見出し画像

月と六文銭・第二十一章(09)

アムネシアの記憶

 記憶とは過去の経験や取り入れた情報を一度脳内の貯蔵庫に保管し、のちにそれを思い出す機能のこと。
 武田は複雑かつ高度な計算を頭の中だけで計算できた。スーパーコンピューター並みの計算力ではあったが、それを実現するにはある程度の犠牲を伴っていた。

<前回までのあらすじ>
 武田は新しいアサインメント「冷蔵庫フリッジ作戦」に取り組むため、青森県に本拠を置く地方銀行・津軽銀行本店訪問を決定した。
 津軽銀行がミーティングを快く受けてくれたおかげで武田は自分の表の仕事、そして裏の仕事の日程を固められた。
 総務部秘書課の松沼和香子まつぬま・わかこに日程確定を連絡したところ、準備していたかのように新幹線と青森セントラルホテルのコンファメーションを送ってきた。
 松沼は役員昇格間違いなしの武田の秘書になることを希望していたし、武田は松沼なら色々任せられると思っていたところだった。

09
<のぞみに青森に出張すると言ったら、一緒に行きたがるだろうな>

 今回の昼間の仕事はカモフラージュで、夜の仕事がメインだから、夜の時間は空けておかなくてはならない。恋人が一緒にいるから、昼間の仕事が終わってすぐに部屋に戻らないといけないのでは任務を完遂できない。そもそも、社畜役員みたいに、出張にホステスを連れていくような、そんなことはしたくないから、いくら本当の恋人とは言え、仕事(の出張)にのぞみを連れていくのは極力避けたかった。
 武田は正直にラインで青森出張のことをのぞみに伝えた。

tt:金、土で青森に行ってくる。
 津軽銀行の下期の運用方針の打合せ。
3nzm:私も行きたいけど、為替の動向分析と
 来週の運用会議の準備があるから(涙)
tt:お土産は何がいい?
3nzm:分からないわ
tt:地元の人に聞いて選んでくる
3nzm:うん、任せまーす(^▽^)/

 武田はのぞみが忙しいのを幸いと思った。23区を中心とする首都圏ならば下調べも確認も自分で行けるが、遠隔地の場合、下調べは組織の人間に任せるしかなく、特に気温や湿度、風向きなどは現地に到着してからの調整となるため、最悪、断念しないといけないケースもあり得る。
 もちろん武田はこれまでそんなことはなく、全ての狙撃を成功させてきたことから、サポートチームも自分たちは信頼されていると喜んで下調べを完璧にしてくれる。
 今回は障害物となる高い建物がない代わりに、狙撃地点として使える建物も駅前のビルと地銀の本店しかないという状況だ。

<車からか、超長距離で狙うしかないのか?>

 高い建物が多いと空気の流れが変わるなど狙撃が難しくなる半面、狙撃地点や狙撃時の目隠しになるビルが確保できるのが都会地のメリットだ。
 周囲に建物がほとんどない状態での最初の狙撃は例の山梨の宗教団体のビル狙撃だったが、外出者が少ない地方の夜だったため、上手くいった。
 今回は果たしてそうなるか。狙う施設が地方行政関連の建物が集中して設置されているエリアだから、多分夜間は無人だろう。
 地図で状況を把握しようとしていた武田は、詮索サイトの地図情報と青森県庁のサイトにある情報、中央官庁の関連情報、そして地元民のブログなどをチェックして、どれくらいの情報が掲載或いは漏れているかをチェックした。
 ワクチンの保存場所は農林水産研究所の検査材保存所で、普段はそれほど警備が必要ではないところだったが、六ケ所村の原子力物質濃縮技術研究所の核燃料漏れ事故があってから、各地の保存所、貯蔵所は管理と警備が厳しくなっていた。時間ごとの巡回や機械警備の導入が実施された。それでも、筑波や柏の葉、大岡山の施設に比べたら半分程度の厳しさに感じられた。
 武田は組織に貯蔵施設の真北に位置するアバホテルの13階の角部屋を予約してもらった。角度的には青森セントラル・ホテルのエレベーター機械室からの狙撃がベストで、それがだめならアバホテルからが次に使える角度だった。両方ともダメだった場合、ワンボックスかSUVから狙うつもりだった。見慣れない車のことを覚えている人がいる可能性はあったが、東京に戻って廃棄してしまえば、トラブルになることはないだろう。

<さて、プランA、プランB、プランCまで作ったから大丈夫だろう。バックアップの「イワダン」は別ルートで搬送中だし、整備中のイワダンは水曜日にピックアップすれば十分間に合う。>

 武田が使用する予定の狙撃銃は米大使館の経済分析官ジョン・デイヴィッド・コーヘンが在日イスラエル大使館のアハミット武官に整備を依頼してあったものだ。狙撃の後は基本整備をイスラエル大使館で行い、最終的な微調整などは武田が自分で行っていた。
 因みに、アハミット武官はイスラエル軍出身で現在はモサドの日本駐在情報官だ。赴任前は軍での諜報活動と破壊活動での武勲が幾つかあった。

 そこへ扉を叩く音がした。珍しく武田はその気配に気が付かず、ハッとした。

「あ、松沼さん、どうしたんですか?」
「すみません、受付に荷物が届いておりまして、大きくなかったので、そのまま持ってきました」
「ありがとう」

 武田はそれを受け取るとその場でパッケージを開け始めた。

「なんですの?」
「資料集です」

 スパイ映画なら聖書が入っていて、たくさんのページがくり抜かれて拳銃が隠されているなんてことがあったのかもしれないが、21世紀にそんなことをしたら金属探知機にすぐに反応して、警備所から照会が来てしまっただろう。

「米大使館のコーヘン経済担当からの『米国経済及び海外政策の見通し』です」
「大使館で作っているのですか?」
「議会予算局からの依頼でシークレットサービスと中央情報局、財務省そして連邦準備銀行が共同で編集しています」
「シークレットサービス?
 中央情報局?
 財務省と連邦準備銀行は分かりますけど」
「シークレットサービスは大統領警護で有名ですが、元々は大統領の個人的な警備や情報収集をしていた組織です。
 偽札対策はシークレットサービスの大切な仕事なんです。
 米ドルは海外にたくさんの偽札が流通していて、経済かく乱要因になりますので。
 中央情報局は一般にC I Aシー・アイ・エイとして知られている組織です。
 スパイを世界中に送り出しているとか、中南米の政権転覆を画策していることばかり取り上げられますが、国防上必要な情報の分析が本来の仕事です。
 国境紛争や政変が世界経済に与える影響などを分析して、様々なシナリオを大統領に報告しています」
「はぁ~」

 松沼はこれまで聞いていた各組織のイメージとは違う活動を説明され、圧倒されていた。

「いやぁ、世の中スパイだらけということはないですよ。
 あんなのは映画の中だけです」
「はぁ~。
 びっくりしました。
 それに武田部長、何でもよくご存じで…」
「大使館のコーヘンさんはアナリスト・ミーティングで知り合って、いろいろ教えてもらっているんですよ」
「そうなんですね」
「私がスパイだとでも思ったのですか?
 ははは」

 武田はスパイではないから何とでもいえるし、笑っていられる。松沼は武田が思っていたよりも鋭いのは最近のやり取りで感じていた。何か気付いたのであれば、処理してもらう必要も生じるが、今回のことが原因だとするとそれは自分の不注意から来たものだ。この情報パケットは自宅に送ってもらうべきだったかもしれない。
 しかし、何も気づいていないようだ。いや、この箱を開け、情報を挟み込んであるファイルを分解しない限りは気が付かないはずだ。
 そう、このファイルに挟まれている情報は本物の情報分析結果のレポートだ。会社としては大切な情報だ。今のところ武田だけがこの会社で入手出来ている情報だ。他社にも何人かいるかもしれない。米議会情報開示法で大方の情報はやがて開示されるが、大統領及び議会に正式に報告された後、議会のサイトに掲載される。

「見てみますか?」
「え?
 私が見てわかりますか?」
「英語だけど、いろいろな情報分析をしてあるものですよ」

 武田はそのままファイルを松沼に渡した。彼女はそのまま武田の机に置いて、真ん中から開いた。中東の地図に赤と青の線や矢印がたくさん書かれていた。中東情勢のページだということくらいはすぐに分かったが、それをどう使うのかは想像できなかった。

「現在のガザ地区の問題とそれが悪化した場合のイスラエルと周辺アラブ諸国のミサイルの応酬などを表現しています」
「はぁ~」

 武田は振り向いて本棚から地域の名のついたファイルを幾つか取り出し、松沼の目の前からファイルを取って金具を緩め、紙の束をごっそり取り出した。空っぽになったファイルは机の下にポンと投げ入れ、目の前の5つのファイルに書類の山を分けて追加していった。

「これが中東情勢、これが大統領選挙予測、こちらロシア大統領選挙予測、中国共産党大会のアジェンダとその見通し、そして、東南アジア諸国の動向」

 武田はファイルの金具を留め、閉じながら表紙をそれぞれ松沼に見せて行った。

サポート、お願いします。いただきましたサポートは取材のために使用します。記事に反映していきますので、ぜひ!