見出し画像

読書感想文『それでも女をやっていく』(ひらりさ,ワニブックス,2023)



ひらりささんによる、ひらりさファンのための、ひらりさ自伝
(ただし、ひらりさファン以外にも、効果はばつぐんだ!)

 テーマは、一言で言うなら「あなたは『女』としてどのように生きてきましたか?」。翻って、「私はこのように生きてきました(自分の名乗りを上げてから、他人の名乗りを聞くスタイル)」だから、この書の問いを受け取るのは女に限定される。のかもしれない。

 女以外の読者には、へ〜、女ってこういうこと考えたり問うたりするのか〜という参考資料にはなると思う。そういった読者が、どの程度自分の生との比較ができるのかは未知。とくに男性として生きてきた人はこの本を読んでどこからどのような問いを受け取るのか見当がつかないため、是非男性の感想を、積極的に知りたい。

 また、本書を読んだら、友人諸氏(あらゆる女達)がどう受け止めるのか気になる。何人か想像できる人もいるが、それぞれのライフヒストリーがどのように思い起こされるのか、どのように「ひらりさ生」と比較されるのかが気になる。この文章を読んでくれた友人諸氏、ぜひ読んでみてほしい。フェミニズムを学んでいるオタクによるわりと軽快なエッセイ。だけれど言語化の精度がえぐいので、共感できる部分はかなり食らう(エネルギーを受けるまたは費やす)と思うし、共感できない部分は「きもちわりー!」と我慢できなくなったりするかもしれない。みんなそういうの好きでしょう。おすすめです。


「腐女子」を名乗らなくなった


 私もひらりささんと同じくらいの時期から「腐女子」という呼称を使うのを全般的にやめている。理由は、「同性愛を差別的に捉えている」と誤解され、同性愛者を中心とした方を傷つける可能性があるため。

 たしか32歳の頃に「32歳腐女子」の増田(はてな匿名ダイアリー)が流行って、私もそれに乗じて32歳腐女子の日常、みたいな増田を投稿した覚えがあるから、32歳つまり三年前の時点ではまだ「腐女子」という単語を使っていたように思う。現在は公開アカウントで「腐女子」という単語を屈託なく使っている人を見るとぎょっとしたりひやひやしたりする。各々の考え方があると思うので、好きに呼称すればいいと思うが、2023年現在で「腐女子」という言葉を使っている自分に対してなにも感じていないとしたら、その方は社会(オタクも含めたこの世界すべて)の動向をもう少し気にした方がいいと思う。

 私は「腐女子」ということばにかなり思い入れがあるほうなので、むしろ他者にその言葉を勝手にその人の好きなように受け止められて、勝手にこちらを差別者扱いされるのも嫌だなと思い、使わないことにした。
 ひらりささんは感情的にも「腐女子である自分」との決別(腐女子というアイデンティティ以外にも多くの自分の軸ができた)の意味も込めてこれを使うのをやめたそうだが、私はいまだに自分を「腐女子」だと思っている。ただ、これは私の中の一つの要素として最初から捉えているので、ひらりささんのように全身を傾けたアイデンティティという訳ではない。

 ひらりささんは「BL好き」では言い換えられない(そこから溢れ出てしまう)過去の自分のアイデンティティがあると書いている。私も今や「BL好き」と言うしかないよなあという感じで、オタクです、二次創作BL書いてます、と言っているが、やはりそれだけでは言い表せない、この単語に込められたさまざまな思いがある。青春のなかの密やかさだったり、ダイレクトな罪悪感だったり、みんなが使っているからという産湯としての単語だったり、とにかく私にとって「腐女子」という単語はきらきらしている。15歳以降の、私の人生を支えてくれた根幹の部分が、自分が「腐女子」であったからこそ享受できたものなので、ほとんど生存の問題にも関わっている。

※本書の感想から逸れるが、簡単に私の「腐女子」への辞書の内容を説明しておくと、「原作者の意向に反して(または反しているかどうか不明な状態で)男性キャラクタ同士に恋愛感情ないしは性欲を抱かせ合い、その物語を創作(=二次創作)してキャラクタを性的に消費する存在」である。原作者の意向に反する、の部分を強く取るならば、男性同士でなくとも、原作者の意図しないカップリングの二次創作をする人々はすべて「腐女子」(字面には「女」と入っているが、当然男性も含む)ということでもいいと思う。夢二次創作とか、百合二次創作とか、モブ攻めとか、そういったものを二次創作し性的消費する人はおしなべて「腐女子」という感覚である。また、商業BLの愛好者はここには含まれない。商業BLの二次創作を原作者の意図と違うカップリングで二次創作している人はここに含む。

 そういう感覚として「腐女子」を使っていたが、そうではない感覚で使っている人、そうではない感覚でこの単語を受け取る人のほうが多数派で、その度にこの説明をするのは面倒なので、使用をやめた。一言で言えば「二次創作で既存キャラクタを性的消費する人」が私にとっての「腐女子(腐男子)」だ。最初から一言で言えという話だった。長くてすみません。


女と女の話


 自分と同じか、下手したらそれ以上にやばい深度と頻度で女(友達)に母を求め、クラッシュを起こしては人に迷惑をかけている人がいるという衝撃が大きかった。ひらりささんがコミュニケーション強者だからなのか、ここまで何度も破滅と再生を繰り返せるものなのか、と驚いた。私も何人かの友人と思い出したように距離感を間違えては関係のクラッシュを起こしているが、ここまでのダメージをこんなに何度も受けたりはしていない。同性愛関係の手前まで行ったこともなく、友情の範囲を超えないものとお互い認識しているなかでたびたび断絶をともなう事故(事件)を起こした。

 母を救う男になりたかったとひらりささんは書く。
 共感した。私たちの業は結局のところマザコンから来ているのだろうか。
 かつて、「自分は男に『母親』を求めている」と冷静に断言している友人がいて、自己分析えぐいな、と思ったものだが、私はわかりやすく女に母親を求めている。最近は娘まで求めているふしがある。男性には単なるロマンチック・ラブしか求めていないと思うのだが、ひらりささんはどうなのだろうか。男性にも母親を求めるタイプなのだろうか。(たぶん違うと思う。)

 私は情が深い、情に厚いと言われることがあるが(おそらくひらりささんも言われるのではないかと思う)、それは他人への依存が強い、執着が強いということで、これがいいことなのか悪いことなのかわからない。ただ、ここまで他人を必要としなくとも生きられる人種に生まれたかった、なぜならしんどいから。と思うときはある。


表紙の女



 ひらりささんに似ているなと思った。眉と目の造形かもしれないし、頑なさを表す表情かもしれない。ともかくこのピンク髪(むらさき髪?)でこちらを睨むようにして、この女(後ろ姿の女)を絶対に渡さないとばかりに抱きしめている女はひらりささんなのである。

 ひらりささんが現時点どうしても他者としての女(母)が必要であることを考えると、これは自分の分身を抱きしめているようにも見えるが、やはり母という自分の遺伝子上の親(自分とよく似た自分と別の女)を抱きしめて、独占欲を表しているのではないかと感じてしまう。
 このあたりは、ばったんさんのイメージや、ひらりささんとの打合せがいかにあったのかが気になるところだ。


腐女子グループで過ごすこと(「腐女子」が自分の全てを規定していくこと)


 これは、自分にはない経験だった。
 私の身の回りの腐女子(昔のことなので鉤括弧は外させていただく)は、グループでつるむ派と、それぞれのグループに単体生息する派がいて、私は後者だった。中学ではそもそも腐女子友達はいなかったが(存在することは知っていた)、高校はほとんどオタクかオタクに理解のある子だらけの学校だった。そこでも単体生息派が多く、みなそれぞれのグループに属しながら、地下水脈のような腐女子ネットワークを築いていた。別のクラスの友達にひっそり手紙を渡しに行ったり、漫画を貸しに行ったりする光景を、グループで仲の良い友達は「どういう繋がりなんだろう?」と不思議に思っていたらしい。(と、後年私がBL小説を書いていると説明した時に、明かされた。)
 スパイさながらの二重生活、というほど「隠して」居たわけではなかったが、とくに説明もしていなかったので、そりゃ謎だよな、と思った。

 そこには、非腐女子の友達にBL世界を知られてはならない、彼女たちに不快な思いをさせてはならない、傷つけてはならない、女子の清らかな心は守らなければ、という幼稚な騎士道精神とでも言いたい何かが(地下水脈で出逢う腐女子たちには)共通していた。今からすると「同性愛差別だ」とこの感情を責められることが容易に想像されるが、18年前の光景としては、そのような雰囲気だったのである。
 つまり、「私たちは作者の意向を無視してテニスの王子様のキャラクター達(男子同士)に性交ならびにそれを前提とした恋愛を強いている無法者・ならず者である」という意識が濃厚だった。

 また、なぜかBLは過激で、突然その存在を知ったら可憐な女子達は傷ついてしまうだろう、という意識があったが、可憐な女子達にはだいたい同級生の彼氏がいて、キスもセックスもしていたのである。でもなぜだかとにかく「彼女たちの美しい世界を守らなければ(BLの存在を気取られてはならない)」と頑なに信じていた。やっぱり高校生女子という夢の詰まった存在に、私たち腐女子も夢を見ていた(勝手に夢見られるのが気持ち悪いという言説が多数あり、女子高校生たちがそういった眼差しを嫌悪していることも知っている)。それを百合的な感情とするならば、そういうカテゴリの感情でもあったと思う。
 ちなみに、当時BLという言葉はなく、二次創作BLや商業BLのことは、現実のゲイと区別するために、わざと「ホモ」「ほも」と呼んだり表記していた。さすがにその単語は今ではもう目にするのもショッキングなものとなっているので、BL表記で統一する。実際には今でもこの(現実のゲイと区別する)意味で「ほも」と使う人はいる。だいたい30代後半以上の人だと思う。


生理不順、男との関係=身体的な女性性の獲得

 セーラームーンのうさぎのような「粗忽な」女の子でも、長く艶やかな美しい髪を持っていることが、性質はどうあれ絶対的には「女子」である証のように描かれていた時代があり、それらの少女漫画のロマンチック・ラブ・イデオロギーによる呪いが強い、とひらりささんは感じている。

 私には、男にとって特別な存在である「男友達もどき(頻繁に会うがセックスはしない)」になりたいという気持ちはよくわからない。これはそもそも、男にとって特別な存在になりたいという願望が薄いせいだと思う。私はひらりささんとかなり近い少女漫画読み遍歴があり、ロマンチック・ラブにどっぷり浸かっていたと思うのだが、この辺りは全く共感しなかった。(これには家庭問題と己の身体に起因する要因があるため、ここではその説明は省く。いつかnoteで書くとは思います)

 では、自分はロマンチック・ラブに囚われていないのだろうか?というと、そんなことはない。ちゃんと囚われていて、それは二次創作のBL小説の傾向に現れている。人は人を恋愛として好きになるが、同じ気持ちを返してもらえるとは限らないということをえんえんと書いている。しかし最終的に違う気持ちでもって相手は共にいてくれるので、恋愛は成就しないが、主人公の人生はなんとなく成就する。さらに性欲への信頼が強い(または弱い?)ので、性欲はちゃんと双方向になり、要するに受けの思いに攻めは性的に絆される(性欲に流される)という都合のいいハッピーエンドを迎えるという類型がある。

 「恋愛すると女の子は強くなる」は、両思いになれた場合の話だと思う。私は両思いとは無縁の人生だったからなのか、恋愛で強くなったことはない。むしろ弱くなることが実証されている。二次創作でも受け(たぶんこちらに感情移入することが多い)に片思いさせがちである。(しかしなぜか受けは強い、というところに、恋愛への夢が見て取れる。)


決定的な線を踏み越えない浅瀬でちゃぷちゃぷしているシスヘテロ女性


 私もそうかもしれない。ただ、人間の中身に性別はないと思っていて(性別は体、生命エネルギーのいれものによって決まると思う。つまり、性器・脳・ホルモンなど)、または性自認というのは文化的に便宜上あるだけで、自分がどの体になりたいか、どの体で誰に恋愛したいか、したくないか、という生殖上(性交上)の希望の話があるだけなのではないかと思っている。


必要なのは母殺しではなく、「娘」になりたがる自分殺し


 わかる〜と思った。今でこそそこまで母親に依存しなくてもすむようになった私だが、この感覚がまさに、私の過去の状態を言い表しており、びっくりしてしまった。娘として存分に愛されたかったという仮定法過去にいつまでも縛られている。同人誌の『女と女』、読んでみたいなと思った。

 母に頼るのをやめられない自分がしんどいとひらりささんは直球で赤裸々に書かれているが、こういうのはがんばって一つ一つ「自分で」やるしかないのだと思う。私は19歳から一人暮らしをしているのでひらりささんより少し早く母離れができたのかもしれないが、とにかく何事も自分でやる、というのが習慣化してしまえば、母離れもできるようになると思う。あまり頭で考えずに、ここは体に覚えさせた方が早い。

 この点、私は病気なので気が楽だなと思った。病状が重い時には素直に母を頼る。「病気だから」という言い訳が出来る(文字通り、作成される)。とはいえ頼るということは支配されるということだと身をもって知っているので、できるだけ頼らないようにしている。

 少女革命ウテナのアンシー=母というのは興味深かった。ウテナをちゃんと見たことがないので見てみようと思った。
 「それ以外の男のことは羨ましいから嫌いだ。わたしの母を救うことができるから。」という文章が印象的だった。これに関して、父と離婚したひらりささんの母上と違い、私の母は父のことが恋愛的に継続して好きであったため(そんなことが可能なのか、と思われる向きもあるかもしれないが、母の心は女子大生で止まったまま育児を放棄し続けたので可能なのである)、離婚してくれなかった。私は心の底から離婚してほしかった、ずっと。母と二人で暮らしたかった。家の中の二人の男がいない環境を欲していた。全ての男が邪魔で嫌いだった。

 しかし母の欲していたのは父で、いらないのは私たち二人の子供のほうだった。
 家を出るべきは私だったため家を出た。兄は仕方がないので親と和解させて家に残らせた。永遠に子供のまま、できるだけ従順な、機嫌よく素直で愚かな子供のままで(この辺りも自分の事情が色濃いため、後でnoteに書こうと思う)。

 「母の人生を尊重することが、母とわたしの人生の区別の確認であり、いつかわたしの人生の肯定にもなるとわかっている。」とあったが、それはどうかな、と思う。「母の人生の尊重」など考えない方がいいのではないかと私は思う。母の人生などというものは自分の思考の埒外において、もうできるだけそんなものとは思考の上でも関わらないほうがいい。個人的にはそう思う。


自由意志(棒の重さ)を認められたい


 歩いて十数分の距離をタクシーで帰ることを男(フェミニズムを解する良い人)から強要され、個人の意思よりも女性というカテゴリへの要望を強固に押し付けられた(「棒の重さは考えないものとする」の「棒の重さ」はどこへ行った?問題)、というエピソードがあった。
 今少し気になったけれど、これ、女からの強要だったら話はどうなっていたんだろう。この男性と同じ経験を持つ女からの強制的な「タクシーで帰れ」コールでもひらりささんは同じように感じただろうか。ご本人に聞いてみたい。女性だったらそもそもそういう考えに至らないだろうか?世の中には色々な人がいるので、それはケースバイケース、と言われて終わるかもしれない。

 また話が逸れたが、このように女でくくられて、個人で見られないことにも嫌だと感じる、これもまた人間関係のエラー…ということでいいのだろうか。女全てにタクシーで帰ることを強制する男、または女全てにタクシーで帰ることを強制する女、または他の性別の人、というのは、女に対しての配慮を徹底しているようで、規範(カテゴリ?)に押し込めようとしてくる人、という理解でいいのだろうか。これは女性であることと少しずれる話のような気がする。

 タクシー強制男は過去に、タクシー強制男になるべくしてなった要因となる体験がある。そういう体験から、一括して同じ属性を持つ他の人にもある行動を強制してしまうということは、ほかにも有り得ることだと思う。過去の経験がトラウマとなり、他人になんらかの行動を一律に求める、というのは、女性性やフェミニズム関係なく発生する、人間関係におけるその人の抱える混乱だと思う。


「正しく」世界を認識すれば、ジェンダーをめぐる差別をなくすことに女性はみんな同意するだろう、とうっすら思っていた気がする


 フェミニストの多くの人はそう思っていると思う。
 なぜなら、権力勾配は正さねばならないから。自由・平等を実現せねばならないから。それが私たち人間の使命だから、または、この時代に生まれ、そのような(自由・平等の)思想のもとで育ったから。

 私たち、つまりこの時代の女の多くは「(男よりも)損をしている/(男よりも)傷ついている」と思っているし、不公平だと感じる場面が多い。だからその不公平を正そうとする。
 ということなのだろう。
 私は、あまり性別の違いで不公平な目に遭ったことがない。そもそも男女の差別に立ち向かう前に、人間としての土俵に立てていないという理由が大きいと思う。そのため、そういう「立派な人たち」の差別の話は私には全然身体感覚としてしっくり来ない。仕事をすることができて、人間を産むことができて、それらを選択する自由のある「立派な人たち」と私はあまりに隔たっている。

 というわけで私自身は男女の権力勾配については、それは世界のために無くすのが正しいと思うが、私の仕事ではないので、控えめにコメントしたり、控えめに賛同したりするにとどめる、という姿勢になる。つまりフェミニストにはなれない。

 私はつねに男性差別的だし(男性のほうが同じ学力の女性よりも「根本的に頭が悪い」という幻想から離れることができない。それは今の所男性のほうが社会に優遇されており、弱者たる女性のほうがしたたかに賢く振る舞わねばならない場面が多いからだろう。つまり、女性差別の結果、私の男性差別的思考の由来が形成されている)、男女平等なんてクソ食らえと思っている(男性のほうが差別されればいいくらいのことは無意識に考えていそう、男性全般にうっすらとした憎しみをいだいているので)。

 または、男女がどうとか言う時点でもうなんらか差別的でさえあると思う。体のつくりや性別の概念で人間をわけて考えること自体が私の感覚に合っていない。人間平等くらい言ってほしい(もちろん若年者は守られるべきだし、積極的差別はあらゆる弱者に対してなされるべきだと思う)。という感覚で生きているが、それはそれでひらりささんの土俵ではないので、これも本書の感想とはずれる。


以上、ひらりささんの『それでも女をやっていく』の感想でした。


 メタ的な視点も一つ入れておく。
 そもそも、東京に生まれて中高一貫私立に通って東大に行った人間というのは、それ自体権力勾配の坂の上にいすぎてクソ食らえというところなのだが、たぶんひらりささんは私と同じ場所に産まれたら、同じような生を過ごすだろうなと思えるので、そこは気にならなかった。逆に、私がひらりささんの場所に生まれたならたぶん東大に行ってこういう人生を、むちゃくちゃにぼろぼろに、送っているんだろうなと思う。
 本当に、生まれる場所なんてそれくらいの誤差だな、ということも感じられるくらい、この人、私と近い人間だな…と思えた。それは巧みな言語化能力と文章力により存分に感じさせてもらえたことなので、改めまして、ひらりささんの筆力に感服。

この記事が参加している募集

#読書感想文

188,500件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?