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チョン・ヤギョンなんて知らない 「第一回」

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 「仙石部長!」と呼ばれて仙石さんが振り向くと、そこに児玉くんが笑顔で立っていた。児玉くんは仙石さんの部下である。仙石さんの若い頃には役所にいなかったタイプだ。広告代理店かテレビ局にでも勤めているような洒落たヘアスタイル。細身で仕立てのよさそうなスーツを着ていた。ぴかぴかに磨いた先のとがった靴をはいている。チャラチャラした男だなというのは仙石さんが初めて児玉くんに会った時の印象で、実は、仕事のよく出来るまじめな好青年であることは、今では仙石さんも承知している。さっきの「部長!」という声は児玉くんだったようだ。前の市長が市役所内の風通しをよくするために、肩書きに関係なく「さん」付けで呼ぼうという運動を始めたのだが、市長が替わってから、又元に戻ってしまった。でも、仙石さんの部内では以前とおなじく「仙石さん」と呼ばせている。児玉くんもいつもは「仙石さん」と呼んでいるのだが、ここは部外の人も往来する廊下だったので、児玉くんはまず「部長!」と声をかけたものとみえる。仙石さんが振り向かなかったので「仙石部長!」と呼び直したのだろう。児玉くんは、そんな細かな配慮をする青年だった。仕事が出来る上に空気がよめる好青年。同期にこんな男がいたら煙たい気持ちになったかもしれないが、幸い、彼は仙石さんの部下だった。しかもいつも上司である仙石さんを立ててくれる。部下の手柄は上司である仙石さんの手柄になる。仙石さんは、いままでに何度かそんな良い思いをしてきた。その児玉くんが、今夜の送別会の幹事役をつとめてくれていた。

 「仙石部長、今夜6時半からよろしくお願いします。私は幹事役なんで先に行っていますから、他の部員と一緒に来てください。いよいよですね。淋しいです。でも、幹事が泣いたら格好がつかないので、今夜はせいぜい泣かないようにしますよ。」と、口調もなめらかだ。泣く気なんて本当はないくせにと思っても、ついつい良い気持ちになる。きっと児玉くんは女の子にもてるだろうな。セールスマンか詐欺師にでもなったらきっと大成功しただろう。そんな児玉くんのような男がどうして小さな市役所の役人になったのか、仙石さんはずっと疑問に思っていた。仙石さん自身は、子供の頃から赤面症や人見知りで幼稚園や学校で友達をつくるのに苦労した経験がある。その後の人生での経験の積み重ねや努力によって今ではそんな片鱗もないが、仙石さんの内部の奥深くにはその頃の少年がキャベツの芯のように今でも確かに生きている。就職先を選ぶ時にも、仙石さんは人付き合いが苦手なので、社交的な性格じゃなくても勤まりそうな、小さな市役所の公務員をめざしたのだったが、あの頃とは時代が変わったのかもしれない。最近ではコミュニケーション能力を略して「コミュ力」とか言うらしいものが、社会人に最も望まれる能力スキルなのだそうだ。仙石さんの勤める市役所においても、それは例外ではなかった。近頃の若い人たちは大変だなと仙石さんは思う。そんな仙石さんが、30年以上の地方公務員としての生活を全うして、今年、無事に定年を迎えることができた。小さな地方自治体だけれども、いちおうは部長にまで出世することもできたのだ。部下が30人しかいない部長ではあるが。そうだ、今夜の送別会で述べるあいさつの言葉を考えておかないといけないな。先日頼まれて市役所の職員報に書いた退任の文章があって、それはまだ発行されていないから同じことを話してもいいんだけれど、あれは、最近の大震災の話を枕にして、仙石さんの市役所在任中の最大の出来事だった、16年前に県南部を襲った大地震当時の思い出を書いたものだから、送別会で話すには内容が重すぎるし、自分自身も楽しくない。酒の席だから、もうちょっと、湿っぽくならずに気の利いたことを言いたいな。そうだ!あの話にしよう。廊下で児玉くんと別れてからトイレに入る間に、仙石さんはそんなことを考えていた。


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 仙石さんのおしっこは長い。年をとってから切れが悪くなった。昔、なんという題だったか、成人向けの漫画で、風呂場で木槌でペニスを叩いている武士が登場するのがあった。その武士は絶倫を誇る同心で、そうして日頃鍛えた強靱な陽根を拷問道具の代わりにして女の容疑者を自白させるのだった。ひどい話だが、仙石さんはいきつけの喫茶店に置いてある成人向け漫画雑誌に連載されていたその漫画を愛読していた。まさか、陰茎を鍛えると小便の切れがよくなるということはあるまい。役所の定期健康診断の結果をみると前立腺ガンの兆候はないようだが、ちょっと肥大しているのかもしれない。前立腺が肥大すると、小便の切れが悪くなるのかどうかは知らないのだが。いずれにしても、仙石さんは、以前トイレを出てからじわっと滲み出した小便でズボンの股間部を濡らした恥ずかしい経験があったので、それ以後、注意している。おしっこの後、最低五回はペニスを振る。いつものようにそうしていた時、後ろからいきなり声をかけられた。驚いて、小便があらぬ方角に飛んだ。

  「仙ちゃん! 相変わらずやってるな。えらい、えらい!そうやって、しっかり振るのが日本男子や。 フレーフレー日本男子。まあ、せっかくの立派な持ち物をおしっこにしか使えんちゅうのは淋しいけどね。」と、いつもながら口が悪いのは仙石さんの同期の河鍋さん、通称ナベさんだった。「驚かすなよナベさん。ズボン濡らしてしもたやないか。今晩は部の送別会があるのに。」仙石さんは抗議した。「それは悪いことした。今晩送別会やったんか。眼球ならともかく股間が濡れてるのは具合悪いなあ。そやけどまあ、夜までには乾いてるやろ。」と、いっこうに悪びれない。河鍋さんは仙石さんの同期だが、年はひとつ上だった。大学に入る前に一年浪人している。当人は、受験の年の東大の入試中止のとばっちりを受けたと主張している。それでも地元の国立大学の出身ということもあって順調に出世してきた。国立大学を出ると普通は県庁に就職するのだが、生まれ育った町だというだけで小さなS市を選んだ河鍋さんは変わり者だった。県庁の試験に落ちたからだろうという噂もあったけれど、本人は何も言わないから真相は分からない。仙石さんはいつも出世においては河鍋さんの後塵を拝してきたが、二人は大の親友だった。社会人になった当初、垢抜けなかった仙石さんを、ボタンダウンのシャツ、ダブルのズボン裾のアイビールックに変貌させたのはこの河鍋さんである。河鍋さんは、ファッションだけではなく、カメラはライカ、車はまだイギリスで製造していた時代のローバー・ミニを愛好するブランド野郎でもあった。外見も中身も役人の規格をはずれたところがある。仙石さんよりもひとつ年上だから、河鍋さんは昨年に定年を迎え、いまは退職後の再雇用で嘱託として社会福祉関連の仕事をしている。彼はその方面の権威でもあった。大橋巨泉のメガネを丸眼鏡にして小柄にしたような風貌と容姿。タヌキかテディベアみたいな外見だから、初めて会った人もすぐに打ち解ける親しみやすさが武器だが、一歩役所の外に出ると、この男はなかなか隅に置けない存在なのだった。女癖が悪いのである。公務員には世間の目が厳しいから、日常の行動にはせいぜい気をつけるようにとは、役所の上司からいつも言われていたことだし、仙石さんも機会があるたびに忠告したのだが、素人玄人を問わず、年齢も女子大生から年上の未亡人や人妻まで、ほとんと手当たり次第に手をだす。それこそ底の抜けた鍋のようだった。色好みこそ光源氏や業平以来の日本の伝統であるというのが河鍋さんの持論だった。当人は色男とはほど遠い風貌なのだが、それは問題ではないらしい。同じ男として生まれてきたのに河鍋さんのように女好きなのと仙石さんのように女性は好きだけど性的には淡泊なのと、女性に全く関心がない男がいるのはどうしてなんだろう、遺伝子の構造が違うのかななどと仙石さんは時々考えたことがあるが、答えは出なかった。人間も動物だし、動物としては子孫をたくさん残す必要があるわけだから、河鍋さんのタイプが本来のオスの姿なのだろう。でも、河鍋さんも現代の日本に生息している以上、その本能に根ざした行動にもなんらかの言い訳が必要だった。「役所の女性には手を出さないし、つきあう女性にはS市の公務員であることは内緒にしているから大丈夫。」というのが河鍋さんの言い分だった。四〇歳を越えてから子持ちの女性と結婚した時には、これでやっと河鍋さんも家族を持って落ち着いたかと安心したのだが、結局、その結婚生活は二年しか続かなかった。当人は、奥さんが愛車のミニを売れと言ったからだと妙な理由をあげていたが、実際は浮気がばれたのである。やっぱり、河鍋さんはもともと結婚生活には無縁な人間だったんだろう。そんな河鍋さんなのに、役所においては、有能で優しくて気の良いナベさんとして通っていて女子職員にも人気が高かったのは不思議だった。あれだけ数多くの女性と関係を持ちながら、その誰からもかつて恨みを受けなかったということは、きっと河鍋さんの人徳なんだろう。なにしろ、別れた奥さんと今でも友人としてつきあっているというんだから。そんなふうに、河鍋さんは真面目一方の仙石さんの理解を超えた謎の男だったのだが、先程も書いたように、二人は親友だった。それこそが謎かもしれない。ともかく、河鍋さんは部長にまで出世して無事に定年まで勤め終えた。そして今も若いガールフレンドがいる。社会福祉の勉強をしている女子大生だそうだ。もう自分も年だから、一緒にお茶を飲んだりコンサートに行ったりするだけのプラトニックな関係だよというが、信用なんかできるものか。河鍋さんは大学時代に軽音楽部にいて、昔のジャズや洋楽だけではなく、若い人が聴く最近流行のロックやポップスを含めて音楽全般に詳しかったから、一緒にコンサートに行くというのは本当だろうが、それだけで終わるはずがない。仙石さんは、女性との関係において、自分とはまるで違う河鍋さんを羨ましく思う一方、このままでは早死にするぞと思っていた。もっとも、河鍋さんは、相手の女性のことを考えたら腹上死だけはしてはいけないといつも言っているのだが、普通、そんな事を言うか。そんな事を公言すること自体がそもそも常識をはずれている、というのが善良な小市民である仙石さんの考えだった。


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 そんな河鍋さんは、仙石さんが足を向けて寝られない恩人でもあった。仙石さんに今の奥さん(といってもずっと一人しかいないが、)を紹介してくれたのは河鍋さんだったからだ。もちろん、自分の彼女を仙石さんに譲ったというのではなかった。たぶん。河鍋さんが当時つきあっていた女性がいて一緒にスキーに行くことになった。その時に仙石さんに声がかかったのである。もう一人女性を用意するから、お前も一緒に来いと。河鍋さんの事だから、北海道か信州にでも行くのかと思ったら、その女性の希望で、同じ県内の北部にあるスキー場に行くという。そのスキー場は仙石さんの実家の近くだった。仙石さんは雪国と呼んでもいいような県北部で生まれ育った。だから野球やテニスなどのボール競技は苦手なのに、スキーだけは上級者だった。河鍋さんはその事を知っていた。一緒に行く女性にスキーを教えてくれと頼まれて安請け合いをしたのはいいが、心配になったので仙石さんに声をかけたのである。その時に河鍋さんが「用意したもう一人」の女性が、現在の仙石さんの奥さんの乃里子さんだった。ちょっと小柄で、河鍋さんの彼女のもう一人の女性と較べると美人ではなかった。並みの容姿である。でも色白で歯並びが良くて笑顔が魅力的だった。仙石さんは一目で好感を抱いた。乃里子さんは県庁に勤めていた。仙石さんの勤めるS市役所と県庁は、親会社と子会社のような関係で、県庁の委託の仕事がかなりあったし、出向などで人事の交流があり、事業を共同で進めることもあった。でも、乃里子さんの仕事は内勤の事務だったので、もしスキー場での出会いがなかったら、たぶん仙石さんと乃里子さんは一生出会うことはなかっただろう。その頃、世の中はまだスキーブーム以前だった。 原田知世主演の「私をスキーに連れてって」という映画がヒットする10年ほど前の事である。もちろん、スノーボードはまだ影も形もなかった。河鍋さんは、自分はパラレルが出来ると主張していたが、実際は、やっとボーゲンを卒業した程度だった。二人の女性はどちらもスキー初心者だったので、河鍋さんが馬脚をあらわすことはなく、河鍋さんはいかにも上級者らしい態度と口吻で理論を述べ、仙石さんが模範演技を披露するという段取りで、即席のスキー教室が開かれた。そんなスキー場でのダブルデートがきっかけになって、仙石さんと乃里子さんの間で自然と恋がめばえた。先に好きになったのはもちろん仙石さんである。これも後で思えば河鍋さんの策略だったのだが、スキー場へは2台の車で行った。当然ながら、仙石さんが運転する車の助手席には乃里子さんが座った。あの頃、仙石さんの中古のカローラの車内で流れていたのは誰の曲だったろう。ユーミンか、山下達郎か、それともサザンだったか。いずれも、仙石さんや河鍋さんよりも数歳年下のアーティストだが、彼らは後年、ドライブ音楽の御三家だと言われるようになる。でも、その頃の仙石さんはよく知らなかった。最新流行の音楽事情に詳しい河鍋さんは、彼らをデビューの頃から注目していて、車の中で流せと仙石さんにダビングしたテープを貸してくれたのである。その音楽が、仙石さんの気分を恋に誘った。スキー場での恋は長続きしないとはよく言われることである。スキー場というのはやはり一種の異世界であって、そこでは魅力的に見えても、日常の生活に戻ればその輝きは消える。その点についても、河鍋さんはさすがに女心をよく知っていたから、仙石さんに注意と指導を怠らなかった。「お前はスキーが上手いからスキー場ではもてるやろ。でもそれを誤解するな。本来、お前は女にもてるタイプやない。」酷い言い方だが真実だった。河鍋さんに感謝するのは、その忠告だけではなかった。その後もスキー場以外で四人で会う機会を何度もつくってくれた河鍋さんは、せっせと仙石さんの魅力を乃里子さんにアピールしてくれたのである。「我が県は東西にも広いが、北は厳しい日本海、南は穏和な瀬戸内海に面して南北に長く、風土も多様だからいろんな人間が生息している。一般的に、北に行くほど利発だが性格が陰険になり、南に行くほど人は良いがアホになると言われている。そこへ行くと、仙石は北部の生まれなのに性格がエエ男や。しかもそんなにアホやない。」というのが、河鍋さんの褒め言葉だった。これでは褒めているのかどうかわからない。だいたい、この県内の風土性の話には裏付けがあるのか。いったいどこで仕入れた話なんだ。きっと河鍋さん自身が考え出したんじゃない、たぶん落語の枕か何かどこかにネタ元があるに違いなかった。でも、それを聞いた乃里子さんは飲んでいた生ビールを吹き出しそうになるくらい大笑いした。そんな風な河鍋キューピットの活躍によって、仙石さんと乃里子さんはめでたく夫婦になった。二人の子供にも恵まれた。乃里子さんが民間企業に勤めていたら、たぶん出産とともに専業主婦にならざるをえなかっただろうが、県庁に勤める乃里子さんは、実家の両親の助けはあったものの、二人の子育てをしながら公務員を続けることが出来た。乃里子さんにとっては充分ではなかったけれど、仙石さんも少しは子育てを手伝った。こうして仙石家は経済的にも安定した生活を送り、一戸建ての家を建て、子供二人を立派に大学まで通わすことができた。東京の大学に進学して、そのまま東京で就職した長男はまだ結婚していないが、夫婦同然で同棲している女性がいる。早く籍を入れろと仙石夫婦はいつも言っているが、女性の方になにか問題があるらしい。今では半ばあきらめて息子の判断に任せている。自宅から大学に通っていた長女は、卒業後に法律事務所に勤めて司法試験を受ける準備をしていたのだが、どこで知り合ったのか、ウエッブ・デザイナーとかいう怪しげな仕事の男と結婚して家を出た。もうすぐ子供が生まれる。仙石さんはお祖父さんになるのである。そんなふうに、仙石さん一家はまずまず幸福な人生を送ってきた。それもこれも全て、元はと言えば河鍋さんのおかげだった。


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 仙石さんが、60歳で役所を退職するつもりだと最初に打ち明けたのは、この河鍋さんにだった。河鍋さんは反対した。お前が辞めてしまったら一緒に昼ご飯を食べたり、夜の飲み屋で愚痴る相手がいなくなるというのがその理由だった。こんなに小さな市役所じゃ天下り先の企業や団体なんてほとんどないが、部長まで行ったんだから、図書館や公民館の館長以外にも再雇用や嘱託でやれる仕事はたくさんある。せっかく65歳までは雇用を保証されているのにもったいない。人間というのは、なんらかの職業を持つことで初めて社会とのつながりを持ったり貢献したりできるのだ。それに、60歳で辞めてなにをするつもりだ。定年後の時間というのは思いの外長いというし、退職した人の話を聞いてもみんな時間を持てあましている。というのが、河鍋さんの言い分だった。一から十までまことにもっともである。仙石さんはそう思った。でも、仙石さんの決意は堅かった。そもそも仙石さんが役所を早期に辞めようと思ったのは、昨日今日のことではなかった。仙石さんは、本来は55歳で辞めるつもりだったのである。二人の子供のことを考えてそれは思いとどまった。子供たちが結婚する時に父親が無職だったら体裁が悪いだろうというのがその理由だ。今では娘は結婚したし、長男は東京で自立していて、結婚はしていないが配偶者らしい女性がいるから、いまさら父親が無職になっても平気だろう。当時は退職に反対した乃里子さんも、60歳での退職には賛成だった。そもそも、仙石さんが就職した頃は世間一般の定年は55歳が普通だったのだから。仙石さんの父親は県の消防署員だったが、55歳で定年になって、その後は、祖父の残した農地で農業をやりながらボランティアで地元の消防団長を長らくしていた。その父親も五年前に亡くなった。今は平均寿命が延びたから、定年が遅くなるのは仕方がない。なにしろ老後の期間が長すぎるのだから。でも仙石さんは65歳まで働く気持ちはなかった。どうしてなんだろう。役所の仕事に飽きたのか。何か他にしたい事があるのか。実は、仙石さん自身にもよくわからなかった。とにかく60歳で辞める。今までなんとなく受け身で人生を過ごしてきた仙石さんにとって、ひょっとして人生で最初の決断だった。「定年は第二の青春だ。でも待てよ、自分に第一の青春なんてあったかしら。そうだ、60歳を迎える今こそが俺の青春だ。これからは、他人に気を遣わず、好き放題に生きてやるぞ!」そんな風に一人で盛り上がった仙石さんだったが、さて、好き放題に生きるとして、自分はいったい本当は何がやりたいんだろう。仙石さんは、退職を決意した時から「自分探し」を始めることになった。かつては若い人たちの間での「自分探し」のブームをあんなに馬鹿にしていたのに。そう、これこそが仙石さんが今、ふたたび青春時代に入ったことの証拠だった。          (つづく)


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