キリクチ・マゴ、ライブハウスのブッダ

(Bru)大学時代のゲームサークル時代の友人から、ニンジャスレイヤーに関する文章を発表してほしいと頼まれました。
彼のドイツの友人から文章を託されたというのです。
しかもキリクチ・マゴについて。
以下がその友人と、友人の友人の文章です。


マックスのおかしさが知れ渡るのに時間はかからなかった。
歓迎会の席、多くの留学生たちが好きなアニメやら日本の歌やらで盛り上がっているとき、ヤツは無表情のまま立ち上がり、ボサボサの頭をかきむしりながら、
「生は存在しない」(人差し指あげる)
「そして、死も」(ビールを一気飲みして座る)
こんな調子だったのだ。
油っぽい赤毛、ワキガがひどく、そばかすだらけで、いつも目が据わり瀕死のゾウみたいな面をしていた。
だが、飲み会となればヤツは常にやってきて、少しビールを飲むと意外とすぐに酔っ払い、とたんにひょうきんになり、しばらくすると泣き出し、更に飲むと発狂した。
十三階段事件、“天使の輪”、田植え問題。
小汚い寮の203号室は常にアニマル・ハウスだった。
いつも無茶苦茶で、会えばすぐに口論になり、何度絶交したかわからないが、自分たちはなんのかんの言って、最高の友達だったんだと思う。(しかしもしも機会があったとしても、今年4歳になる娘には絶対会わせない)
そいつから実に久しぶりに連絡が来た。
驚くべきことにまるで変わっていなかった。
それで何かと思えば、ニンジャスレイヤーとか言う小説について、評論を書いてきて、どうかこれを翻訳してほしいというのだ。
ふとしたきっかけで読んでみたところ、極めて重要な哲学的な真理、いや、悟りに至ったから、と。
そしてその悟りをみなで共有したい。まずは、おそらく大部分が悟っているであろう日本のヘッズに読んでもらいたい。
つまりその文章はドイツ語だった。平成一桁以来使った覚えがないのに。
ともかくさっと目を通してみたのだが、まるで解読不能であったので、ひとまずニンジャスレイヤーをいくつか読んで題材についての知識を深めることにした。
すると思ったより面白いと思ったが、しかし読んだ後でも、やつの文章の意味は皆目見当もつかなかった。
文内では「キリクチ・マゴ」というバンドについて触れられている。
初め読んだときは準レギュラーか何かなのかと思ったが、そんなことはなく単なる端役ではないか。
以下が登場シーンの全てだ。

さて、いくつか訳の間違いもあるかもしれないが、とりあえず自分は最善を尽くしたし、ヘッズの友人にも目を通してもらったが、このまま発表するしかないという結論になった。
段落ごとに話が飛ぶ、脈絡も意味もわからん文章だが、ちょっと読んでみてやってほしい。
Twitter連載をまねた書き方なのかと思ったが、ヤツはフランス哲学専攻だったから、もしかしたらパスカルとか、ドゥルーズあたりを意識しているのかもしれない。
また、いくつか掛詞らしき部分があったが、もともと衒学的で訳のわからん文章が更に混迷を極めるため訳出しなかった。
以下本文である。


キリクチ・マゴ、ライブハウスのブッダ ~ハイデガー・和辻哲郎・竜樹~
               マックス・トリトンスホルン     

ルイス・デ・ゴンゴラ曰く、「とある砂漠に転がる、比類なき宝玉のことを想像されたい。ただしその砂漠は、神の御意志により、これまでもこれからも、けっして人が足を踏み入れることはない。するとその宝玉は実在のものではないことになる」

ある小説家が遠い未来に、時空の気まぐれによって、放り出された。すでにドイツはなく、ドイツ語もなく、それどころか人間すら残っておらず、彼女は、その時代の地球の支配者であるたくさん触手のはえたブルーベリースコーンのような心優しい住民たちに歓迎されて死ぬまで幸せに暮らしたが、最後まで小説が書きたいと言っていたそうだ。

とあるフリージャズの大家は、どんなときでも毎週ライブを開いていた。たとえ客が二人だろうと、一人だろうと。誰もいないときですらライブを行った。彼が死んだ今でも、金曜の9時半はライブの時間だ。

キリクチ・マゴ。彼らがなぜ寒さを歌ったか。そもそも寒さとはなんだろうか。たとえば山は寒がるだろうか。あるいは、空気は寒がるか。木々は寒がるかもしれない、しかしそうとは限らない。我々は人間であることに囚われ、あらゆるものを“あまりに人間的な”尺度で測ることに慣れきってしまっている。

そう、問題は人間的であるということなのだ。人間についてハイデガーは、In-der-Welt-seinと語った。世界内存在。ただ世界の中にある、というだけではない。

人間の実存、すなわち実際にある状態、誰もが自分の実存からは目を離したがる、誰も自分のことなど知りたくない、いや、もちろん知りたい、人に認めて欲しい、しかし自分の欲しい自分は人の欲しがる自分だ、本当の自分はこんなものではない、ラカンだってほんとうは何を考えていたか知れたもんじゃない、自分を欲求することは果てしのないことだ、なぜなら既に持っているのだから。

ゲーテ曰く、人生とはできるけどしたくないことと、したいけどできないことの二つで出来ているとのことである。しかし、彼の見落としていたのは、そもそも何かを本当にしたがることなどできないということだ。じゃあそれがしたいのか? ならば正しい。

もしも究極的な真理をつかんだとしたら、どうしてその後も生きていけるだろう? だが、その真理などという代物は、けっきょく人間的なものでないと誰に言えるだろうか。

だからキリクチ・マゴは歌わねばならない。彼が歌う寒さとは、日本の読者には親しい存在であろう和辻哲郎の言った寒さなのだ。

彼は言う。「我々が寒さを感ずる、という事は、何人にも明白な疑いのない事実である。ところでその寒さとは何であろうか。(中略)我々は寒さを感ずる前に寒気というごときものの独立の有をいかにして知るのであろうか」

キモチ。そう、重要なのは気分である。我々はいかなるときにも気分を備えており、あるいは脳をえぐり出したいような頭痛に悩まされ、もしくは思い出したら叫び出したくなるような過去の羞恥、うきうきとした楽しい期待感だってべつに特別扱いすべきではないが、ともあれ我々は常にキモチの奴隷であり、誰だってめいめい街の中に住み、音楽の中に生きている。

キモチを二つに分けることが出来るだろうか? ここからここまでは期待、ここからここまでは不安、といったように? 二つでなくても別にかまわない。昨日の演奏は最高だったがドラムだけがダメだったって?

我々は、というのは、これを読んでいるみなさんが人間である場合であるが、ともかく、実に奇妙な存在である。誰もが経験的に知っていることを、厳密に思考するときには常に忘れているのだ。現実的なものこそが理性的であり、日常的なことこそが真理である。

みんな、キモチをないがしろにしすぎじゃないか?

だからキリクチ・マゴは歌わねばならない。彼らはキモチの友達で、肩を抱いて励ましてやっているのだ。そうして常にパンクしなければならない。もちろん、これは、お前の本当の気持ちを大切にしろというような陳腐な説教ではなく、むしろそのまったく逆の話だ。

ニンジャソウル、すなわち多即一、物と物とが自由自在(原語:Ding-Ding-ungehindert)の世界をニンジャたちは走る、何者も彼らを止められはしない。

キリクチ・マゴは演奏などしていない。だが彼らの演奏に対し拍手をしようとすれば、いつのまにか君の手は溶け合って、三つになっていることだろう。


……
以上のように、まったく意味のわからない文章だった。
だが、少なくとも、ここにはあいつがいる。
意味がわからないところも含めて。
ともかく自分は、義理と、あいつの思い出のためにやるべきことはやった。
いずれ顔を合わせるときがきても、文句を言われる筋合いはないはずだ。
マックス、今はどうしてる?
いや、生も死も存在しないんだったよな。

和辻哲郎の引用は『風土 ―人間学的考察』岩波文庫より。

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