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ヤクザと家族を見た(5回目)  記:大橋

※見るたびに改版しています汗
※今回はちょっとハードボイルド調です

おい、俺だ。大橋だ。
梅雨来たれば夏遠からじ。
雨の日が増えた。
歩くと肌着がしっとりと汗ばむ。
脇目も振らず夏に向かっている5月の一日。「ヤクザと家族」を見た。
2020年12月の1位であるクローゼットを見る予定だったが、前回の収録で石松陸夫がいると聞いて見ないわけにはいかなかった。

石松陸夫ではない、というのが最初の感想だった。
掴みの部分、芹沢は完コピと表現していたが、Theオマージュであるが、ストーリーが進行するにつれて、陸夫さがなくなり、最後には全く陸夫のことなぞ思い出しもしなかった。
なぜならば、陸夫にあったのは得体の知れない衝動のみで、ケン坊にはその他のすべてあったのだから。
全幅の信頼を寄せる弟分、母親のような焼肉屋のママ、そしてすべてを包み込むオヤジ(組長)。
しかしその後、2度3度と数を重ねて、その全く陸夫的じゃないケン坊を見ると、あの亡霊のような陸夫の面影が心に去来してくる。不思議だ。

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そしてはたと気がつく。
ケン坊が、陸夫というイデアに家族という光を投射してできた影以外の部分で形成されていることに。非陸夫的な存在=ケン坊である。

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図解するということになるかと思う。
オマージュというのは通常、図でいうところの裏陸夫であることが多い。本作も確かに裏陸夫で幕を開けるのだが、ケン坊はオヤジに命を救われて、崩壊してしまっていた家族を取り戻す。
自暴自棄だった生活に張りが戻る。信頼できる仲間と仕事、このあたりは裏社会といえども、人間である以上何も変わらない。自分を必要としてくれる人とスキルを発揮できる現場があることは人を漲らせるものだ。

そして有森也実とは全く逆、気の強い女性と出会う。「私も」本当の家族がいないことを告げたケン坊に応える女。天涯孤独だと思っていた二人が邂逅し不器用に心を寄せ合う。それは明け方の海辺で、深更の終わりの時間ーーーーーーーこの象徴的な時間の使い方。巧みだ。

まるでヤクザになることが幸せの切符だったかのよう穏やかな日々が訪れる。しかし監督は容赦ない。
素晴らしい長尺の映像を転機に、ケン坊を包む穏やかな日々はハンマーで打ち砕くように、というよりも、シロアリが家を蝕むように14年の時を経てゆっくりと崩れ去っていく。

全く、まったく陸夫的でない、陸夫的でない。と2度言いたくなる。しかし、作中ケン坊が幸せになればなるほど、人との絆が深まれば深まるほどに、陸夫の影がいやまして濃くなっていく。
兄弟を殺し、親の命を狙い、女にシャブを打つ。短絡行動の掛け算で複利的に破滅していくあの生き物をより鮮明に描くために本作を作ったのではと要らぬ勘ぐりをしてしまうくらいだ。

私はこの映画を3回見たあたりで、藤井道人という監督にすっかり魅せられてしまった。
他にはどんな作品撮っているんだろう。そう思って繰ると、「新聞記者」と「デイアンドナイト」、そして「青の帰り道」が出てきた。逆行して見てみた。
どの作品も容赦がない。最後に見た「青の帰り道」などは、冒頭だけで、このあと全員がたどるであろう不幸な道のり想像してに吐き気がしたほどだ。

芹沢がクローゼットを「パッケージとしてうまい」と評価していたが、この監督も社会問題の料理の仕方はミシュラン級である。どの皿も間違いがない。

この作品に出演していた俳優陣、誰も彼も素晴らしかった。特に目立ってよかったのが北村 有起哉さん。頼りがいがありそうでない兄貴役、実にギリギリのバランスで、大好きになった。

冒頭の写真はトイレの中のマーク・レントンだ。ケン坊じゃない。

今回はぞんざいな物言いですみません。私も綾野剛みたいにかっこつけて見たかったのです。そして舘ひろしに「ずいぶんがんばったみたいだな」と褒めてもらいたかったのです。

さて、現在白血病で療養中の花村萬月さんの作品で「笑う山崎」という超絶にバイオレントな、陸夫以上に恐ろしいヤクザが出てくる話があるのですが、作中山崎があるシャブ中を更生させるシーンあるんです。藤井道人監督は、あのあたりからヒントを得ているのかもな、とちょっと思った次第です。「笑う山崎」、たしか映画化されていないんだったな。




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