わたしはバケモノだった⑤
5.自分を知り始める
彼と別れてからはわたしは仕事に熱中していました。ちょうどグループ会社への出向もあり、大幅に業務が変わり覚えることも多くなり、いそがしくてプライベートにかまっている暇が膜なってちょうどよかったです。その時もまだ定期的に心療内科には通い、薬を少量出してもらっていましたが、大体安定していました。
出向から一年ほどたって、わたしは新しい出向先で、彼氏ができました。彼はわたしの12個上で今までであったことのないまじめな世間一般でいう“普通”のタイプの人でした。
いつも一緒に働いているうちに、わたしからアプローチして付き合ってもらいました。今まで、家族関係で問題を抱えている人や人に言えない関係性の人と付き合っていたので、表を一緒に歩ける人と付き合ってみたかったのです。特にやましいことはないものの、会社では仕事もしづらくなるので、誰にも付き合っていることは隠していました。
付き合い始めて、数か月たち、わたしたちはお互いに実家暮らしだったこともあり、部屋を借りることにしました。彼はただ二人で会うための場所を作りたかったそうですが、わたしはいい機会だし、その部屋に住みたいと伝えると、彼は同棲のようなものだから、ちゃんとしておきたいとわたしの家に菓子折りをもってきました。直接の挨拶はせず、お菓子だけ渡しただけでしたが、こうやって結婚とかまでしてもらえるかもしれないとわたしは期待しました。
わたしは結局、その家に住むことになり、半同棲状態になりました。一人暮らしもしたことがなかったので、ふたりで家具を選んだり、家事をしたりするのはとても楽しかったです。
一緒に住みだして数か月たった頃、彼からたばこ吸いすぎじゃないかと指摘されました。
わたしたちはふたりとも、アイコスを吸っていて、わたしは当時毎日、ひと箱半ほど吸っていました。はじめはなんでわたしだけ言われないといけないのかと腹が立ちましたが、彼から「女性なんだから、身体によくないと思う。今後のことを考えて子どものこともあるし、禁煙しなよ」と言われわたしは舞い上がりました。
この人はわたしと結婚したり、子どもが欲しいと思ったりしてくれているんだ!わたしこの人に認められているんだ!と思ったからでした。
そこから、わたしは禁煙すぐに初めてたばこをやめました。
周りには理由を言うのが恥ずかしかったので、咳がひどくなったからと嘘をつきました。そんなことでやめるなんて、男にふりまわされている自立心のないダメなやつだと思いました。
今回のわたしは彼との付き合いに不満もなく、ためし行為でほかの人と遊ぶこともなくうまくいっているつもりでした。
普通の人と、普通っぽい暮らしして、このまま結婚して、子ども作ったら、両親も安心するだろう。みんなからも認めてもらえるだろう。と考えていました。
煙草をやめて、食生活も和食、野菜中心でよい調味料を使って、運動も軽くして。仕事も楽しくて、彼ともうまくやれていると思い込んで、少しずつ溜まっていく違和感を見て見ぬふりをしていました。
彼は決してわたしの名前を呼びませんでした。
名前を呼ぶのが恥ずかしいというのです。はじめのうちは、まぁ、そのうち呼ぶだろうと思っていましたが、一向に呼んでもらえず、ある日会社で、後輩の女の子の名前を呼んでいるのを聞いて、わたしは落ち込みましたが、彼に何も言いませんでした。
ある日、一緒に散歩しているときに、テニスコートの横を通ったときに、「テニスやりたいな。わたし、テニスもできるし、なんでも大体運動はできるんだよね。」と彼に言うと、「また、そういうこと言っちゃってさ。」と鼻で笑われました。馬鹿にされた気がして、嫌な気持ちになりましたが、笑ってごまかしました。
ある日、我慢の限界がきて、彼の前で爆発しました。
大泣きして、彼に対してぶちぎれていました。彼はとても驚いて、何が起こったのかわからない様子でした。わたしは、初めはなんでこういうことをするのかと彼に対しても不満をぶちまけていました。怒りきると、泣きながら、わたしがダメだからだと自分をたたき、最後には「どうか頑張るからわたしのことを見捨てないでください」と彼に必死ですがりました。わたしは不倫していた時と同じ怒り方をまた彼にもしていたのです。
そのあとも、何度か爆発したときに、彼から「なんか怒り方おかしくない?」と言われました。今までいろんな人にこの怒り方をしてきたけど、誰にも言われたことがなかったのでとても驚きました。
わたしはそのときやっぱりと思いました。
自分の中でも、わたしはおかしいかもしれないと不安がずっとあったのです。わたしはすぐに、怒りについて調べ始めました。
わたしが怒る流れいつも決まっていました。
始まりは、彼への不満への怒り
→わたしのことが大切じゃないからそういうことするんでしょ?
→わたしがダメな人間だからだ(加えて自傷)
→もっと努力するから見捨てないでと大泣き
まず、前にさわりだけ勉強したアンガーマネジメントのアドバンスのクラスに参加して、怒りについて学んだあと、もらった怒り日記をつけて自分を観察することにしました。
わたしの場合は自分を守るための怒りは20%あるかどうかで、残りは他人を守るためか、自分に対しての怒りでした。アンガーマネジメントでは怒りに対しての対処法やどうやって怒らなくしていくのかを学んでいくので、自分の今の課題とは合わずに勉強するのをやめました。
自分はおかしいんじゃないかと思いながら、ネットで検索をいつもしていました。わたしは発達障害、ADHD、アスペルガー、境界性パーソナリティー障害、自分に当てはまると思ったら不安で仕方ありませんでした。ネットで調べていると、カウンセリングの文字をよく見かけるようになりました。
心療内科に通って先生に話を聞いてもらってはいますが、カウンセリングとは違うということはなんとなく知っていました。ずっと気になっていましたが、値段も高いし、わたしの中から何か知らないものが出てくるような感覚がして怖くてなかなか決意ができませんでした。
そうこうしているうちに、またわたしは彼の前で怒り狂い、自分を殴り、自分の髪の毛を切り落としました。お互いに疲弊していることにも疲れてきてしまってわたしはようやくカウンセリングにいくことを決めました。
いくつかのカウンセリングにためしに行ってみて、ようやく楽に話せそうな先生を見つけて通うことにしました。しかし、自分に何が起きるのかを自分でも知りたかったので、同時に産業カウンセリング養成講座も申し込みました。
カウンセリングではまず、自分が気になっていること、そもそもなんでカウンセリングを受けるに至ったのかを話しました。そのあとは自分の家庭環境や幼少期から今までの話をしていきました。1回45分で1週おきか2週おきに通っていました。
通って何度か経ったときに、話している最中に、不安と震えが出てきて気持ち悪くなりました。自分と母親との小さいころの話をしていただけなのに、触れてはいけない怖い何かに触れたような心地がしたのです。今までどれだけ過去の話をしても平気だったのに、でした。
カウンセリングで、わたしが母親の影響を多大に受けて、いまだに精神が支配下にあることがわかってきました。
わたしは基本的に、母親に嘘がつけず、秘密を黙っていることがほぼできませんでした。それに、自分がいいと思っても、母がいいと言ってくれないとそれがダメなことだと思いあきらめました。そうしないと、息が詰まってきて、死にそうな心地がしてしまうのです。
カウンセラーさんがわたしは母とわたしの境界線があいまいで、すぐに母親に自分を明け渡してしまう癖があると言われました。自分を必要以上に渡してしまうから、今のように苦しくなってしまうようでした。それに気が付いてから、わたしは他人と自分の間に線を引く練習を始めました。何かと実家に帰ることをやめて、自分で考える時間を取るようにしました。会社の人や彼といるときに、自分が嫌だと思ってたら伝えてみるようにして、自分がどうしたいか考えるようにしていきました。
また、自分の不安を言葉にして明確にしていく練習も始めました。
“よくわからない”ということが自分を不安にさせていくので、状況を明確化していくことで、自分を安心させていきます。わからないままにしないで、自分が感じている異変をことばに変えていくことで、明確に理解できて、「だから体だるいんだな」とか、「血糖値下がる時間だもんね」で脳に納得してもらうことでパニックに陥ることが減っていきました。
カウンセリングを受ける以外にも、産業カウンセラーの講座が始まりました。
カウンセラーの三原則として、自己一致、共感的理解、無条件の肯定があります。カウンセラーの講座ではまず、「自己一致」するためのワークがいくつもありましたし、練習が進んでいくにつれてどんどん自らを知ることが起きていきました。
自分の子どもの頃の話をしたり、練習で相手役をやっているうちに自分では思ってもみなかった自己開示をすることになったり、いろんな場面で自分が浮き彫りなっていき、新しい自分を知ることになりました。
自分ではおかしいと思っていたことが、みんなも同じように悩んでいることがわかることもあり、まるでグループセラピーでも受けているような感じで、自分の気持ちが軽くなっていきました。
軽くなる反面、自分では認めたくないわたしも出てきているのを感じました。プライドが高く、人と同じでは嫌だし、人よりも優れている自分ではないと認められない。講師の先生と呼ばれる評価者の人たちが望んでいることをしたいと思ってしまうわたしもまたいたのです。
両面からカウンセリングを自分にかけていくことで、自分のことを少しずつ受け入れられるようになっていきました。
カウンセリングをしてから一年ほどたったある日、今までは一方的に母に言われていたことに対して、「わたしのことはわたしが決めるから口を出さないでほしい」と言えたのです!その時はもう死んでしまうかもしれないと思って怖かったですが、しっかりと言えましたし、驚かれはしたものの、嫌われて見捨てられるようなことは起きませんでした。
わたしが本当に怒りたいのは母にでした!母に見捨てられたくなかったんです!!
当時離れていた母に言えたあと、自分の気持ちを伝えるべきは彼に対してでした。
わたしは彼といるのが居心地がわるいことにうすうす気が付いていました。それをだましだましやっていたのが、わかってきました。
わたしは彼の前では言いたいことも言えず、やりたいこともできずに勝手に我慢ばかりしていました。
わたしは彼に言われる前に、彼が望んでいることを行い、家のことは基本的にすべてやり、彼が喜ぶことを優先して自分のことをどんどん後回しにして言っていました。私も彼も同じように働いているにもかかわらず、わたしはそうでなくてはならないと思い込んでいました。また、彼はわたしの友人が好きではなく、友人と縁を切るか、彼と別れるか選べと言われてしまったので、わたしはこそこそと友達と遊ぶようになりました。
そのストレスからか、彼が家に帰っていない日は決まってたくさんのお菓子をぱんぱんになるまで食べ続けて、それでも足りず、また買いに行って胃に詰め込んで、気持ち悪くなっていました。そのまま、食べたことがばれないようにゴミをちいさくして、コンビニに捨てに行っていました。
実家に帰ったときに、彼のことについて父に愚痴っていると、父に言われました。「お前が無理して彼のところにいたら、本当に彼に合う人が彼のところに来れないんだから、手放してあげなさい。無理して合わせなくても合う人はいるんだからね。彼も、あなたもね。」わたしが合わせてあげて彼を幸せにできるという自分のおごりにこの言葉ではたと気が付いて、わたしはようやく彼と別れる決心をしました。
彼が好きじゃないわたしの友人と遊びに行きたいし、いままでも遊びに行っていたと彼に伝えると、彼は怒り始めて、それならもう終わりだ、別れると言ってきました。いつもならひいていましたが、勇気を出して反論しました。「なんで誰と遊ぶかお前に決められないといけないんだよ!ふざけるな。」と。わたしは今までもことすべてが腹が立ち、彼の頬をひっぱたきました。ほかにもたくさん今まで不満に思っていたことを泣きながら彼に伝えました。
今回はわたしが悪かったから許してほしいとすがることなく、ただ嫌だったことを泣きながら伝えました。言い終わってみて、もう別れるんだろうなと思って、悲しい気持ちとちゃんと言えたことへの誇らしさがありました。わたしはやっとわたしのために怒って、わたしを守れたように感じたからです。
その後、お互いに距離を置くために、わたしは当時、東京にあったHotel Claskaで1か月過ごしました。
その後、もう一度冷静なときに話し合い、お互いに無理があったことをお互いに認識して別れることになりました。
彼には、家を出るきっかけをもらい、カウンセリングにいくきっかけももらえて感謝をしています。
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