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清張を読む/即興詩人問題

松本清張の『西郷札』を読み終えた。一昨年くらいだろうか、帰省した折りに実家で〈新日本風土記〉の「松本清張 出会いの旅路」を観た。私が清張を読んだことが無いことを知った母に、是非読むよう勧められた。

そのときは興味が湧いたくらいのものであったから、わざわざ購入して読むということはなかった。何を隠そう、ミステリをあまり読まないのである。そんなわけで、初めて読んだ清張作品も『小説日本芸譚』だった。

『西郷札』も『小説日本一』と同様に歴史小説の部類に入る。緻密な時代考証という研ぎ澄まされたメスを片手に、颯爽且つ大胆に当時の社会に切り込んで行く姿は惚れ惚れする。

読み込んだであろう資料の情報に終始するものではなく、文字の中に活き活きとしたひとりの人間を描く。細部まで行き届いた史実の照合は、言わば舞台を整えているに過ぎないかのような印象を受ける。

個人的に義妹との間の恋慕こそ、本作の真骨頂であろうと考える。冷ややかな出来事の羅列ではなく、温かみのある"物語"たらしめるもの。ここらで次に進む。

続けざまに『或る「小倉日記」伝』を読了。芥川賞作品でもあるそうだ。こちらもミステリの類では無い。母の云うところの「日本語が綺麗」なる表現をじっくりと咀嚼する。遠くまで澄み渡ったような。

少し話は逸れる。作品の中にも登場する森鴎外訳の『即興詩人』だが、全く読み進めることが出来ていないことを思い出す。ちょうど一年ほど前、阪急三番街の古書店で購入したもの。

時代の隔たりを感じる文体と、所狭しと並ぶ滲んだ文字列に突き返されてからというもの、からっきしである。二月の末頃に津和野を訪れた際に鴎外記念館に足を運んだ旨を、ある古本屋の店主と話していたときのこと。

ふいにこの『即興詩人』の話題となったが、その店主も私と全く同じ感覚を抱き、読了には至っていないということを聞いた。仮に読み始めたとて、頓挫するのは時間の問題だろう。そんなことを考えると頁を捲るのが億劫だ。

突き動かすものの有無という差ははあれど、似たような感情と対峙しつつ、力尽きるまで事を遂行したのが『或る一』の主人公であろう。葛藤の表現は筆者自らのものに重なる部分もあるのか。

〈新日本風土記〉の当該番組の内容はあまり覚えていないが、清張は確かに研究者でもあった。彼が小説家として花開いたのが齢四十を超えてからであるという事実に深い感銘を受けるとともに、奇なる現実への関心も高まりを意識する。


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