神須屋通信 #05
姉をおくる
月に一度、個人的な出来事を書く「神須屋通信」だが、二回続けてお葬式の話を書くことになってしまった。先月、姉を亡くした。姉は、今年の6月で73歳になるはずだった。昔なら亡くなっても不思議はない年齢だが、近頃では、特に女性の場合、90歳前後まで生きるのが普通になりつつあるので、若死と言えないこともない。2年前に肺癌が発見されて、それ以来、入退院を繰り返していたのだが、こんなに早く逝ってしまうとは予想していなかった。特に、新型コロナが流行してからは、連絡はメールか電話だけで、互いの顔を見ることもなくなっていたから、その死は突然だった。私は今年の1月に70歳になったが、早生まれだったので、学年では姉は2年上だった。同じ公立の小中学校に通った。私には年の離れた兄もいるが、子供の頃の私は、年齢が近い姉の後をいつもくっついて歩いていた記憶がある。でも、当然ながら、思春期を過ぎるころから、互いに違う人生を歩き始めた。それぞれが家庭を持ってからは、それこそ、盆と正月と、親戚の慶事や弔事の時にしか顔を合わさないようになった。双方が子供がいない夫婦だったことも影響しているだろう。子は夫婦にとってもかすがいだが、姉弟にとってもそうだ。例えば、私たち夫婦に子供がいれば、その子は姉夫婦にとっては甥か姪になるわけで、彼らの成長を通じて、両家に少しは交流ができていただろうと思う。
姉は5年前に、長く闘病していた夫を亡くした。それ以来、一人暮らしをしていた。淋しかったと思うが、長い看護の責任を脱した解放感もあったのではないかと思う。自分の人生を楽しむのはこれからだ。そんな時に、階段を上り下りする際に、極度の呼吸困難と疲労を感じるようになり、医者に診断してもらったところ、肺ガンが告知された。その診断時には、私と兄も立ち会った。手術ができない種類のガンで、抗ガン剤治療に頼るしかなかった。先ほども書いたように、その後入退院を繰り返して、2年がたったのだが、今年に入ってからの展開は驚くほど早かった。まず今年初めに、私が担当医から、もう治療の方法はないからと、早めにホスピスに入れることを勧められた。一人暮らしだし、いつ何が起こってもおかしくないからというのである。ホスピスは当人にも勧めたそうだが、その時は、姉は自宅に帰りたいと答えたそうだ。その時は体力にまだ自信があったのだろう。でも、その後、身体は明らかに弱ってきた。なによりも、食べられなくなってきた。とりあえず、週に一度の通院には、私か家内が付き添うことにしたが、一人暮らしが心配なので、訪問介護と訪問診療を頼むことにした。緊急の時には、電話一本で自宅に駆けつけてくれる。その契約が済んですぐの事だった。姉が緊急入院した。数週間前から食事が出来なくなっていた姉が、いよいよ危険を感じて、近所の人に救急車を呼んでもらったのである。入院してしばらくして、姉の意識は混濁してきた。医者によると、ガンが脳に転移して髄膜炎を発症したのだろうという。もう処置のしようがなかった。姉は、ほどなくして同じ病院内のホスピス病棟に移された。そして、それから一週間も経たない内に息をひきとった。病院は、姉の家から近い、大阪市内の北部にあって、私たち夫婦と兄が住む岸和田からは、車で2時間近くかかった。私たちが、タクシーで深夜の病室に着いた時には、姉は眠っているように見えたが、すでに心臓は止まっていて、まもなく、医師による死亡宣告が出された。当直の看護師の話では、眠るような、安らかな最後だったという。看護師が、夜が明けてから、ご遺体をととのえますというので、私たちはいったん家に戻って、昼前にまた病院に戻ることにした。
それからが大変だった。私には、姉の死をゆっくり悲しんでいる余裕はなかった。両親がなくなった時、葬儀その他の手配を全てしてくれたのは、兄だった。父親の時には夫婦で、母親の時には、妻を亡くした後の兄単独で。弟の私は、兄に任せきりで、ほとんど何もしなかったのだが、今回は、兄が高齢になったのと、脚の骨折の後遺症で動作が不自由なので、弟の私が主になって動くしかなかった。なにしろ、姉には夫も子供もいないのだから。それでも、まさか、70歳にもなって、母親を亡くした息子のような立場に自分がなるとは思わなかった。まず、葬儀の手配をしなくてはいけない。親戚への連絡は兄がしてくれたが、姉の友人たちへの連絡は私がした。当初は、コロナ禍もあるし、近親者だけの葬式を考えていたのだが、姉の体調が悪い時に、わざわざ姉の家に来て、付き添って一緒に病院に行ってくれた友人がおり、その女性のことは姉から名前を聞いていたので、彼女にだけは連絡をしようと思っていた。でも、私が預かっていた姉の携帯を見ると、彼女以外にも、何度も体調を気づかうメールをくれている人たちがいたのである。その人たちに姉の死を知らせるのは辛い経験だった。例外なく、先方から泣き声が聞こえてきたからだ。姉は、商業高校を卒業してから、ずいぶん長い間、銀行勤めをしており、いつの頃からか、お茶を始めて、今では師範代のような立場になっているようだった。メールをくれていたのは、銀行時代からの友人やお茶の仲間たちだった。晩年の姉は、そんな良き友人たちに恵まれ、決して孤独ではなかったのである。結局、数名の友人が通夜と葬儀に参列してくれたり、供花を手配してくれたりした。中には、お茶の家元に連絡して、供花を依頼してくれた人もいた。おかげで、式場はとても華やかになり、姉は、棺いっぱいの花々に囲まれて旅経つことができた。先月の富山での義母の葬儀では、棺の上に花束がひとつ置かれてあるだけだった。それはそれで、雪の日の葬儀は簡素を極めていて、私はいい葬式だと思ったのだが、花に囲まれた姉の葬儀もまた、これでよかったと思う。なによりも、友人たちに見送られたのだから。
葬儀は無事に終わり、次は49日法要である。その間、私は区役所に行ったり、年金事務所に行ったり、銀行に行ったり、携帯電話会社に行ったりと、さまざまな手続きのために動き続けている。人が一人死ぬということは、後に残された者にとっても、こんなにも大変なことなのだと痛感している毎日だ。形見分けなど、家の整理はまだ手つかずだし、家の処分など、全ての後始末を終えるのは、今年いっぱい、あるいは来年までかかるだろう。それは覚悟をしているが、今度の事で、子供のいない自分自身や家内が死んだ後のことが心配になってきた。実は、今年70歳になったのを機会に、少しずつ断捨離を始めている。私の場合は、少なからぬ蔵書の処理をどうするかがまず問題になる。まず試しに、家内と二人で、"B00K・OFF "に少し持って行った。DVDはそこそこの値段で売れたが、本はとても安かった。でも、ゴミに出すよりもましだから、これからも売り続けることになるだろう。現在の目標は、家の蔵書を、とりあえず、半分以下にすることだ。他には、たいした財産はないけれど、何がどこにあるのか、残された人がすぐにわかるように整理をしておくこと。そんなところだろうか。あるいは、白洲次郎のように、「葬式無用、戒名不要」とでも遺言しておくのもいいかもしれない。それと、今回の最大の教訓は、身内も大事だが、友人を大切にしましょうということだった。私の場合は、これまで、いろいろと不義理をしてきたので、もう遅いかもしれないが。
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