月と六文銭・第十四章（５４）

　工作員・田口たぐち静香しずかは厚生労働省での新薬承認にまつわる自殺や怪死事件を追い、生保営業社員の高島たかしま都みやこに扮し、米大手製薬会社の営業社員・ネイサン・ウェインスタインに迫っていた。

　都は今回のアバンチュールの最終回を終え、ウェインスタインとまた会う約束を無事に取り付けた。貞淑な人妻である都が夫の待つ岡山へと移動するため、新幹線の駅へと急いだ。

～ファラデーの揺り籠～（５４）

２１３
　都はホテルの前の車寄せに停まっているタクシーに飛び乗り、品川駅に向かった。道が混む前なので、20分ほどで着くはずだと都は思い、迷わずタクシーを選んだ。多分、尾行されていることはないと思ったものの、きちんと品川駅まで行くつもりだった。
　乗車と同時に支給品のブラックベリーを開いて、本部からのメッセージを確認した。

＜ん、パーシャルプリントを分析中？＞

　ヴィッドが殺された現場に部分的な指紋＝パーシャルプリントが見つかり、大至急でデータベース照合を進めているということだった。残念ながらヴィッドの部屋にあるものが彼を殺すために使用されていたので、それらの出所を探っても進展しないことは初めから分かっていた。
　だからこそ、部分的でもいいから指紋が採取できれば、犯人捜しは進展すると思われ、死体を片付ける"清掃班"が注意深く現場を整理しながら指紋や髪の毛などを採取したり、靴の跡などを必死に探したようだ。

　タクシーが品川駅に着いたので、荷物を下ろし、エレベーターで改札階に上がった。
　品川駅のように利用者数が多いとその中に紛れ込むのは簡単だが、追われているかどうかを確認するには人が多すぎて困難になる。
　誰が尾行しているのかあぶり出すには利用客の少ない駅の方が都合良いのは分かっている。しかし、品川の駅ならば、改札内に入ってもレストランや売店があるので、時間を潰すとか、他の客を観察することが可能だ。
　都はコンパクトキャリーを引きながら、広めの改札を通り、エキュートの２階に上がってイタリア料理屋に入った。ここは入り口は一か所しかない上、狭いので、入店者が全員確認できる。
　都は向かって左奥のテーブルの席に座った。この席なら入り口からこちらは見えないが、鏡を立てて携帯電話のカメラを使えば、こちらからは入り口に来た客は全員見ることができる。

２１４
　パスタを頼み、イタリア産の白ワインを飲み、本を読むフリをしながら、入り口を観察した。通り過ぎる人や覗き込む人はほとんどいなかった。店内が見える位置まで入ってきた人は、そのまま入店していた。男性一人とか男性二人の組合せは店内にいない。そもそもそういう組み合わせが来る店ではなく、内装は比較的オシャレだったので、カップルや女性同士のグループが来ることが多い。
　インターネットの口コミサイトでは評価が高く、カップルで行くといいとか、オイル系パスタが美味しいとかデザートはコスパ（コスト・パフォーマンス）が良いとのコメントが多かった。

　店の前やエスカレーターの周りに監視している人がいないか確認しつつ、下の階に降りて、事務所へのお土産や夫と食べたい東京の美味しいお団子を買って、新幹線のゲートに向かった。
　怪しい感じるがする男性が２、３人いたが決め手がないと思った都は、仕方がないので新幹線に実際に乗ることにした。そこまでついてくるなら、本物だろう。
　新幹線の改札を通り、左側の売店によって、さりげなく、改札を通る人達を見ていた。見たことがある人はいないし、改札の周辺をうろついている連中もいなかった。
　雑誌を取ろうとした瞬間、見覚えのある横顔の男性が雑誌スタンドの自分の横に立った。

＜ゲッ、気が付かなかった＞

　勘が鈍っているのか？ハンドバッグに手を入れ、メリケンサックに指を通した。
　その男は『楽しいぞ、名古屋』とサブタイトルが付いた旅行雑誌を取りながら都に話しかけてきた。

「岡山の天気は下り坂です。
　関ケ原で新幹線が止まる可能性がありますね」

　都は意外だと感じながら、符丁を返した。

「それならば、名古屋で降りて宿を探した方がいいですかね？」
「いや、本日は出張を中止して、都内でもう一泊してもいいと思います」
「アドバイス、ありがとうございます。
　新横浜で一泊することにします」
「そうですか、良い旅を」

２１５
　都はコンパクトキャリーを引きながら、新幹線に乗った後の行動について考えながら、新幹線ホームへと向かう下りエスカレーターに乗った。

　本部は私とデイヴィッド以外に３人目の工作員をアサインしていたのか。
　彼によると私は新幹線での移動を中止しても大丈夫ということだった。慎重な自分は名古屋までは一旦移動して様子を見ようと思ったが、それすら必要ない、つまり都内にとどまって大丈夫との情報だった。
　念には念を入れて、新横浜までは移動して尾行者がいないか確認すると告げた。最後の「良い旅を」は、行かれればよろしい、という意味だった。都の性格を知っての返答だった。もう一度「都内でもう一泊」と言われたら、組織が安全を保障できるほど問題はないと言えるが、万に一つの可能性が残っていたので、新横浜行きには反対しなかったのだ。

　都は切符とは違う車両にわざと乗り込み、２両分だけ前に移動した後、走行中はデッキで電話しながら通過する人々を見ていた。新横浜のアナウンスがあってから、急ぐと２車両移動できるので、さらに２両前へと移動した。

　列車を降りる時、普通の人は近くの扉に向かう。移動するにしても隣の車両がせいぜいだろう。２両分移動する者は皆無のはずだから、ついてくる者がいれば、新横浜で降りずにその者が降りるのを確認してから、次の駅で降りれば万全だろう。
　ついてくる者がいなかったため、都は新横浜駅で新幹線を降車し、横浜線で菊名まで来て東横線に乗り換え、中目黒で地下鉄日比谷線に乗り換えた。恵比寿でそれも降りて、歩いて山を越えて、代官山のマンションまできた。東横線代官山駅で降りたら近いのだが、今回は任務なので、念の為、尾行をマく必要から敢えてグルリと回ったのだ。

　マンションにはデイヴィッドはいない。当然だ、殺されたのだから。ここは日本で任務を行う外国人工作員の隠れ家＝セーフハウスになっていて、デイヴィッドが使っていた部屋だ。都も実際に来るのは初めてで、予想に反して、整理整頓されていて、装備や設備はきちんと壁の棚に収まっていた。