見出し画像

千本松渡し a story #2/6

二、 北村淳一の小説「千本松」

    「千本松」

                             北村淳一

 「君見ずや、黄河の水天上より来たるを」って漢詩、知ってます? よほど漢詩が好きじゃないと普通の人は知らないですよね。ぼくは漢詩が好きなんです。ちょっと変わってるでしょう? きっと、高校で教わった先生の影響だと思います。「君見ずや、・・」というのは、その先生に教わった漢詩の一句なんですよ。いかにも李白らしい雄大なイメージの句だと思います。その人は京大で吉川幸次郎先生のお弟子さんだった方で、漢詩が大好きで、とても熱心な先生でした。ぼくは、黄河とは較べものになりませんが、大きな川のそばの町で生まれ育ちました。少年時代のぼくは、その川が天から流れて来たと思うほどの想像力は持ち合わせていませんでした。その源流がどこにあるのかという疑問さえ持たなかったんです。ただ漠然と、琵琶湖から流れてきてるんだろうなと思っていました。まあ、まんざら間違いでもなかったんですけどね。

 その川というのは、木津川のことです。京都の木津川とは違います。淀川水系の支流のひとつで、土佐堀川から分かれて大阪市内の西南部を大阪湾にまで流れている河川のことです。木津川と呼ばれている部分は本当に短いんですよ。ここからが木津川だよと思ったら、あっという間に大阪湾。

 ぼくが、そんな散文的な事実を知ったのは、小学校の高学年になって、自分たちの住んでいる町を知ろうと、授業で地図帳を調べた時のことでした。その時、ぼくは木津川があまりにも短い川だという事を知って、がっかりしました。知識を得るということは、夢を失うことでもあるんですね。そう、木津川は、少年のぼくの世界における重要な要素だったんです。木津川は、ぼくたちの王国の国境でした。川の向こうは異人たちの住む、怖ろしい国だった。赤ん坊にとっては、母親の暖かく柔らかい胸や背中が全世界だし、赤ん坊は、そのことに自足しきっています。その世界では赤ん坊自身が全能の存在なんです。泣けばミルクが与えられるし、襁褓も変えてもらえる。でも、赤ん坊はいつまでも赤ん坊のままでいることは許されません。自分の足で立つことを覚えた少年たちは、同年代の仲間を集めて、いつしか自分たちの王国を持つようになります。王はいないから、共和国と言った方がいいかなあ。その国の領土は、少年たちが年齢を重ねるごとに、少しずつ拡張されていきます。ぼくたちの国の領土は、小学校に入ってから、一気に拡がりました。近所の幼馴染たちとは違った同級生たちの住む地域が、国の領土に新たに編入されたからです。でも、共和国の西の国境は、ぼくたちが小学生になってからも、ついに木津川を越えることはありませんでした。それ以前の話として、ぼくは小学校に入るまで、木津川に近づくことさえ禁じられていたんです。
 
 ぼくの父親は、川向こうの大きな鉄工所に勤めていました。朝早く、まだぼくが寝ている暗い時間に起きだして身支度し、仏壇に新しい水を供え、短くお経を唱えてから、父より早く起きていた母がつくった朝食を食べ、自転車で家を出て行きました。もちろん、ぼくはその間ずっと眠っていたわけですが、たまに、尿意をもよおしたりして早く目ざめることがあったので、そんな両親の朝の日常を知っていました。小さい頃は、母が台所でたてる包丁とまな板のトントンという音は、良い子守歌でしたね。一度起きたぼくは、その音を聴きながら、もう一度、夢の世界へ戻っていったものです。千本松渡しは、父の毎日の通勤経路でした。千本松の渡し船は、父のような通勤客を運ぶために、早朝から夜遅くまで、木津川の両岸を、一日中、行ったり来たりしていたんです。運賃は無料。だって道路代わりですからね。尾道の渡船は有料なんですか?

 そんなふうに、父の朝の出勤時間は早かったんですが、残業はなかったようで、帰宅時間も早かったんです。夕食は毎晩一緒に食べていました。よく、果物などを買って帰ってくれましたね。子供の頃のぼくは、それが楽しみで、父の帰りをまだかまだかと待っていました。父が玄関に入ってくると、待ち構えていたぼくが、その土産を受け取るんです。でも、すぐに食べることはできなかった。まず、仏様にお供えしてからというのが、いつもの父の台詞でしたから。父は信心深い人でした。毎朝毎晩、父と母がその前に座る小さな仏壇の中には、ぼくが会ったことのない、ぼくの姉の小さい写真がありました。    

 戦後、中国大陸から復員してきた父は、帰還を待っていた母と大阪で再会しました。出征時に住んでいた借家が大阪大空襲で焼かれたので、知人の世話で母が移り住んでいた、木津川べりの長屋のような家に住むことになったんです。その辺りは、空襲を免れたんですね。同じ川縁でも、造船所や工場などは空襲を受けたそうです。父が出征前に勤めていた鉄工所は、明治時代に創業した大企業だったんですが、家族的な経営でも知られていて、出征した従業員の留守宅の面倒もみてくれたそうです。この工場も空襲を受けましたが、幸い、被害は軽くてすみました。母は、焼け出された後は、いったん故郷の淡路島の実家に戻っていたんですが、終戦になるとすぐに大阪に戻って、父の帰りを待っていたそうです。父が戻ってきたのは、戦後1年以上経ってからだったそうです。

 でも、父はすぐに復職できました。工場が空襲で破壊されなかったのが幸いでした。そうして両親の戦後の生活が始まりました。父は毎日自転車で工場へ出勤し、母は家で内職仕事をしました。そんな貧しくとも平和な、戦後の暮らしを両親が始めてからまもなくして生まれた姉は、三歳で死にました。その時、ぼくは、母のお腹の中にいたそうです。その後は妹も弟も生まれず、結局、ぼくは一人っ子として育ちました。

 子供の頃、木津川について父からいろいろな話を聞きました。父は播州の貧しい農家の出身で、尋常高等小学校しか出ていないんですが、子供の頃から勉強が好きだったそうです。特に歴史が好きで、子供の頃は立川文庫のたぐいを乱読したと聞きました。映画でも、特に、東映の時代劇が好きで、ぼくが父に連れられて一緒に見た映画は、ほとんどが時代劇でした。だから、高校生になってから、ぼくが同級生たちと話をしていて、石原裕次郎とか小林旭などの映画の話が出ると、困ってしまいました。なにしろ、ぼくにとっての映画俳優といえば、中村錦之助や東千代の介や大川橋蔵だったんですから。女優と言えば、浅丘るり子じゃなくて、美空ひばりです。まあ、それはともかく、そんな父が、子供のぼくに教えてくれたのは、千本松の名称の由来と「木津川口の海戦」の話でした。

 江戸時代には、木津川の川口付近に石の堤が築かれ、その土手の上に、千本だったかどうかはわかりませんが、たくさんの松が植えられて、まるで天橋立のような景観だったんだそうです。当時の観光地だったんですね。織田信長の時代はそれよりもずっと前で、木津川の川口の位置も江戸時代とは違ったようですが、「木津川口の海戦」は、信長にとって、運命を決めるとても重要な戦いだったんだと父は言っていました。信長は天下を統一する直前に光秀に殺されてしまったわけですが、それまでは周囲を強敵に囲まれて一進一退を繰り返しながら、それでも最終的には勝ってきた生涯でした。そんな信長の最大の敵だったのは、武田信玄でも上杉謙信でもなく、実は、今では石山本願寺と呼ばれている、大坂本願寺だったんだと父は言っていました。我が家は西本願寺系の門徒でしたから、父は本願寺に思い入れが強かったのかもしれません。今は本願寺は東西ふたつに別れて京都にありますが、信長の頃は大坂が本拠でした。石山本願寺は、後に秀吉が築いた大坂城の地にあったそうです。元々は、戦略的な要地として信長がこの地を望んだのを、本願寺が立ち退きを拒絶したのが戦いの原因だと言われています。まあ、これも父の話の受け売りですが。「木津川口の戦い」は、その信長と石山本願寺との長い戦いの中で生じた出来事です。

 信長軍に四方を包囲された本願寺には、一カ所だけ外部との通路がありました。それは大阪湾とそこに通じる川です。兵糧などを積んだ、本願寺の同盟軍である毛利方の村上水軍の軍船が大阪湾に現れ、信長方の和泉水軍と海戦になりました。村上水軍の圧勝でした。一艘の被害もなく、兵糧米をゆうゆうと本願寺に運び入れた毛利方は意気揚々と引き揚げたそうです。信長方の評判は地に落ちました。この時に周囲の敵が同盟して一気に信長を攻めていたら、信長はどうなったかわかりません。これが、第一次木津川口の海戦です。

 4年が経ちました。その間も信長は四方の敵と戦い続けていましたが、本願寺はあいかわらず籠城を続けていました。大阪湾の制海権の重要性を認識した信長は、志摩の海賊、九鬼水軍に命じて巨大な鉄甲船を建造しました。そして、第二次木津川口の海戦が勃発したんです。今度は、九鬼水軍、つまり信長方の完勝でした。追い詰められた本願寺は、信長方と和議を締結して、大坂の地を去ることになりました。そう、和議なんです。信長はとうとう本願寺を滅ぼすことはできませんでした。いやあ、覚えているものですね。子供の頃に、何度も父に聞かされたからかなあ。そういえば、あなたの故郷の尾道は、村上水軍の地元でしたね?

 さっき話したように、小学校の高学年になるまで、ぼくは木津川に近づくことを両親から禁じられていました。だから、千本松渡しにも乗ったことがなかったんです。というのは、ぼくの死んだ姉、麻紀が木津川で死んだからなんです。昔、ジェーン台風という台風があったそうです。当時、まだマッカーサーの統治下にあった敗戦後の日本では、台風には、アメリカ風に、女性の名前がつけられていたんですね。その時、川沿いに住んでいた我が家は、川から離れた小学校の講堂に避難しま
した。ようやく台風が通過して、家に帰ろうとした時、臨月だった母が産気づいたんです。父は産婆さんを呼びに行きました。姉は一緒に避難していた近所の家族があずかってくれる事になりました。悲劇はその時に起こりました。その家のお母さんが夕食の支度をしていた時、その家の子供達が、増水した木津川の様子を見物しに出かけたんです。姉の麻紀も一緒についていきました。その時に何が起こったのか、状況は正確にはわかりません。わかっている事は、麻紀ともう一人の男の子が溺れ、その男の子は助かったけれど、姉は死んだということだけです。その近所の家族は、居づらくなったのか、まもなく引っ越していったそうです。

 ぼくが木津川に近づくことが許されたのが、いつ頃の事だったのか、また、そのきっかけが何だったのか、もうよくわかりません。堺の親戚の家の近くにあった、浜寺の水練学校にやられて、ぼくが泳ぎをマスターしたからだったのか。それとも、もう小学校の高学年になって、交友関係や行動範囲の拡がった息子を制御できないと、両親があきらめたのか。それはとにかく、子供達だけで、ぼくが初めて千本松の渡船に乗った時のことは、今でも鮮明におぼえています。

 すべては、タツオという男の子の引越から始まりました。ぼくたちの草野球チームのショートでトップバッターだったタツオの一家が、突然、川向こうに引越したんです。その頃のぼくたちにとって、川向こうに行くことは、外国に行くのと同じ事でした。タツオとは、もう二度と会えないと思いました。だから、数ヶ月して、タツオが前触れもなく練習中に現れた時には、みんなが驚きました。外国人を見るみたいでした。でも、驚くのは早かったんです。その時、タツオは、川向こうのチームとの対抗試合を提案する使者としてやってきた事がわかったからです。今度こそ大騒ぎです。これは、ぼくたちにとっては、日米対決にも匹敵する試合の話でした。事情はこうでした。小柄でやせっぽちで、いつもこまネズミみたいにちょこまか動き回り、話し好きで誰ともすぐに友達になる才能があったタツオは、川向こうに行ってまもなく、地元の少年草野球チームの一員に迎えられそうです。もともと、野球はうまかったから、すぐに主力選手になりました。その時に、ぼくたちのチームの自慢話をしたんだそうです。「川向こうの、前のチームの方が強かったわ。すごいピッチャーがおるんや。このチームが試合したらコテンパンに負けるな。おれ、そのチームの不動のトップバッターやってん。」たぶん、そんな事を言ったんでしょう。その言葉が、彼らの少年らしいプライドを刺激したんですね。木津川を隔てた対抗戦の話が、その時に生まれました。タツオは、その交渉役として派遣されてきたんです。

 試合は、夏休みに入ってすぐに開催されることになりました。場所は、先方が申し入れた試合だから、こちらで選んで良いという事になりました。いつもは川に近い広っぱが、ぼくたちの練習場所だったんですが、この大事な一戦の試合会場には、本格的な球場が必要だと言い出す人間が現れたんです。タカヒコといいました。彼は、河口付近にある造船所の副工場長の息子でした。父親の伝手で、会社の野球場を借りられるというんです。その造船所には、あまり強くないノンプロ野球の下部リーグのチームがあって、設備の整った球場を持っていたんです。昔、戦争中に米軍が落した爆弾であいた穴が池になっていて、子供の頃のぼくたちは、アメリカザリガニをとって遊んだものですが、そんな爆弾池のひとつが埋め立てられて野球場になってたんです。まだ出来たばかりでした。なので、子供のぼくたちが借りられるなんて信じられませんでしたが、驚いたことに、タカヒコは実現させてしまったんです。しかも、当日彼のお父さんや部下の人たちが審判もしてくれるというんです。これでタカヒコの株は一気に上昇して、彼はレギュラー・ポジションを獲得することになりました。

 大事な一戦を控えて、ぼくたちのチーム「千本松タイガース」は、千本ノックなどの猛練習をするとともに、チーム編成を強化しました。その補強の柱は、中学校に進学してチームを離れていた、かつてのピッチャー兼4番バッターの、アキラさんの臨時的な復帰です。少年野球のチームは小学生が基本ですが、ぼくらは草野球ですから、特に規定があるわけではなかったので、中学一年生が加わることは、ルール違反ではなかったと思います。アキラさんは、ぼくたちにとっては、ほとんど魔球としか思えないカーブやシュートを投げることができました。でも、アキラさんの復帰によって、ぼくは4番サードという栄光のポジションを失い、3番バッターになってしまいました。

 試合の当日、川向こうのチーム「千島ホークス」の選手たちは、自転車に乗って、千本松渡しでやってきました。ぼくたちは、やっぱり自転車に乗って、こちら側の乗船場で彼らの到着を待ちました。ぼくは、対岸から少し弧を描くようなコースで、こちらに近づいてくる渡船をじっと眺めていました。村上水軍を迎える九鬼水軍の心境でしょうか、それとも、武蔵を待つ小次郎の気分でしょうか。いずれにしても、ぼくの気持ちは高揚していました。驚いたことに、「千島ホークス」の選手の中には、女の子が一人、混じっていました。その時、「七福神の宝船みたいやなあ。」とぼくは思いました。家には、父親が今宮戎で買ってきた七福神の作り物が飾ってあったんです。その女の子は、弁天さんみたいに見えました。渡船の焼き玉エンジンの、ポンポンという音が近づくとともに、ぼくの心臓の鼓動が強くなったのは、試合を目前にした高揚と緊張感のためだろうと思っていましたが、ひょっとすると、その女の子のせいだったのかもしれません。

 試合の経過については、今となってはよく覚えていません。アキラさんの力投によって、相手の攻撃を2点に抑えた、ぼくたちのチームが勝ったことだけは確かです。たった一人混じっていた女の子は、本来のメンバーが急な夏風邪で参加できなくなり、ピンチヒッターとして参加したお姉さんだということがわかりました。名前はオオタ・マユミと言いました。さすがに、中学のソフトボール部の選手だというだけに、アキラさんから、見事な長打を一本打ちました。でも、その一本だけでした。彼女はキャッチャーでした。浅黒い顔と真っ白いきれいな歯。笑うと笑くぼができるんです。それに、ふっくらと盛り上がった胸。ぼくは、打席に立つ度にドキドキしました。ピッチャーを見なければいけないのに、ついついキャッチャーに目が行くんです。スイングすれば、バットがどこかに飛んでいきそうな気がしました。結局、ぼくはこの試合では一本しかヒットを打てなかったですね。それも、相手のミスによる内野安打でした。試合はタカヒコのお父さんと、お父さんの部下の人達が全面的にバックアップしてくれて、飲み物やおやつまで用意してくれました。そして、試合が終わってから、両チーム一緒に記念撮影までしてくれたんです。

 試合の後、何日もしてから、焼き増ししてくれた写真をタカヒコからもらいました。今おもえば、この写真が、ぼくたち一家の運命を変えるきっかけだったんだと思います。ぼくは母に写真を見せました。その時、写真をじっと見ていた母が、一瞬、凍りついたようになりました。それから、母の頬を涙がつたいました。

   「麻紀・・・。」

 母は、たしかにそう言いました。その時に、ぼくは気がついたんです。マユミさんの顔が、仏壇の中の三歳の姉、麻紀ととてもよく似ていることを。母は、マユミさんのことをぼくに訊ねました。もう試合はないの?ぼくは、夏休み中に、もう一試合、今度は「千島ホークス」の地元の川向こうで試合をすることを伝えました。母は、その試合を見に行きたいと言いました。今まで、母はぼくたちの野球試合を見に来たことは一度もなかったのに。ぼくは、マユミさんが、弟の代わりに臨時で参加したので、次の試合には出ないかもしれないことを、母には言いませんでした。

 その時に、ぼくは全てを悟ったんだと思います。どうして、母がぼくを愛してくれなかったのかを。ぼくは、ずっと母がぼくを愛してくれないことに悩んでいました。もしかしたら、ぼくは貰い子なのかもしれない。それとも、父が他の女の人に産ませた子なのかもしれない。そんなことを考えたこともあります。でも、これでわかったんです。母がほんとうに愛していたのは、ぼくじゃなくて、死んだ姉の麻紀だけだったんだということを。

 次の試合に母が見物に来たのかどうか、もう覚えていません。次の試合は、中止になったのかもしれません。

                 ⭐︎⭐︎⭐︎
                                       
 以上は、家庭裁判所の依頼により、私が大阪少年鑑別所で行ったカウンセリングにおける、神城淳の発言の冒頭部を記録したものである。神城淳は府立高校3年生の時、その母、神城多津を包丁で刺した。幸い、多津は重傷をおったが、一命はとりとめた。神城淳は学区内有数の進学校に在籍する成績優秀な高校生であり、クラブ活動にも積極的に参加する、穏和な性格の持ち主だったと教師や生徒に思われていたので、この突然の凶行は周囲を驚かせ、かつ困惑させた。いったい何故、彼はこんな行為に及んだのか、動機は何か。母と息子、二人の間に何があったのか。

 それは、神城淳の父親にもわからなかった。彼は何も話さなかった。カウンセラーに任命された私は、彼と、何回か面談した。当初は、ほとんど何も話さなかった彼が、私に心を開いてくれたように思えたのは、私が、故郷、尾道の渡船の話をした時だった。島に住んでいた私は、毎日、高校に渡船で通っていたのだ。その思い出話をした。というのは、彼の住まいが、大阪木津川の千本松渡船の近くだったのを知っていたからだ。渡船の話が、なにかのきっかけになればという私の思惑は、見事に功を奏したことになる。                 

 ここに記録したのは、彼が数回にわたって断片的に話した内容をそのまま文章化して、ひとつにしたものであり、その発言内容には一切、手を加えていない。もちろん、彼が話したことが、作り話ではないという保証はない。担任教師によると、彼は小説好きで作文が得意な生徒であり、友人たちと同人誌を出していたというから、これらの発言が創作ないし虚偽である可能性はある。しかし、神城淳の話を直接聞いた私は、これは本当にあったことなのだと信じた。そして、彼が、母親を刺すに至った経緯も、今後、彼の口から追々明らかになると信じる。今、その時の私の直感は正しかったと証明されつつある。彼の話は続いている。詳しくは、再来月公表予定の最終報告を待たれたい。これは、あくまでも現時点における中間報告である。                 
                                 (了)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?