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猫と法善寺と2人のをんな

道頓堀の劇場へ落語を見に行ったあと、人ひとりがやっと通れるくらいの小路を抜けて、大通りから法善寺横丁の水掛け不動へとたどり着いた。いた。まだいた!
塀の上で白に黒ブチもようの猫がやすんでいた。
ライブが始まる前、まだ日が沈みきっていない時間にここを通ったときにも、こいつはいた。そのときは、爺さんの横で静かに座っていたのだが。

「ツッツッ」と舌を鳴らすと、こちらを見下ろした。
険のない、スンとした目つきが愛らしい。
すっかり夜が更けてしまったのに、ぱっちりと目が開いていて元気なこの猫は、法善寺横丁とおなじように宵っ張りであるらしい。
可愛い猫であるが、すぐ撫でようなんて思わない。ノラ猫とは距離感が肝心なのである。

「こわくないのよ」と念じながら徐々に近づいて静かに見上げる。
猫は、私がいることに慣れたのかもうそれ以上動こうとせず、毛づくろいをしたり体を丹念になめたりしていた。写真も大人しく撮らせてくれた。
「そろそろいけるかな」と思って、ツゥーと指を塀に這わせ上げながら猫の近くまで持っていく。
猫の手の近くに指を置いたその瞬間、実にすばやい動きで中指を引っかかれた。
「痛たッ!」
思わず声を上げてしまったが、猫は驚くこともせず相変わらず悠々と腰かけたままである。
なんてプライドの高い猫やろ、と思いながらも、この猫をにくむことは出来ない。

しばらくそうして眺めていると「もーちゃん」という声が聞こえた。
振り返ると、入れ墨の入った白い腕がムチムチの女性が、猫に向かって声かけているのであった。
「この子、もーちゃんっていうんですか」と聞くと、その女性は
「牛みたいな柄だからもーちゃんなの。でもみんな色んな名前で呼んではるよ。あの子はクロちゃん。あの子はラブちゃん」
見ると、この猫の他にも、境内のあちこちに何匹ものノラ猫がいるのだった。

クロちゃんというのは真っ黒の猫である。
こいつを見ていると、料亭の裏口へそろそろと駆けていくではないか。
近づいて寄ってみると、勝手口の横に、黒色の豆皿が置かれていた。
薬味がやっと入るくらいの、小さな小さな豆皿である。
色あざやかなわさびを入れたらどんなに見栄えがするやろ、と思うような、つや消しの上品な墨黒色の豆皿である。

そこには、細長くちぎられた透き通った薄クリームいろの何らかの食べ物がほんのぽっちりと盛られていて、クロはその皿を片手でくるくると回しながら器用にくうのだった。
クロは何をくうているのか。
この料亭は鱧やふぐ、すっぽんを売りにしているから、下処理が済んだあとに残る、何らかの臓物なのかもしれない。それをうれしそうに平らげるこのクロという猫、なかなか食通の下手物好き、大阪らしい猫である。
くい終わってもクロは勝手口から離れようとしない。背筋をぴんと伸ばして、期待にみちみちた眼で、開けてもらえるか分からない勝手口のドアをジッと見つめている。
その様子はなんとも哀愁があり、夜の法善寺に趣を添えていた。

水掛け不動の横にはまた別の猫がうずくまっていた。
もーちゃんよりも薄いこげ茶と白の三毛である。
眠いのかなんなのかずーっと細目で、まんじりともしない。
撫でてみたら、オッケーだった。
「どうぞ勝手にしとくんなはれ…」という感じで、何にも動かない。好きなだけ撫でさせてくれる。
首あたりをこりこりとすると、やや体をくにゃっとさせたので、気持ち良くはあるらしかった。
首からおしりに向かって手櫛をかけるようにすうっと撫でると、ほわほわと毛が抜けた。
これが夏毛というのかしら。
「見て、毛が抜けたよ」
モケモケした毛のかたまりを見せてあげると、猫はチラ、と見てどうでもよさそうに目をつむった。
えんえんと撫でていると、水掛け不動にお参りしてるおっさんやらが「ヒャ、でっかいな!」とからかった。
そう。この猫は丸々としてる。もしかして肥えてるから動くんがしんどいんか。
すると、急にピク、と猫が立ち上がった。

目線のほうを見ると、キャリーケースを引きずったお婆さんが登場した。
純度100パーセントの猫おばさんである。
婆さんの登場とともに、どこからともなく6匹くらいの猫があらわれた。婆さんに体をすりよせながら歩いてる猫もいる。
そんで、いつのまにかもーちゃんもクロも、婆さんの足元に来てるやないか。

婆さんはキャリーケースから各々の皿を取り出し、その上にカンヅメ数種、カリカリのキャットフード、とバラエティに富んだゴハンをよそった。
よそうやいなや、猫たちは尻尾をクリンとして皿に顔を突っ込んでくい始める。
その姿を「あはは」「可愛いやんな」とか言いながら通行人が写真におさめてる。

フト見ると、がっつく猫の群れからちょっと距離を置いて1匹の猫が、ちょんと座っていた。
薄い茶色と白の三毛で、胸のところに薄茶の柄があるからそれがちょっとだけ胸毛に見える、チャーミングな猫である。
「ねえなんで離れて見てるのよっ。ごはん、いらないの?」そう声をかけても猫衆と婆さんをじっと見つめては足元に目線を落とすばかりで動こうとしない。
なんだかこの猫がいじらしくなり、私もこの猫のとなりにうずくまった。
この猫はピンピンとした緊張感を放っているから、撫でようという気にならない。
顔もおっかなびっくり、といった風情。
写真は撮らせてくれるが、カメラを見ない。うつむきがちの、うぶな猫である。

そうこうしているうちに猫衆たちの皿は空になっていく。すると婆さんはまた新たにカンヅメを開けた。
その中身というのが、健康な肝臓みたいな色をした、肉色のぼってりとしたテリーヌのような代物で非常に旨そうだった。
猫のカンヅメなんて、シーチキンのようなものだと思ってたから。
銀色の無地の缶に入っているから何なのか分からないが、高級なものかもしれない。
婆さんはそのテリーヌを割箸で切り分け、各々の皿に乗せた。
猫たちはまたもや皿に顔を突っ込んで食べた。

さらに婆さんは別の皿にカリカリのキャットフードを乗せた。
すると、それまで遠慮していた茶三毛がとうとう動いた。
「ああ、このカリカリが好きだったんですね!」
猫にともつかず婆さんにともつかず声を上げると、婆さんは「そうでっしゃん。この子、上品やねん。小食やさかいな。それに怖がりなんや…」と返事してくれた。
婆さんはそれから、この臆病な猫の名前が「チビ」であること、女猫であること、ここの猫たちはファミリーであること(「チビによう似たノッペリした顔のがおったやろ、あれがおかんやがな」)などを教えてくれた。
そして、自分は千寿ビルで飲み屋をやっていたころから店を閉めた今まで、毎晩ごはんをあげ続けにきているのだということも。
「この子らはまずいもん食べへんデ。ねずみとも遊んでるけどな、食べたりせえへん。あっちこっちで美味しいもん貰ろて、舌肥えとんねん。」
「その銀色のカンヅメ、おいしそうでした」
「へ。」

猫たちは腹をふくらませて散り散りになっていった。婆さんはそれを見送り、皿を1まい1まいキチンと重ねてキャリーケースにしまい、
「ほな私あっちへ行かなあかんよってな。まだまだ全部で15匹ほどおるさかいな」
そういって颯爽と去って行った。

きっと法善寺にはこの婆さんのように、まめまめしくご飯をやりにくる人がほかにもいるのだろう。あるいは贔屓にしている猫にだけあげる人もいたりして。
その証拠に、どの猫もずんぐりとした胴回りで、毛並みもしっとり光っていた。
今度またチビに会えたら、おやつをあげたい。
カリカリしたものが好きなら、ダシジャコはどうだろうか。
帰ろうとすると、黒い豆皿の置いてある料亭の勝手口が開いた。
新喜劇の吉田ヒロのうんと若いころみたいなおぼこい板前さんが、ゆっくりと店じまいにとりかかっていた。

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