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『火の鳥羽衣編』をめぐって

 コンビニコミックとして出ていた『火の鳥』(手塚治虫)の話である。 2015年に秋田書店から出版された分厚いやつ(全5巻)があって、その3巻目に「羽衣編」が収録されている。いわゆる朝日ソノラマ版を底本としていて、同時収録は「復活編」と「望郷編」である。

 羽衣編についての最低限の説明をしておく。シリーズの他の物語はすべて長編または中編であるのに対して、羽衣編だけが44ページの読切短編である。また、画面は冒頭とラストを除いて全ページがタテに4コマに割られていて、すべてのコマが同ポジション(カメラ据え置き)の舞台劇風な演出になっている。

 このコンビニコミックには中野晴行なる人物の解説(タイトルは「『火の鳥』をもっともっと楽しむために」)が添えられている。その内容がけっこうオソマツさんなのだ。
 『火の鳥』の連載がCOMからマンガ少年に移ったことを、「マンガファン向けの専門誌から少年誌に移った」と書いているのはいいのだが、しかしすぐ後に次のようにも書いてある。

◆『COM』版の『火の鳥』は<恋愛>が重要な要素になっています。これは連載開始当時の少年マンガでは珍しいことでした。(中略)ところが、『火の鳥』には各話に恋人たちが登場します。

 これは先ほどCOMを「マンガファン向けの専門誌」と評したことと矛盾している(COMは少年誌ではなくて今で言う青年誌だったから、恋愛も普通に扱っていた)。

 雑誌初出時と単行本での相違についても考えてみたい。
 初出はCOM1971年10月号で、その段階では単行本化されなかった。当時の虫プロ版の単行本では、直前の復活編までしか単行本にならなかったのである。羽衣編に続いて連載が始まったのは望郷編だが、この二編は物語的に関連している。過去エピソードである羽衣編のヒロインが、未来エピソードの望郷編にも同一人物として登場するのだ。
 順調にいけばこの二編を合わせて次の単行本に収録する予定だったのだろうが、不運にもCOMの休刊によって望郷編は連載2回目で中断してしまう。

 そして『火の鳥』は1978年になって月刊マンガ少年で再開され、望郷編の新連載が始まった。しかしそれは中断したCOM版とは異なる全く新しい内容になった。そしてその新しい望郷編と同時収録で、羽衣編が初めて単行本として刊行されたのである(朝日ソノラマ刊)。だがその羽衣編も、展開やセリフがCOM版とは全面的に変更されたものだった。
 羽衣編のこの修正に関して、前述の中野晴行の解説にはこうある。

◆もともとの「羽衣編」は、このあとに続く「望郷編」と一体になって過去と未来を結ぶ構成になっていました。しかし、「望郷編」の内容ががらりと変わってしまったために、セリフを直して独立したエピソードとして作り直されたのです。

 そうだろうか。ここで書かれていることは、順序が逆だと思う。
 当時から、「放射線被曝によって奇形児が生まれたという内容が問題になって羽衣編は内容が変更になった」という推測がなされていたし、また1970年代後半は差別用語や差別表現とされたものの書き換えや抹消がとても華やかなりし時代だったのだ。
 朝日ソノラマとしてはセリフ等を修正しなければ出せなかっただろうし、その結果として、当然のように望郷編の内容もリニューアルされたと考える方が無理がない。なぜなら、もともとのCOM版の羽衣編は、望郷編とリンクしなかったとしても独立した短編として成り立っているからである。

 あと何点か、中野の解説の誤りを指摘しておきたい。
 羽衣編に関して、「神社の境内で演じられている人形芝居を観客としてみている、という少し変わった設定」と書いているのだが。
 どう見ても人形芝居ではない。最終ページに首の取れた浄瑠璃人形が象徴的に描かれてはいるが、作中の芝居は「素人歌舞伎」であろう(「農民歌舞伎」「地歌舞伎」などとも呼ばれる)。また細かいことを言えば、作中の絵からは神社かどうか分からない。寺か何かの可能性もある。

 羽衣編のストーリーは羽衣伝説に材をとっている。羽衣伝説の最古の文献が8世紀のものとされていることから、中野の解説には「『鳳凰編』と同じ時期が舞台と考えられます」とある(「鳳凰編」は奈良時代)。実に短絡的だ。COM版の中に「此度 源頼朝公 朝敵を討伐の為上洛し給ふ」というセリフがあることから、舞台は12世紀後半(平安時代末期)であることが分かる。つまり次の過去エピソードである乱世編に直結しているのである。
 単行本版に従うとしても、中に「逆賊平将門反乱をおこしたるにより」のセリフがあることから930年代(平安時代中期)ということになり、鳳凰編と同時期だと考えるのはやはり無理である。

 最後に揚げ足取り、「『羽衣編』は、43ページの短編です」とあるが、44ページが正しい。以上、オソマツさんな解説についての解説でした。

 さらに羽衣編について、まだ続くのである。

 せっかく色々と書いてきたので、ついでにCOM版と単行本版との相違を少しまとめておこうと思う。羽衣編が最初に掲載された「COM1971年10月号」が幸い手元にあるので、単行本版と細かく比較してみよう。
 なお、COM版のセリフは旧仮名遣い(および部分的に旧漢字)で書かれている。歌舞伎っぽさを出す意図だろうか。
 ※以下、初出のCOM版を<C版>、朝日ソノラマの単行本版を<A版>と表記する。

 <A版>の羽衣編は44ページだが、元の<C版>は32ページである。後から作者が12ページ増量したことになる。どちらも、各ページがタテ4コマに割られてカメラ据え置き・舞台劇風であることは一貫している。キャラクターの出入りはあまり変わっていないが、芝居としての間(ま)が増えているのである。
 まず、アニメでいう「BGオンリー」(キャラがいなくて背景または幕のみのコマ)が<C版>は11コマなのに対して<A版>では32コマだ。同じ景色が数コマ続く場面が何箇所か作られている。また、黒ベタのコマで表現されている暗転も、<C版>では1回だったのが<A版>では2回になっている。
 書き忘れていたが、夫婦になる男女の名前は夫が「づくなし」、妻が「おとき」である。ストーリー的に新たに追加されたのは、ラストで「づくなし」が羽衣を埋めるシーンのみである。
 余談として、漁師のづくなしは「びゃーら」という魚が不漁だと<C版>で言っているが、いったいどんな魚のことなのだろう(<A版>ではこのセリフはカットされている)。

 さて<C版>において、二人の間の赤ん坊(男児)が奇形児であることが最初に分かる箇所のセリフはこうである。
「ややの体躯(からだ)が並の人間ぢゃねえ事は知っとるでよ」
 これが<A版>では女の子に変わっており、同じ個所は、
「浜一番の美人になるでよ……そしたらええ男と結ばせて」
 となっていて、赤ん坊の体に関しては触れずに進行していくのである。

 その後づくなしが徴兵されそうになるが、おときが役人に羽衣を渡すことで見逃してもらう。しかしそれはおときの大切なものだと憤り、づくなしは取り返そうと役人を追って行ったまま行方不明になった。残されたおときは悲嘆にくれ、スポットライトの中で我が子に語りかける。その内容が、両方のバージョンで大きく違っているのだ。

 <C版>の方では、おときは二千二百年の未来から来たことになっている。彼女が失意の中で赤ん坊に語りかける大意は、次のような内容である。
 ‥‥遠い国で大きな戦があった。私は身体中に「毒の光」を浴び、ある乗り物でここへ逃げてきた。しかし毒の光の名残りでお前のような生まれてはいけない子が生まれてしまった。

 もう一方、<A版>におけるおときは、千五百年未来から来たことに変更されている。同じ場面で次のようなことを娘に語る。
 ‥‥私は戦争で孤児になって収容所に入れられ、そこで火のように燃えている不思議な鳥を見た。鳥は望み通り私を昔の世界へ送ってくれた。しかしお前が生まれてしまったことで、未来人の生んだ子孫ができてしまう。

 さらに語り続けるおときのセリフを両方のバージョンから引用する。

<C版> 「この時代に生まれても一生笑ひ者 不具(かたわ)者になる許り‥‥ いっそ死んでお呉れ(中略) かか様がお前を幸福(しあわせ)な所へ送って上げる」

<A版> 「タイム・パラドックスになるわ おまえは生まれてはいけない人間だったのよ(中略) かあさんのわがままな無慈悲な仕打ちをゆるして‥‥」

 どちらのバージョンでもおときは赤ん坊を一旦は殺そうとするが、できない。そして赤ん坊を連れて元の世界へと帰っていく。やがてづくなしが、羽衣を取り返し傷を負って戻ってきた。だがおときは既にいない。
 <C版>ではづくなしが一人で嘆きつつ幕が閉まり、そこで終わる。
 <A版>の方には2ページほどの追加があり、づくなしは羽衣を松の根元に埋めて家の中で倒れるのである。さらにその家(つまり大道具)が舞台袖へスライドしてハケていくという芝居的な演出があり、舞台には松の木と海だけが残って幕が閉じる。

 こうして比較すると、<A版>は普通の時間旅行モノに過ぎない感があり、<C版>に含まれていた大きなテーマが失われてしまっているのが残念だと思う。手塚の最初の構想通りに、おときと赤ん坊が未来へ帰還したあとの物語が描かれるはずだった本来の望郷編を、ぜひとも読んでみたかったものである。

(2016.11初稿/2020.6改稿)

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