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月と六文銭・第二十一章(06)

アムネシアの記憶

 記憶とは過去の経験や取り入れた情報を一度脳内の貯蔵庫に保管し、のちにそれを思い出す機能のこと。
 武田は複雑かつ高度な計算を頭の中だけで計算できた。スーパーコンピューター並みの計算力ではあったが、それを実現するにはある程度の犠牲を伴っていた。

<前回までのあらすじ>
 武田は株式のホープ・土屋良子つちや・りょうこと1年後輩の三枝さえぐさのぞみを外部研修に送り出そうと社内調整を進めていた。表向きは「土屋と三枝にレベルアップの機会を提供する」ことだったが、万一自分に何かあった時に備えて、恋人ののぞみが一人で生きていけるようなスキルを身に着けさせることも考えていた。
 自分自身の欧州駐在は決定しているものの、中国人暗殺集団・明華ミンファが迫っていることも事実だった。無事にこの危機を脱して、欧州駐在できても、やはり連れていくことは難しいから、数年会社を離れていられる状況を作りたかった。
 無事に切り抜けられなかったら、可愛そうだが、一人で生きていくなり、別の人と家庭を築くなり、幸せになってほしいと思っているただ一人の女性が三枝のぞみだった。

06
 自分の部屋に着くと武田は普段鍵が掛かっている引き出しを開け、ブラックベリーを取り出して、メールを見た。

<早める?本気か?これ以上早めるのは無理だ。準備に時間が必要だと伝えたはずだが。ん?簡単な案件?そんなわけないだろう!今時の案件に簡単なものなどないじゃないか!>

 全国20か所に設置されている厚生労働省地方局の大規模災害時備蓄センターには薬剤・医薬品保管庫があり、その一つに届いたCF型ワクチンを「使用不能にせよ」というのが今回のアサインメントだ。

 日本に届いたシーヴィッド19・ワクチンの一部に3-2型RNA逆転写酵素が紛れ込んでいるというのだ。病気の細胞は修繕・修復されるが、そうでない細胞は突然変異を起こし、細胞の増殖や分裂を阻害したり、不能にしたりすることが検証実験で確認されていた。これを廃棄させて使用しないようにしないと、接種した日本人の多くが細胞レベルでのダメージを受け、免疫不全で次々に倒れ、亡くなる可能性すらあった。

 武田は送られてきた地図と図面を見て、狙撃自体が難しくないことを確信したが、タイミングをどうするかが課題だった。
 おりしも野党の一つ、主権在民党・党首の茅ヶ崎正幸ちがさき・まさゆきがインターネットのソーシャルメディアを通じて主張した「ワクチン冷蔵庫のプラグを抜こう!」という呼びかけに対応したテロ活動が全国で展開中だった。
 接種用に全国に配賦されていたワクチンの保管庫の電源プラグが抜ける事件が相次いでいた。冷蔵保管が必要なワクチンは温度が上がってしまい、使用不可となり、廃棄されるケースが相次いでいた。
 タイミング的にはこれらのテロ活動が続く間に彼らの仕業として、保存庫の一つの扉の鍵を壊すことは朝飯前だった。山梨の教団施設にあった空調のパイピングの方がもっと難しかったと武田は思っていた。
 しかし、徐々に広がりつつあったコロナ禍に影響が出ないか気になったのだ。もちろん、問題のあるワクチンが善良な市民に摂取されて、人が亡くなればそれはそれで大問題だが、混入を許した杜撰な製造設備の製薬会社と事前審査を怠って、政治に押し切られる形で承認した薬事行政、つまり厚生労働省の責任は有耶無耶人されてしまうのだ。
 もう一つ気に入らない点は、この最初に日本に到着したワクチンの接種を受けるのが、国会議員という国政では重要だが、明らかに老害になっている連中となっていたことだ。老害を取り除くにはそのまま接種を受けて、後は運を天に任せて、生き延びた国会議員には存在価値があるのだろうと見物するのも一興かと思わなくはなかった。
 しかし、神ではない武田が、他人の命で賭け事をするようなことは考えなかった。確実に殺さないといけないターゲットならばその仕事をやり遂げるが、運天は自分の性格には合わないと思った。

<行くか、青森>

 武田は受話器を持ち上げ、総務部秘書課の松沼和香子まつぬま・わかこの内線番号を押した。

「武田部長、松沼です」

 呼び出し音が2回目に鳴った瞬間に松沼が電話を取った上、表示された番号で自分だと分かったことに武田はびっくりしていた。

「松沼さん、津軽銀行本店、青森市橋本1の」
「9の30ですね。
 近いところで、武田部長の宿としては青森セントラルホテルはいかがでしょうか?
 以前常務も使用していますし、津軽銀行本店まで徒歩で6分です」
「お願いします。
 先方とミーテイングの日程が決まったら、連絡します。
 再来週月曜になると思いますので、17日の日曜に移動、宿泊、18日に東京に戻ります」
「承知しました。
 四角いキングサイズで申し込みます。
 30分以内に仮予約を済ませますので、日程が固まりましたら、コンファームします」
「ありがとう。
 ところで、どうして津銀つぎんの住所を?」
「父が青森支店勤務だった時に市内に住んでいたので知っています」
「ほお」
「父は新富士製鉄で東北地方の統括をしていた時に青森に支店がありまして、家族で住んでいました、当時」
「すべての銀行の本店の場所を暗記しているのかと思いました」
「一応、大口先は全て暗記しています」
「それはスゴイ…。
 津銀の返事が来たら連絡します」
「承知しました」

<松沼、できるじゃん!これなら、能力を持て余すなぁ。経理で一時苦労したけど、総務系は余裕があるな>

 武田は松沼がきちんとしていることに感心していた。どうしても不倫だのパパ活だのが先に頭に浮かんでしまうため、偏見が混じっていたことを反省した。
 松沼は六本木コンチネンタル・ホテルでパパ活(当初は上司との不倫だと思われていた)しているところを武田とのぞみに目撃されていた。人事に報告が行き、謹慎したり、上司の桐生きりゅうが辞めていったり、松沼自身から善後策を相談されたりしたこともあった。
 松沼は武田に、抜群のスタイルも喘いだり、ディープキスしたりしていた場面を見られたことは知らない。

 武田はターゲットが冷蔵施設なのは分かっていたものの、一通り関連知識を入れておこうと携帯電話で検索したリンク先をメモ帳に張り付けて、再び携帯電話を引き出しにしまい、鍵をかけた。

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逆転写酵素(Reverse transcriptase、リバース・トランスクリプターゼ)とは、1970年に、その発見によりのちにノーベル生理学医学賞を受賞した分子生物学者であるハワード・マーティン・テミン(Howard Martin Temin)とデビッド・ボルティモア(David Baltimore)によってそれぞれ別々に発見された酵素だった。

逆転写酵素の具体的な機能としては、RNAを鋳型としてDNA を合成する働きを持つ。

一部のウイルスが自分のRNA遺伝子を寄生する相手である宿主の細胞のDNA遺伝子に組み入れるときに用いる。

生物において遺伝子は、遺伝情報が格納された原本である頑丈な二重らせん構造をした二本鎖DNAから一本鎖RNAへとコピーされ、 それを鋳型として、別の場所にたんぱく質を集めてDNAを作り上げていく。鋳型となるRNAに自分のDNAのRNAを組み込むことができれば、生物のDNA内に自分のDNAを組み込むことができる。
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<こうやってウィルスや病原菌は人間や他の生物に入り込んだりするのか>

 武田はいっそのこと、汚染されたワクチンを国会議員に打たせて、彼らがどうなるのか、自分だけが知っている賭け事に興じたい誘惑に一瞬駆られたが、首を振ってその考えを振り払った。

<いや、ちょっと待て、もしこれが何らかのコントロールされた事故だとしたら、本物のテロか革命の兆しになるのではないか?静香しずかは何かを知っているのだろうか?>

 武田は急いで引き出しの鍵を開け、再びブラックベリーを取り出して、田口静香たぐち・しずかに暗号化されたメッセージを送った。 

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