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中国の酒と医療~「酒は百薬の長」のルーツを探る~(その3・完結)

こちらの続きです。今回で完結。

この論文ですが、担当教授は茨城大学人文学部の真柳誠教授です。

真柳 誠 経歴

日本では全く知られてない真柳先生ですが、中国では本を出していますし、研究に参加することも多い方です。多分、一般の方よりも、漢方医学にかかわっている方の方が知っている存在かなと。

例えば、有名な言葉である「医食同源」。これは日本人の造語です。真柳先生が20年前に「中国の古典籍には、そんな記述はない」と指摘していました。

医食同源の思想-成立と展開

真柳先生は文系の研究者なのですが、医師免許を持っているんですよね…。中国古代の医療を研究していることもあるでしょうが、「日本医師学会」にも所属しています。文系のゼミなのに、大変理系な、論理的な授業でございました。

大学時代、真柳先生に学んだのは偶然なのですが、学んだことの影響ははかり知れません。

それではどうぞ~。

第三章 古典籍にみられる酒のイメージ

 史書ほか漢代前後の古典籍において酒はどのように認識・利用されてきたのかをみるために、「十三経」[73]「先秦諸子」[74]『史記』[75]『三国志』[76]『漢書』[77]『後漢書』[78]を資料として検討した。

1 「十三経」にみられる酒の記述

 十三経で「酒」の記述があったのは『周易正義』『尚書正義』『毛詩正義』(ともに7世紀中葉)である[79]。『毛詩』については詩であり、特に変わった記述もないので省く。『周易』には酒食:4、儀礼に関すること:2、酒礼に関すること:2であった。『尚書』には暴君にならない戒め:6、酒:4、酒礼:2、祀:1、高価・ごちそう:1、その他:1という結果で、医療に関する記述はみられなかった。『尚書』には殷の紂王が国を滅ぼしたことを戒めるために作ったとされる「酒誥」があるため、酒を戒める内容が多い。

2 「先秦諸子」にみられる酒の記述

 先秦諸子で「酒」の記述があったのは『列子』(前400頃)、『墨子』(前390頃)、『荘子』(前290頃)、『荀子』(前230頃)である[80]。それらをまとめた表1のように、全体として酒はごちそうであり、めでたいことや楽しいことを例える際によく使われる。しかし殷の紂王のように国を滅ぼした暴君が多いためか、酒を色事や音楽などの快楽と共に並べ、戒める話も多かった。また「神を祀り酒を供える」といった記述は『墨子』に集中していた。『墨子』では正しい王の在り方として「潔為酒醴粢盛、以祭祀…(清浄に酒や供物を作り、天帝や天鬼を祭る)」という言葉で表し、多用しているためである。

病気に関わる記載としては、『墨子』に以下のような記述がある。

天子為善、天能賞之;天子為暴、天能罰之;天子有疾病禍祟、心斉戒沐浴、潔為酒醴粢盛、以祭祀天鬼、則天能除去之[81]。
天子が善を行えば、天はよくこれを賞し、天子が乱暴を行えば、天はこれよくこれを罰する。また天子に病気や祟りがあれば、必ず斎戒沐浴し、清らかな御酒や供物をつくり、天の神を祭る。そうすると天はその病気や祟りをとり除く[82]。
 以上のように、古代の人々は病を天が与えた罰だと考えていた。また神に供える酒を、清らかに造るのを条件とするのは、『墨子』のみにあり、注目される。

 『荘子』には、以下の記述がみられる。
夫酔者之墜於車也、雖疾不死。骨節与人同而犯害与人異、其神全也。乗亦弗知也、墜亦弗知也。死生驚懼不入乎其胸、是故□物而不慴。彼得全於酒而猶若是、而況得全於天乎?[83]
そもそも酔っぱらいが馬車から落っこちる場合、どんなに速く走っていても死ぬことはないもの。骨や関節といった身体の造りは人と同じであるのに、被害の受け方が人と違うのは、精神が完全で本来のままに保たれているからだな。馬車に乗ったことも知らないし、落っこちたことも知らない。だから、死ぬだの生きるだの、驚いただの惧いだの、およそ感情と名のつくものは、前後不覚に酔っぱらった彼の胸中には入ってこないのだ。それで、雨が降ろうが槍が降ろうが、びくともしないというわけさ。酔っぱらいは酒のおかげで精神を完全で本来のままに保ちえたのだが、それでさえこのとおり。精神を完全で本来のままに保つ至人の場合は、なおさらのことだろうね[84]。
 至人とは聖人のことである。このように酒を飲み、酔うことで精神が完全な状態に保たれ、けがをしにくくなる、という考えは『列子』にもあり、やはり注目していい。だが、聖人と比較していることからも、酒に神秘的な力を感じていたのではなかろうか。
 酒を医療に利用する話としては、『列子』に扁鵲の酒を使用した手術の様子が記載されている。

扁鵲遂飲二人毒酒、迷死三日、剖胸探心、易而置之、投以神薬[85]。
かくて扁鵲は二人に毒入りの酒を飲ませた。すると三日ほど仮死状態になった。その間に胸を切り開いて心臓を取り出し、交換してもと通りにしてから、霊妙な薬を投与した[86]。
 「毒酒」が何を指すのかはっきりしないが、酒だけの力で仮死状態にしたとは考えにくい。扁鵲そのものが伝説上の人物なので、本記述の記述の検討に大きな意義はないが、麻酔性のある酒を「毒酒」と呼んでいる可能性が高い。恐らく酒の麻酔作用も関連するのだろう。

3 史書にみられる酒の記述

 『史記』(前90頃)、『漢書』(78頃)、『三国志』(3世紀中葉)、『後漢書』(426頃)の記述を表2にまとめた。このように諸侯の宴会の様子が多く描かれており、また他国への贈り物、官吏への恩賞として使われていた。酒は嗜好品としての側面が強くでており、医療的な利用はみられなかった。

4 小結

 以上、古典籍に関してみたが、全体に嗜好品としての記述が色濃く、酒が病を治すといった記載はほとんどなかった。これらの書物が編纂された時代には、酒が医療目的で使用されていたのは確かだが、記述がみられるのは医薬文献だけであった。

 だが、『墨子』や『荘子』、『列子』の記載に「神に祀る酒は清らかに作る」「酔った人は精神が完全な状態」とあるように、酒は清浄であり神秘的な力を持つと認識されていたようだ。この認識は、これらが成立したとされる紀元前400年前後には自然な認識だったと考えられる。

 今回検索したのは「酒」の字だけであり、「醴」など、酒を意味する別字を検索していないため、それを検索するなら、また違った結果がみられるかもしれない。

結論

 『新修本草』で確認したように、酒の本草における記載は『名医別録』(3~5世紀)が最初だった。そこに酒は①大熱、②有毒、③薬勢を行らす、④百邪気を殺すの4点が挙げられている。また『新修本草』全書には、多様な酒の使用方法が記載されていた。これら効能認識と方法の由来と原姿を本稿では論究してきた。

 まず古典籍の記述から、前4~5世紀に「酒は清浄なものである」「不思議な力をもっている」と認識されていたことがわかった。これが演繹され、酒は「清浄ではないもの」、つまり邪気を除くと発想され、その発想が④として後世まで医療に応用されていったのだろう。ただし当発想が定着する遙か前から、酒は祭祀に用いられていたのも間違いない。とするなら酒に「邪気を除く力がある」とされ、その力を医療に応用したのはさらに古い時代だと推察できる。

  他方、古典籍全体にはそうした酒の長所ともいえる認識以外に、酒に耽り国を滅ぼした話など、酒の短所の記載が前5世紀からあった。もちろん人類が酒を多飲できるようになったときから、そうした有害作用も有用作用とともに認識されていたはずである。ともあれ、酒の有害作用は②として本草に帰納されたことは間違いないといえよう。そして前2世紀以前の「馬王堆医書」には、医書として当然ながら酒の有害作用は記されていなかった。

 しかしながら、酒の有用作用として「体を温める」認識が『五十二病方』にみられる。これが『名医別録』の①や陶弘景がいう酒の熱性に帰納された、と考えていいだろう。さらに『十問』では酒を「百薬の補助剤」とし、『五十二病方』の処方傾向からは③の作用を酒に認識していることがわかった。また④の認識も『五十二病方』にみられた。つまり「馬王堆医書」が成立した時代、すでにそれらの作用認識が普及していたと判断できよう。

 一方、『五十二病方』の検討において、『名医別録』にはみられなかった酒への効能認識も浮かび上がってきた。『五十二病方』には「血行促進」「利尿」、『胎産方』『雑禁方』には「子供を授かる」「妻となる女性が現れる」という呪術的使用がある。『十問』『養生方』では、酒が「滋養に富んだ飲み物」で「長生効果」を示すと認識されていた。以上のうち、「滋養に富んだ飲み物」は陶弘景の注に継承されていた。しかし『新修本草』までの本草書に記載がない効能認識もあり、「馬王堆医書」では数多くの疾患・症状に酒が応用されていたのである。しかも使用方法は、内服・洗浄・調剤補助剤や内服と外用の兼用など多岐にわたっていた。なぜそれらの一部は後世の本草書に継承されなかったのだろうか。

 ところで1世紀の『武威漢代医簡』は、時代的に両者の中間に位置する。そこには無論、医書として②の記載はないが、明らかに①③の認識があった。④および「血行促進」「利尿」作用は認識されていたように思われる。つまり呪術的応用と長生効果が欠落していた。周知のように、巫と医の明瞭な分離の記載は『史記』の扁鵲伝に初出する。ならば当背景により、「馬王堆医書」と『武威漢代医簡』の相違が生まれたと判断していい。

 さらに『武威漢代医簡』には「馬王堆医書」の多岐にわたる酒の使用方法がみられず、内服法に限定されていた。これは「馬王堆医書」が様々な書物からなるのに対し、『武威漢代医簡』がわずか1書であること、および後者は武威という西域に派遣された医師が携帯した応急処置用の医書であることが関連するであろう。

 以上のように、先秦時代に記載が始まる酒の効能認識は「馬王堆医書」で多様化し、様々な使用方法が開発されていた。そのうち後世の『新修本草』に継承されなかったのは、呪術的側面を持つ効能および方法であることが明らかになった。

 本稿であつかったのはわずか酒という嗜好品1種にすぎないが、その医療応用には上述の時代変遷を認めることができる。これらは、とりもなおさず中国文化の変遷と連動するものであり、人々が酒を愛好し使用した経験の蓄積に基づくものだったといえよう。

注と文献

[73]十三経で「酒」の字を検索した結果、『周易正義』『尚書正義』『毛詩正義』の3書に記載があった。『周易正義』は魏の王弼・韓康伯の注、唐の孔穎達らの正義、『尚書正義』は漢の孔安国の注、唐の孔穎達らの正義、『毛詩正義』は漢の毛亨の伝、鄭玄の箋、唐の孔穎達らの正義である(藤堂明保編『学研漢和大字典(机上版)』1602頁、東京・株式会社学習研究社、1988、第11版による)。

[74]「先秦諸子」で「酒」の字を検索した結果、『荀子』『荘子』『列子』『墨子』の4書に記載があった。『荀子』は前230年頃、『荘子』は前290年頃、『列子』は前400年頃、『墨子』は前390年頃の成立とされている(『中国の古典名著・総解説』78・110・115・147頁、東京・自由国民社、1981による)。

[75]前掲注[73]参照文献1609頁に、「漢の司馬遷(前145-前86)の著した古代通史。前91年成立」とある。また前掲注[74]参照文献27頁に、「中国の伝説時代から、夏・殷・周王朝、春秋戦国時代、秦帝国による統一と瓦解を経て、前2世紀、漢帝国初期に至るまでの歴史がつづられている」とある。

[76]前掲注[73]参照文献1609頁に、「西晋の歴史家陳寿(233-279)の著。成立年代不明。漢王朝没落のあと、魏・蜀・呉の三国が天下に覇を争った、いわゆる三国時代のことを記した正史」とある。

[77]前掲注[73]参照文献1609頁に、「後漢の歴史家班固(32-92)の著。建初三年(78)ごろ成立。前漢の高祖から平帝までの231年間の歴史をしるした正史」とある。

[78]前掲注[73]参照文献1609頁に、「南朝、宋の范曄(397-445)の著。元嘉三年(426)ごろ成立。後漢の歴史をしるした正史」とある。

[79]十三経の検索で、以下の書の各篇(括弧内に「記載箇所・1字以上の文字数」を示す)に「酒」の字がみられた。『周易正義』では第2巻「需」(1・2文字)、第3巻「習坎」(1・2文字)、第5巻「困」(1・2文字)、第6巻「末済」(1・2文字)の計4箇所8文字。『尚書正義』-第7巻「夏書」五子之歌(1)、第10巻「商書」微子(2)、第16巻「周書」無逸(1)、第10巻「商書」説命(1)、第14巻「周書」酒誥(4・12文字)、第7巻「夏書」胤征(1・2文字)の計10箇所19文字。『毛詩正義』では第4巻「国風」鄭風(2・3文字)、第8巻「国風」幽風(1・2文字)、第20巻「魯頌」(2・3文字)、第9-15巻「小雅」(17・37文字)、第19巻「周頌」(3)、第6巻「国風」唐風(1)、第2巻「国風]{止+おおざと}風(1)、巻16-18巻「大雅」(7・11文字)の計34箇所61文字。以上の書で計48箇所・88文字だった。

[80]「先秦諸子」の検索で、以下の書の各篇(括弧内に「記載箇所・1字以上の文字数」を示す)に「酒」の字がみられた。『荀子』では「非十二子」(1)、「礼論」(2・4文字)、「楽論」(1)、「大略」(2)、「解蔽」(1)、「哀公」(1)、「栄辱」(1)の計9箇所11文字。『荘子』では「斉物論」(1)、「人間世」(2)、「{月+去}篋」(1)、「達生」(1)、「徐無鬼」(3・4文字)、「則陽」(1)、「漁夫」(1・3文字)、「列禦寇」(1)の計11箇所14文字。『列子』では「天瑞第一」(1)、「黄帝第二」(1)、「周穆王第三」(2)、「湯問第五」(2)、「楊朱第七」(1・3文字)、「説符第八」(1)の計8箇所10文字。『墨子』では「節葬下」(1)、「法儀」(1)、「尚賢中」(1)、「尚同中」(1・2文字)、「非攻下」(1)、「天子上」(2)、「天志中」(2)、「天志下」(2)、「明鬼下」(3・7文字)、「非楽上」(1)、「非命上」(1)、「非命中」(1)、「非命下」(1)、「非儒下」(1・2文字)、「経説下」(4)、「貴義」(1)、「公孟」(1・4文字)、「備梯」(1)、「号令」(4・5文字)の計30箇所37文字。以上の書で計58箇所・72文字だった。

[81]『墨子』天志中、前掲注[1]「台北故宮『寒泉』古典文献全文検索資料庫」による。

[82]柿村峻・藪内清訳『韓非子 墨子(中国古典文学大系第5巻)』404頁、東京・平凡社(1968)。

[83]『荘子』「達生」、前掲注[1]所引文献「台北故宮『寒泉』古典文献全文検索資料庫」による。

[84]池田知久訳『荘子下(中国の古典6)』89-90頁、東京・学習研究社(1986)。

[85]『列子』「湯問第五」。前掲注[1]所引文献「台北故宮『寒泉』古典文献全文検索資料庫」による。

[86]麦谷邦夫訳『老子・列子(中国の古典2)』327頁、東京・学習研究社(1983)。

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大変長い論文を読んで下さり、ありがとうございました。

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