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月と六文銭・第七章(5)

 武田は自分のアサインメントと並行して、別の工作員が暗殺などを実行している事実を知り、自分を狙っているかもしれない中国人工作員と国内の女性工作員とどのように対峙したらよいか悩んでいた。

~エイジェント・ヨシコ~(1)


 武田が本部に対し、日本にいる日本人女性工作員の存在を確認する照会を掛けた。アジアに日本人工作員がいてもおかしくないとは思ったが、まさか日本国内で活動している工作員がいるとは、これまで思いもしなかった。
 どうしてそんなことを聞くのだとの反応がある可能性が高いと思いつつ、“japan-blue-yoshiko”とメッセージを送ってみたのだが、すぐに返信はなかった。

 そもそも「ヨシコって誰?」となりそうだが、諜報の世界では歴史に名を残した伝説の女性スパイが何人かいる。

 例えば、第一次世界大戦中にパリでドイツのために活躍したとされ、最終的には仏軍に処刑された「マタ・ハリ(本名マルガレータ・ヘールトロイダ・ツェレ)」はオランダ人のダンサー(ストリッパー)だった。

 多くの軍関係者と関係を持ちながら、軍の秘密を聞き出したとされている。ただ、伝説化されてしまっていて、実績が確認できていない。

 第二次世界大戦でいえば「シンシア(本名ベティ・パック)」が有名で、彼女は英国秘密情報部=MI6のスパイだった。ドイツの暗号を解読する突破口を探り当てたり、イタリア海軍の使用する暗号の情報を入手して、最終的には連合国の勝利に貢献した。

 1909年に設置されたMI6(軍情報部6課)は、1994年に英国政府が認めるまでは実在しない架空の組織とされていた。イアン・フレミング(MI6のスパイ「007」の作者)が一時所属したこともあるほか、サマセット・モーム(英国スパイ「アシェンデン」の作者)、グレアム・グリーン、そして、ジョン・ル・カレ(「ジョージ・スマイリー」シリーズの作者)などの作家も所属したことが今は知られている。

 同じく第二次世界大戦中だが、中国大陸で日本軍のためにスパイ活動をしたとして、最終的には中国国民党に処刑された「男装の麗人=川島芳子」が知られている。


 川島芳子は中国・清朝の元皇族で愛新覚羅アイシンカクラ顯㺭ケンシといい、川島かわしま浪速なにわ(日本のスパイマスターと言われている)の養女となり、結婚、離婚の後、上海に渡り、日本軍の工作員として活動したと言われる人物だ。

 敵国などの場合は“red”を付けて本部に照会し、味方の場合は“blue”、その他はyellowやgreen、brownなどを適当に付けることになっていた。中国やロシアはred、米、英、加、豪などはblueだった。
 味方、或いは同盟国でもblueで表示していいのか悩ましいのがイスラエルの工作員だった。同盟国らしからぬ大胆な作戦を彼らが実行することがあったからだ。同盟国の諜報組織に潜入したり、同盟国の偽造パスポートで入国し、同盟国内での暗殺も平然と実行していたからだ。
 すこししてから本部から返信があり、“3/3”との回答だった。これまで日本国内に男性工作員は自分以外にもう1人存在することは知っていたが、欧米と違い、国内に女性工作員がいるとは思いもしなかったのである。しかも、3人もいるというのだ。しかも、3人とも現在稼働中…。

 医学的知識や医療現場への立入りとなると、医師か看護師でないと難しい。リハビリのセラピストの可能性もある。医者はそれほどではないかもしれないが、看護師は流動性が高く、数年に一回職場が変わってもおかしくなかった。

 同じアサインメントにかかわっているとはいえ、直接行動を共にすることがないと思われる女性工作員に会うことがあるのだろうか?そして、大阪でどのように2人も同時に暗殺したのか聞くことができる日が来るのだろうか。


 翌朝出勤してメールチェックをしたら、また“確認メール”が届いていた。
 会社の定期健康診断は武田の嫌いな“年中行事”の一つだった。生まれてからこの方、健康だったことがなく、今さら医者や看護師の指導に耳を傾ける気は毛頭なかった。
 しかし、毎週火曜日に“確認メール”が届いて、受診をリマインドされるのも煩わしいので、リンクをクリックして、クリニックの予約を入れた。

 日本にいる看護師、現役もそうでないのも含めたら何人いるのか見当もつかなかった。その中からたった3人を探し出すのは不可能だろう。
 いや、論理的には、看護師の有資格者数は分かるし、登録地を特定することも可能だろう。自分のように海外でスカウトされたとは限らないし、強要されている可能性すらある。


 やはり探すのはやめた方がよさそうだと思い始めた矢先の受診で、武田は鼻の下を伸ばす状況に苦笑いした。
 クリニックの受付嬢が3人ともモデルのように美人揃いで、しかも図ったように3人ともほぼ164cmの身長で4cmのパンプスを履いていて、ギリギリ170cmを超えないようにしていた。
 紺のタイトスカートとジャケット、白の丸襟のシャツ、胸の谷間の入り口も見えて、首に結んだスカーフがアクセントを添えていた。顔は男性の好みに合うよう丸顔、ややシャープな三角顔、しっかり者の四角顔となっていた。

 更衣室で検査着に着替えた武田は床にあるオレンジの線に沿って、まず身長、体重、視力、聴力を測った。血液採取で自分と目線が一致する看護師に担当された。あのサンダルの踵分を差し引くと、156~7cmと小柄なのだ。
 どことなく初恋の千恵美ちえみに似ていると感じて、つい見取れてしまった。千恵美は看護師になったが、後に養護施設で子供たちを看ていると風の便りで聞いていた。
「武田さん、あと1本ですからね」と千恵美似の看護師に言われてハッとした。
「あまり採血は得意じゃなくて…」
「得意な人はあまりいませんよ。こちらでも読んでいてください」と千恵美似の看護師は片手に収まるメモを渡してきた。聖書の一説のような書きぶりだった。

『人、それぞれの道を征く。
 道が交差する者同士、同道するも良し。
 旅の友は一時の友。
 目的地の違いは定命さだめの通りに』

 読み終えて武田が目を上げると千恵美似看護師の名札がちょうど目の前だった。
『YOSHIKO O.』とプリントされていた。
「武田さん、ヨシコです。
 これで安心しましたか?」
「あなたが、大阪のヨシコ、さん?」
「その節は完璧なお仕事、ありがとうございました。
 お陰でこちらも2件とも案件が完了できました」


 武田は次に何と言おうか迷っているうちにヨシコに採血終了を告げられた。
「武田さん、揉まずに5分後にこの止血帯を外して、青色のリサイクルボックスに入れてくださいね」
「あ、はい」と武田は答え、採血室を出た。

 バリウムを飲んでいる間も、医者との問診の間も、ヨシコのことが気になった。看護師だろうとの仮説は証明されたわけだが、次にどのような状況で“道が交差”するのか、想像ができなかった。

 帰り際に採血室を覗いたが、既に交代したのか、ヨシコはいなかった。
「何か、忘れ物でしょうか?」と看護師が声を掛けてくれた。
「毎日、看護師さんは同じですか?」と武田は聞いてみた。
「登録している看護師が派遣されてきます。
 私も週3回。
 病院からも来ていますが、ほとんど派遣看護師が交代で対応しています」
 ヨシコは派遣看護師のようだということは分かったが、追跡調査は難しいだろうと結論した。敵ならばそのままというわけにはいかないが、味方であるうちは追跡調査をしなくても問題はないだろう。

 武田は検査着を回収箱に入れ、ロッカーのカギを持って受付に戻った。
「お疲れ様でした。
 結果はご本人と会社へお送りします」
「ありがとうございます。
 それではよろしくお願いします」
 武田がそう言って出口に向かおうとした、ちょうどその時、仕事を終えた看護師が後ろを通った。
「お疲れ様でした」と受付スタッフが声を掛けた。
「お疲れ様で~す」とその看護師が反応した。
 武田がエレベーターに向かおうと右を向くと、ちょうどロッカーのカギを返すヨシコが立っていた。

 武田はエレベーターで一緒になるようゆったり歩いて、下のボタンを押した。

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