある。何しろ、あれは、肉ではなく、薄い皮を食べるんだから。(つづく)


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