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月と六文銭・第二十一章(13)

アムネシアの記憶

 記憶とは過去の経験や取り入れた情報を一度脳内の貯蔵庫に保管し、のちにそれを思い出す機能のこと。
 武田は複雑かつ高度な計算を頭の中だけで計算できた。スーパーコンピューター並みの計算力ではあったが、それを実現するにはある程度の犠牲を伴っていた。

<前回までのあらすじ>
 武田は新しいアサインメント「冷蔵庫フリッジ作戦」に取り組むため、青森県に本拠を置く地方銀行・津軽銀行本店への訪問を決定した。津軽銀行がミーティングを快く受けてくれたおかげで武田は自分の隠された仕事の日程を固められた。
 ところが、若手の渡辺が津軽銀行への出張を聞きつけ、同行したいと言ってきた。若手が積極的に動くのは良いことだと思う武田ではあったが、渡辺の場合、考えが浅いというか自分の昇進に繋がるところ、アピールできるところばかりを狙っているのが問題で、運用戦略会議のメンバーとなった今も武田の真意を理解していないようだった。

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 武田は渡辺を連れて行っても仕事をやり遂げられることは分かっていた。酔いやすい渡辺を酔わせて、部屋に押し込めば十分なのは分かっている。
 しかし、万一自分が何かをしている状況を見られた場合、最悪、電車のホームから落ちるか、トラックに轢かれるか、雑居ビルの非常階段から足を滑らせて首の骨を折るか、いくつかの結末が想像できた。
 いずれの場合も大使館のコーヘンに処置を依頼することになる。これまでは一般人を巻き込んだことがないのも武田のちょっとした誇りだったが、今回はあっちから来たのだから、因果応報、首を突っ込むべきでないところに首を突っ込んだ方が悪い。

<いや、それは可哀そうすぎる。大人しく諦めてくれたらいいんだが、明日の午前中までにプレゼンか何かを作って持ってきたら、その根性とやる気を認めざるを得ないが…>

 その時、武田の携帯が振動した。画面を覗いたら、恋人ののぞみからのメッセージだった。

3nzm:渡辺さんは青森に同行するの?

<決まってもいないのに、行くと周囲に触れ回っているのか?>

tt:誰がそんなことを?
3nzm:渡辺さんが自分で
 津銀で勉強させてもらえそうだと
tt:あいつ…
3nzm:決まってないよね?
tt:一人で行く予定だよ
3nzm:そうよね!
 安心した

<相変わらず渡辺は調子のいいことを言っているようだ。だからまだきっちりしたファンドを任せられない。負けを出しても景気のせいにしたりするタイプは最終的には信用できない>

 こうして、渡辺は昇格候補から脱落した。武田は恋人だからと言って贔屓目に見ることは絶対にしないが、のぞみの努力が実を結び始めていたことは確かだ。
 また、1年先輩の土屋良子も同期筆頭の実力を発揮しつつあって、こちらは外部研修の候補になっていた。
 土屋を外部研修に出向させ、のぞみを内部昇格させる案が妥当だろう。しかも、投資の世界には男も女もない。いや、これまでは男性がほとんどの世界だったのが、ここ十年で女性比率が随分上がってきていた。
 その一例がAGIのディーリング部門長だった。内部昇格をやめて初めて外部から採用した。外資から転職してきた木下きのしたという女性だったが、AGIとその前身のアジア総合投資顧問を通じて、ディーリングは男性の世界で女性ディーラーの数が少なかったのはもちろん、統括者つまり部長が女性となったのはこの木下が初めてだった。前職ではディーリングチームのサブヘッドをした経験があり、今回は部長への斜め上の転職で移ってきていた。
 ソフトでソフィスティケイテッドな人だが、すぐに敵がたくさんできた。男性のやっかみはみっともないから若干静まっていたが、リード・ディーラーの橋場紗栄子はしば・さえこが部長のポジションを狙っていただけに、どちらかというと女性の嫉妬の方が根深く、厄介だ。
 橋場は武田がニューヨークにいた期間中、出張とプライベートで毎年2回は来ていて武田も知っていたが、日本に帰ってから橋場の「ちょっと強い面」を知ってびっくりしていた。
 武田自身は木下のような人材がドンドン入社して、古い体質を崩していけたらいいと思っていたが、そういう目的のある人でなければ迷惑なのも分かっていた。
 そういう意味で木下は問題意識がないのではなく、敵を増やすことなく、通常モードで仕事を回すことを優先したかったのだ。

<松沼と瀬能、渡辺は同期。瀬能はニューヨーク駐在が内定している。差が付くのを渡辺が黙って見ているわけがない。それで出張に同行したいと言い出したのだろう。しかし、残念ながら、力不足を露呈させ、逆に墓穴を掘ったな>

 武田は自分のチームには誰を入れ、誰を残し、誰を放り出すかを冷静に成績だけで決めていた。
 恋人ののぞみを追い出したら、「家庭内不和」が発生することが予想されたが、武田がフェアな評価しかしないことを知っているだけに一瞬で収まるだろうと見切っていた。
 問題はのぞみの先輩の土屋良子を放出した場合だ。1年の差があるとはいえ、のぞみがチームに合流したのは土屋の3か月後で、それほど差がないことをみんなが知っている。
そんな状況で、土屋をクビにして、三枝を残したらそれこそシコリが残ると予想された。切るならのぞみか?辛いな、と思っていたところに出向の話が2つ来て、なんとか収拾がつく見通しが立ったところに、渡辺の勇み足。準備もできていないのに武田に出張への同行を求めたのである。そんな行為は絶対許されるべきではない状況だ。
 しかし、武田は明日の正午までに渡辺が津軽銀行向けのプレゼンテーションを準備して来たら、今回の勇み足を許そうと思っている。積極的に自分から相談に来たのは良き方向への成長を示していたからだ。
 逆に渡辺が何も持って来なければ、残念ながら彼はゲームオーバーとなる。
 厳しい客からの注文を文字通りにだけ処理していたら、いつまでたっても良い提案もできないし、超過収益を出していくのも難しい。
 ファンドマネージャーとしては超過収益を出していくことがファンドにとっては最善だが、その過程で関連情報なども加味して、自分から発信する運用者は結構いるし、それを期待している投資家も多い。

<渡辺はどうやって平凡なファンドマネージャーと自分を差別化していくつもりなのだろうか?>

 土屋は野本の研修からの出向で約1年を外で過ごす。三枝は地方銀行協会に出向し、地銀の実態を学ぶのと同時に運用のチャンスを見つけるよう指示を受けている。こちらも出向開始から1年間を想定している。

<2年にしたかったなぁ、二人とも>

 武田がロンドン駐在になって、欧州統括部を立て直すのに12から18か月かかると計算していたので、2年後に三枝のぞみが合流するなら、欧州のゴタゴタは収まっていて、落ち着いた生活ができるようになる見込みだった。
 3年で戻った場合、2年の出向を終えた土屋に欧州駐在させる案もある。同じく、もし2年で戻った場合、土屋が2年で戻るならば本社で一緒に運用することを考えればよい。
 しかし、二人とも1年だけとなると、土屋を欧州駐在に据えてロンドンに来させる。そうなるとのぞみは退職して、ロンドンに来たがるだろう。それも良しとしないといけないだろう。
 たくさんのシナリオが考えられるが、答えは一つしかない。それは体が一つしかないからだ。一つの選択肢を選んだら、他を選べないのが選択の科学というもので、だから世の中は複数のシナリオが同時に走ることなく、ある意味一本道で進む。そうでないとパラレルワールドが幾つも発生し、SFの世界になってしまう。

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