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チョン・ヤギョンなんて知らない 「第七回」


 第四章「丁若鏞とその時代」はこんな内容だった。丁若鏞は、1762年、英祖38年に京畿道で生まれた。牧使を務めていた父、丁載遠は、この年に隠退している。兄が二人いた。若詮と若鐘である。三人の兄弟は、いずれも神童と呼ばれた。若鐘は朝鮮天主教界の大立て者となり、若詮は博物学者として多くの著作を残した。英祖とそれに続く正祖の時代は李朝の変動期だった。秀𠮷とヌルハチの侵攻で荒廃した国土はようやく回復し、商品貨幣経済も浸透しつつあった。その時期に登場したこの二代の国王は、いずれも英明な資質を持っていて文化政策にも力を注いだので、この時代は中国の康煕・乾隆時代に比される、李朝後期における最盛期になった。朋党の争いはまだ続いていたが、それは以前ほど酷くはなく、この当時主流派だった老論派以外の派閥に属していても、役職に就くことは可能だった。丁若鏞の一家は、少数派の南人派に属していた。 
 若鏞が数え15歳で元服そして結婚した年、80歳を越えた英祖が薨じ、孫の正祖が即位した。再び出仕した父に従って、一家は漢城(ソウル)に出て、南村に居住した。正祖は英祖の施策を受け継ぎ、数々の文化事業を行った。中で特記すべきは奎章閣の設置である。これは、乾隆帝の四庫全書の朝鮮版というべきものだった。膨大な書籍が集められた。その検書官の一人に登用されたのが実学者の朴斉家である。正祖が、皇太子だった父親の非業の死とともに皇太孫になった年に生まれた若鏞は、正祖の即位の年に成人した。(ここを読んだ時、韓国歴史ドラマを見慣れた今なら、皇太子ではなく世子(せじゃ)、皇太孫ではなく世孫(せそん)と書いたろうなと仙石さんは思った。)論文は続く。若き日の仙石さんは、こんな風に書いた。正祖と丁若鏞の二人は、目に見えない糸で結ばれていたようである。成人した若鏞は本格的に実学者への道を歩き始めた。またこの頃、若鏞は官僚として赴任した岳父や父親について、全国各地に旅をした。満21歳で、科挙の進士科に合格。その翌年、国の学問所である成均館で儒学、西学、自然科学を研究した。この時の儒生による討論会で、他の儒生たちが李退渓の説を主張したのに対して、彼は李栗谷の説を主張し、正祖の賞賛を得たという。なお、この同じ年、後に若鏞らに重要な影響を及ぼすことになる、キリスト教の朝鮮教会が設立された。悪疫の大流行などがあり、その翌年には天主教禁止令が出ている。


 満25歳の時、長男丁学祥が生まれた。彼は後に、医学者、博物学者として名を残すことになる。若鏞は27歳で科挙の文科に合格した。どうやら首席ではなかったらしい。いわゆる正統的な秀才ではなかったせいだろう。それでも正祖に重用され、ソウルから水原に正祖が巡幸するための漢江の船橋を設計するなどの業績をあげた。28歳の時、天主教に親しんだとして地方に流配されたが、すぐに許された。正祖の信頼が厚かったせいだろう。その後、順調に出世した。30歳の時、水原城を設計した。この城は、正祖が非業に死んだ亡き父親を偲ぶとともに、新首都としても構想した新しい城郭である。この年、若鏞の父、丁載遠が亡くなり、若鏞は喪に服した。その後、国王の隠密である京畿道暗行御史を務めて各地を旅行した後、再び漢城に戻り兵曹参議になったが、またもや天主教との関わりを指摘されて左遷された。その後も復職と左遷を繰り返した。その間も、若鏞は農政に関する書物を書いたり、朴斉家とともに、北京からもたらされた種痘について研究したりしている。
 38歳になった丁若鏞に大きな人生の転換期が訪れた。正祖の死である。生まれつつあった近代の萌芽が、正祖の死とともに突然終了した。反動の時代が始まった。それは、実学者の時代の終わりでもあった。西学弾圧が始まった。若鏞の兄、若鐘は斬殺罪に処せられた。朴斉家は地方に流され、朴趾源も官職を退いた。若鏞と、もう一人の兄若詮は、それぞれ僻地に流配された。この後18年間、若鏞は流配生活を送ることになる。流配中に、若鏞は茶山と号するようになった。正祖時代と一変した時代において抑圧される民衆たちの姿を観察しながらも、日々研究と執筆に励み、「牧民心書」などの膨大な著書を残している。彼が流配をとかれて帰郷したのは56歳の時だった。帰郷後も研究や著述を続け、朝鮮最初の牛痘法の実験に成功するなどした若鏞は、1836年、74歳で世を去った。その前年に、日本では坂本龍馬が生まれている。若鏞の死後4年目に起こったアヘン戦争は、その後の東アジア世界動乱のきっかけになった大事件であるが、それを警鐘として日本では明治維新が起こったのに対して、頽廃した儒教国家である李朝には、そんな国際環境に対処する力がもはやなかった。若鏞の死後50年にして、時の国王高宗が開化策による富国強兵を推進しようにも、すでに丁若鏞のような人材が存在しないことを慨嘆したと伝えられている。


 論文には丁若鏞の業績についても簡単に触れてあった。彼の著作数は朝鮮学術史上空前のものだと言われている。総数、五百巻あまり。その研究対象は、まさに百科全書的だった。その成果のほとんどは、「与猶堂全書」に収められている。彼は橋や城を設計したり、種痘を研究したりもしたが、その学問の中心はあくまでも経世済民の学であった。彼の晩年の主著、「経世遺表」「牧民心書」「欽欽新書」らは、すべてその成果である。たとえば「牧民心書」。牧民とは地方官のことで、この書は牧民のための心得書である。やや煩瑣で形式的な部分もあるが、暗行御史としての経験や流配中の民衆の悲惨な境遇の観察から生まれた、実践的な心得となっている。なお、若鏞が天主教徒であったかどうかについてははっきりしない。一時入信したのは確からしい。だが、天主教の持つ平等思想は、彼にとっては魅力的だったと思われる。彼は「全国のひとびと全部が両班になったらいいのに。」と漏らす空想家でもあった。仙石さんは、論文の最後に、文学者としての丁若鏞について触れていた。彼は、その思想性において、李朝最大の詩人の一人だとされている。詩とは、もちろん漢詩のことである。仙石さんはここで彼の漢詩のひとつを引用しているが、それを数十年ぶりに読んだ現在の仙石さんは、あまり面白くないなと思った。というわけでここでは省略する。

 最後は、第五章「東アジアの『近代』」。「近代」とは、大航海時代に始まり、西欧文明が東漸して世界をひとつの文明の価値観で覆ってしまった時代のことを言う。その意味で、安土桃山から、江戸時代を経て明治へと続く時代は同じ近代に属する。朝鮮では、その間ずっと李氏朝鮮の政権が続いた。その時代、近代化とは西欧化を意味した。大航海時代以来、主役は変わっても相対的にはずっと上昇を続けた西欧に対して、その初期には同等、あるいはそれ以上の文明を誇った東アジアの中国、朝鮮、日本は、いずれも自らのエネルギーを抑制して内にこもった。その結果、16世紀に東と西が最初に遭遇した時には、うまくあしらうことができたものが、19世紀になって二度目に遭遇した時、東アジア各国は、西洋の圧力を持ちこたえることが出来なかった。この第二波をもっとも巧みに乗り切ったのは日本だった。それは、東アジア世界の秩序を変えた。巨大な中華帝国を中心に回っていた世界に、日本が新しいチャンピオンとして登場したのである。中国と朝鮮が出遅れたのはなぜか。その遠因は、東アジア各国における、16世紀から19世紀までの表面的な停滞期にあった。桑原武夫氏は、日本と中国の近代化の問題を考える時に、その最大の相違は、日本に蘭学があったことだと述べている。清朝や李朝における西洋科学は、宣教師たちが布教のために漢訳したテキストによってもたらされた。つまり、労せずして得た。そして、それらは天主教の弾圧とともに消え去った。後には何も残らなかった。日本における杉田玄白らと比較すればよいだろう。日本には、玄白がまだ健在な間に、すでに千人を超える蘭学者が存在したのである。「近代」の後半において、日本が他の二国に大きな差をつけた理由の一つはここにあった。この小論で考察して来た李朝の実学は、日本における蘭学になりうる可能性があったが、李朝の頑迷な儒教体制は、その可能性を自ら消してしまったのである。その可能性の中心には、丁若鏞がいた。

 ここまで読み終えて、仙石さんは先に書いたように、思ったほど悪くないと安心した。でも、所詮は糊と鋏で器用にまとめられたレポートである。とても論文と呼べるものじゃないなとも思った。卒業論文というのはそういうレベルのものだとしても、やっぱり、研究者の道に進まなかったのは正解だった。実を言うと、卒業式の時、大村教授は仙石さんに大学院に残ってくれると思っていたと言ってくれたのだ。嬉しかったけれど、たぶん社交辞令だろうと若き仙石さんは思った。何しろ、教授は朝鮮史の知識は何もない人だったのだから。いずれにしても、仙石さんは卒業したその瞬間から、この卒業論文の内容を全て忘却したのである。丁若鏞という人物の名前をのぞいて。しかも、その名前も日本式の読み方、テイ・ジャクヨウでしかなかった。杉本さんとの出会いが、忘れられた過去への扉を開いてくれた。


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 「仙石さんがその卒業論文を書かれていた頃って、日本と韓国はどんな関係だったんですか?」そう杉本さんに訊ねられた時、仙石さんはとっさにどう答えればいいか思い浮かばなかった。しばらく考えて、こう言った。「そうですねえ、日韓基本条約を締結してから数年経っていて、国と国との関係はそう悪くはなかったと思うけど、日本の一般国民の印象は今とは正反対で、金日成の北朝鮮の方が自主独立、民主的な希望の国であって、朴正凞の韓国は民衆を弾圧する暗い軍事独裁国家だと、少なくとも日本の進歩的知識人やメディアには、そんな風に思われてましたねえ。若い杉本さんには信じられないかもしれませんが。」そう言った時、仙石さんは、ばくぜんとT・K生の「韓国からの通信」のことを頭に浮かべていた。当時、進歩的文化人の拠点だった岩波書店の月刊誌「世界」に連載されていた韓国からのレポートである。そこには、韓国内で民主化闘争を戦う人々の過酷な日常が生々しく記録されていた。ずいぶん後になって、その文章は在日の大学教授、池明観という人が執筆したものだということが本人の告白で判明した。材料になった手記などの資料は、民主化運動の中心だったキリスト教会関係者を通じて韓国から極秘に届けられたそうだが、実際に執筆したのは民主化闘争の当事者ではなかったわけだ。闘争を支援するためだとはいえ、池教授は、当時、事実を誇張したり、民主化勢力を美化したりしたこともあると正直に告白している。もちろん、当時は、実情を知るごく一部の関係者を除いて、仙石さんを含む多くの「世界」の読者は、朴正凞軍事政権の強権ぶりにただただ怒りを覚えていた。10年以上続いたその連載が始まったのが1973年だから、ちょうど仙石青年が卒業論文を書いている年だった。このT・K生による「世界」の連載の文章がまとめられて岩波新書として出版されたのは、その翌年、1974年の8月のことだった。無事に卒業してS市役所の職員になったばかりの仙石さんは、すぐに買って読んだ。その新書の「世界」編集部によるまえがきには、こんなことが書いてあった。

 この「通信」は、韓国が戒厳令下に入った直後から七四年六月にいたる二年半余にわたる状況を日を追って伝える報告となっている。韓国内の状況についてもの静かに語りつづけるこの「孤独な、しかし誇りたかい戦い」の記録は、回を重ねるにつれて広く読者の関心をよび、日本国民としてこの韓国知識人の声に誠実に応えようとする発言も多くなされた。

 「韓国からの通信」は、その後も何冊か続篇が出版されているが、この最初の本におけるハイライトは、一九七三年八月に日本を舞台に発生した金大中拉致事件だった。そもそも、連載が始まったばかりのこの「通信」が広く世間で注目されるようになるきっかけも、金大中事件だった。金大中氏は、朴正凞政権の独裁下にあって、ほとんど唯一といってもよいくらいの抵抗する政治家だった。その金氏も国内では圧迫を受けて、国外での活動を余儀なくされていたのである。朴政権は、それさえも許さなかった。韓国の秘密機関KCIAは、東京のホテルに滞在中だった金大中氏を拉致し、海中に投棄して殺害を試みた。それを阻止したのは、船を追跡し、一切の行動を監視していたアメリカの情報機関だったと言われている。金大中氏は殺されることなく、全身傷だらけの姿でソウルで解放され、その後、軟禁状態になった。この金大中氏が民主化後の韓国の大統領になるのは、この事件から25年後のことである。金大中事件の前年、田中角栄首相主導のもと、日中の国交が回復され、上野にパンダがやってくるなど、日本には一種の中国ブームが訪れていた。そんな状況において生じたこのような事件は、日本における韓国のイメージをより一層暗いものにしたと言えるだろう。ちなみに、この頃に何があったかというと、一九七二年には、浅間山荘事件(連合赤軍事件)があって、一九七三年には「石油ショック」があった。若者たちの「革命幻想」と、戦後日本経済の高度成長が共に終焉した時期でもあったと言えるだろう。なお、韓国も派兵していたベトナムでは、一九七三年一月にベトナム和平協定が調印され、アメリカの敗北が確定した。仙石さんは、いわゆるノンポリ学生で、政治的な活動とは無縁な学生生活を送ったのだが、卒業論文のテーマに「朝鮮の実学」を選択したくらいだから、朝鮮半島の情勢には興味を持ち続けていた。でも、李氏朝鮮時代を暗い時代だと感じたのと同じように、現実の韓国を希望のない国だなと思っていた。やっぱり中国史をやるべきだったかなと後悔したことがないわけではなかった。

 「たぶん、わたしの父親は仙石さんと同世代だと思いますけど、わたしが大学生の時に死んでしまったので、若い頃の話を聞く機会はありませんでした。でも、亡くなる少し前に、北朝鮮による日本人の拉致が明らかになった時、これで韓国と北朝鮮のイメージが完全に逆転してしまったなと言っていて、いったい何のことなのかなと思ったことを今思い出しました。そういう事だったんですね。」仙石さんはちょっとたじろいだ。杉本さんの父親が自分と同世代だということに、今更ながら思い至ったのである。彼女は、仙石さん自身の長女よりもたぶん年下だった。そんな年の離れた若い女性と「デート」して、なにやら期待している自分は、なんという下卑たヒヒ親爺だろう。これは、自分が彼女にとって大事な取引先の部長であるという特権を利用して、若い女性に交際を強要しているセクハラかパワハラ行為なのではないか、仙石さんはそんな事まで考えた。女性に対してはいつも自信がなくて弱気であることは、少年時代から一貫して変わらない仙石さんだった。

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 結婚してからの仙石さんは、ずっと貞淑な亭主だった。公務員としての立場をわきまえて、女性関係には特に注意をはらった。あの河鍋さんの誘いにのって、ちょっと道をはずしたことは数回あるが、それらは単発の火遊びに過ぎず、家庭に波風の立つことはなかった。あの大垣さんとの出来事も、たった一夜の事だった。それなのに、長年の公務員生活で数々の経験を獲た仙石さんは、なかなか悪知恵の働く策士だった。最初の「デート」の後しばらくして、仙石さんは杉本さんと週に一度くらいの頻度で会うことになったのだが、そのことで奥さんの乃里子さんに疑いの念を起こさせない方策を練ったのである。方策とは何か。それは、基本的に嘘をつかないことである。正直に事実を述べることだった。ただし、疑念を招きかねない都合の悪いことは絶対にいわない。仙石さんはかねてから、60歳になったら役所を退職すると乃里子さんに伝えてあった。嘱託として残ったり、市の公民館や外郭団体などへの再就職という道もあったが、きっぱり退職する。退職して第二の人生を楽しむつもりだと。そのことについては既に退職して好きな稽古事など気ままな生活をしていた乃里子さんも賛成してくれた。仙石さんはこう宣言した。いろいろと調べてみると、最も充実した第二の人生の過ごし方は勉強のようだ。自分としては、大学時代に中途半端に終わった朝鮮実学の研究に再度取り組みたい。そのための準備として、韓国語の学習を今から始める。というわけで、これから毎週金曜日の夜は公民館の韓国語教室に通うので許可してほしい。聞く所によると、土曜日にも有志が集まって勉強会をしているということなので、そちらにも出席することになるかもしれない。確かに、これらは嘘ではなかった。仙石さんは公民館の韓国語教室に実際に通い始めたのである。女性が6人と男性が一人のクラスだった。仙石さんを新たに加えて男性が二人になった。もう一人の男性は、女性参加者の一人のご亭主だった。つまり、夫婦が一組いた。彼らは40代後半の在日3世の夫婦だった。日本で生まれ育ったので日本語しか出来なかったのだが、「冬のソナタ」のブーム以来、韓国語ができないことが悔しくなって、思い立って夫婦して韓国語の勉強を始めたのだそうだ。他の生徒も、韓流ブームによって韓国に興味を抱いた主婦やOLだった。先生は韓国人の女性で、日本文学を研究するために日本の大学に留学してきたが、日本人の男性と恋愛して研究をあきらめ、国際結婚して今は主婦業のかたわら韓国語の講師をしているということだった。この人も40代だった。生徒の中には60代の女性がいたので、仙石さんはこの教室で最年長ではなかったが、二番目の年長者だった。そんな教室で、仙石さんは韓国語の学習を始めたのである。その授業の後には、杉本さんの「補講」があった。教室のメンバーやその日の学習内容について、仙石さんは機会があれば乃里子さんに逐一報告したが、この「補講」のことは何も話さなかった。

  「補講」というのはある程度は事実だった。その頃、韓国への本格的な留学を目指していた杉本さんは、韓国語の学習を日課にしていたのである。学習の最も効果的な方法のひとつは他人に教えることだとはよく言われることである。仙石さんも、かつて長谷部さんからそう聞いたことがある。人間の記憶というのは、アウトプットの作業を通して完成される。インプットだけでは忘却に勝てない。まるでブラックホールに吸い込まれるようなものだ。長谷部さんは、ある脳科学者がそう言っていたと教えてくれた。その科学者の名前も言っていたと思うが、仙石さんは忘却した。いずれにしても、そうして両者の利害や都合が一致して、杉本さんと仙石さんの、週に一度一時間の個人レッスン、「補講」がスタートした。これらの「補講」で、二人は勉強だけをしていたわけではない。食事をしたし、機会があれば一緒に映画を見たり、(韓国映画が多かった。)杉本さんの友人が時々歌を歌っているというジャズ喫茶に行ったりもした。仙石さんにとっては至福の時間の始まりだった。青春時代に戻ったような気がした。実際の仙石さんの青春は、乃里子さんとの結婚を除いては、片想いばかりで、少しも華やかなものではなかったのだから、青春時代に戻ったというのは過去を美化しがちな人間の錯覚だったわけだが。
  
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 韓国朝鮮の歴史を学びながら、大学時代に韓国語の勉強をしなかった仙石さんだが、市役所に勤めるようになってから、NHKが「ハングル講座」(正確には、「アンニョン・ハシムニカ?ハングル講座」)の放送を始めた時に、遅まきながら独習を始めたのだが、わずか一年で挫折したことは既に触れた。が、こうして定年を前にして韓国語教室に通い、杉本さんの「補講」を受け始めた時、仙石さんがすでにハングルが読めて、簡単なあいさつ程度なら韓国語で出来る程度の知識があったのは、この時の学習の成果だった。「ハングル」という言葉には韓国語や朝鮮語という意味はない。アルファベットと同じように、文字そのものを指す言葉である。日本と同様、中国文明の影響を受けた漢字文化圏に属した朝鮮半島では、ずっと漢字が文字として使用されてきた。しかし、元々異なった言語を異国から借りてきた文字で表現し続けるのは無理がある。日本では、万葉仮名につづいて「カタカナ」と「ひらがな」が古くから考案され使用されてきたが、日本以上に中国の影響が大きかった朝鮮半島では、民俗独自の文字であるハングルが制定されたのは、李王朝の三代王である世宗の時だった。現代でも韓国で最も尊敬されている王である世宗自身が考案したと言われている。日本では室町時代にあたるから、文字としては比較的新しい。朝鮮では、長らく、官僚らの正式文書は漢文で書かれ、女性や庶民がハングルを使用していた。明治になって、福澤諭吉が漢字ハングル混じりの新聞発行を朝鮮国内で推進したと言われている。「脱亜論」で知られる福澤だが、かつては朝鮮半島の近代化の応援者だったのである。それはともかく、仙石さんが大学生だった時代には、韓国の新聞は漢字ハングル混じりだったから、ハングルがわからなくても、紙面に大体何が書かれているかは想像することができた。その後、まず自主独立路線をとった北朝鮮が漢字を排してハングルだけを使用することになり、かなり遅れて、韓国でもハングルだけを使用することになった。日本でも古くからカナ書き運動があったように、これは漢字能力による差別を撤廃する民主化の動きであるとともに、一種の愛国主義的な運動でもあった。しかし、このハングル化の結果、韓国や北朝鮮では、つい最近の親の世代が書いた文章も、若い世代は読めないというような文化の断絶が生じたことも事実である。また、韓国語の単語の多くが中国や日本から伝わった漢字語に由来しているのに、漢字をなくすと意味がわからなくなるという問題も生じた。いずれにしても、NHKがハングル講座を開始した時期には、朝鮮半島の南北両国は、ともにハングルの国になっていた。第二次世界大戦で敗北した日本には、一時、漢字廃止の動きがあったが、結局廃止されることがなかったのは、江戸時代以来の教育の普及による識字率の高さが貢献したと言われている。両班と呼ばれる上層知識階級は別として、朝鮮半島の大衆にとっては、漢字は日本に併合されてから俄に教育されたもので、血肉になっていなかったのではないかとは、仙石さんが勝手に想像したことである。

 杉本さんの個人授業あるいは「補講」は、仙石さんが、日本の五十音図に相当するハングルの「反切表」を既に読めたので、初級者向けの文法と発音の学習から始まった。仙石さんは、日本語と韓国語はともにウラルアルタイ語族に属する兄弟言語だということは、昔学校で習ったことがあった。実際、日本語と韓国語の文法はとてもよく似ていた。だから、かつて仙石さんが学習した英語やフランス語よりもずっと簡単だった。問題は発音である。もともと「反切表」を見てもわかるように、韓国語には日本語にない音がたくさんある。特に、濃音や激音と呼ばれる音が、多くの日本人の韓国語学習者を悩ませてきた。仙石さんもこれが苦手だった。日本語は「悪魔の言語」と呼ばれるそうだ。外国人が日本語を学習する労苦を想像すればよい。漢字、ひらがな、カタカナの三種類の文字を覚えなければならない。漢字だけを見れば、中国語よりも字数が制限されているので学習が楽だが、日本語として学ぶには、音読みと訓読みを覚えなければいけない。でも、そんな複雑な日本語も、発音となるととても単純な言語なのだ。まるで母音だけで出来ているように単純だ。「天使の言葉」だった。朝鮮語は世界標準である。多彩な子音がある。外国人が発音を完全にマスターするのは難しい。難しいのは個々の発音だけではなかった。英語がアルファベット表記と実際の発音とが乖離している(日本人はローマ字を読むように発音するから通じない。)ように、韓国語もハングル表記通りに読んでも通じない場合があるのだ。鼻音化、流音化と呼ばれる音変化があり、フランス語と同じようにリエゾンがあった。つまり、前の単語の末尾の音(パッチムという)と次の単語の頭音を連続して発音するのだ。もちろん、これらにはちゃんとした規則があるので、それを覚えればよいわけだが、仙石さんら韓国語の初学者を悩ませることには違いなかった。しかし、杉本さんという素晴らしい教師を得た仙石さんの学習意欲は限りなく高まり、予習復習にも余念なく励んだ仙石さんの韓国語はみるみる上達していった。           (つづく)


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