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『彼女は頭が悪いから』を読んで

こんにちはモネソルです✨

今日は、最近読んだ本を紹介したいと思います。

『彼女は頭が悪いから』姫野カオルコ/文藝春秋

2016年に東大生5人わいせつ事件をモチーフにした小説です。
詳しく解説している記事を見つけたのでリンクに貼っておきます。

率直な感想はというと、奥歯に苦い感触を覚えました。
なんとも言えない不快感。

なぜかというと、事件だけを切り取ってみれば『鬼畜そのもの』で、
同じ女性として怒りや悍ましさを覚えるのは確かですが、
被害者だけに感情移入し切れない一面もあり、
しかし当時の世論の様に彼女を勘違い女と責める気は
まるで起きず、また加害者を責める気持ちもありませんでした。

ただ、漠然とした不快感😶‍🌫️

それは、被害者と加害者、その親、全ての登場人物の背景と人生観を客観的にみれば、どれもここ最近までの現代社会では<正解>の解答例だったと
私は思うのです。

事件が起きたことで、私たちに対して社会問題を提起してくれたと思います。
根本的に、人として生きることが何なのかを考えさせられる。
こんな社会だからこそ、起きてしまった事件だと思うのです。
紹介したサイトでは、筆者はとても加害者たちの親に非難的ですが、
私は、親たちの言葉は、エリートを育てたエリートの家庭の感覚では、
ごく普通の感性と意見であり、まるで変ではないと感じたのです。

ただ被害者と加害者の価値観が、
『全く噛み合っていない』

スピリチュアルの世界では、<魂のステージが・・><二極化の波に〜>など、選民思想的な言葉を用いることが多いですが、私はあえて使わないようにしています。
『全く噛み合っていない』とただ言うと、相談者の方がわからないことが多いので言い換得ることはありますが、『ステージ』というのは違うので使いたくないとはっきりと伝えた上で、

『ただ、アラビア語と中国語で会話している様に噛み合っていないのです』
というような表現をするようにしています。

誰が上で、誰が下ということではないからです。
ただ、感受性の周波数が合わない。

上のサイトの一部を紹介します。

なぜなら「内省」や「感情の言語化」といった行為は、彼らにとって無駄なことだからだ。

Huffingtonpost.jpより

『彼ら』とはこの事件に関わった東大生のことです。
思春期になれば、ほとんどの人が他者と自分を比較し、
生き方として疑問をもつ様になる。
「一体なんのために私は生きているのだろう」
「一体なぜ私はこんなに勉強をしないといけないのだろう」
「親の言うことは本当に正しいのだろうか」

そういった感受性を備わっている人は、東大なんて到底入れないのです。
それは盲目的に『正しいこと』をしてきて勝ち取った勝利というものが、
受験や国家試験に勝つという価値観。
国や社会の中枢で貢献できる、選ばれし人物になるために生きるのは
『正しいこと』と言われれば、否定ができますか。私は否定はできません。
そういった人々があってこその国家ですから、
民主主義の主権国家を根底から否定することになります。
それらの人々を非難するのなら、
どこかの自治区ではない、ジャングルや無人島で自給自足をすれば良いと思います。

本当に一部の頭脳明晰な人々は、自分は‘サイコパス‘かどうか確認する時があると友人がかつて言っていたことを思い出しました。
そして、むしろそういった疑問を持っていることを自分で確認すると、
内心ホッとすると。

過酷な偏差値競争の環境で生きていると、
いわゆる、化け物級の“変わり者“だらけで、個性として笑える範囲から、
たまに「あれ?大丈夫?」といった言動を客観視していて、
どこかで共感してしまう自分がいると、ある一種の恐怖を覚えると。

しかし、これからそういう感性は、
一部の厳選されたハイパー偏差値社会だけではなくなると、
私は心配をしています。

子供達の遊びに身近な、ゲームやパソコンを通してAIやロボットがどんどん進化していく中で、自分の中の‘感じる‘という感性を置き去りにして、
目の前の社会モラルという誰かが決めた『正しいこと』に盲信し、
それから外れた者をコミュニティからただ排除するという子供たちが、
どのくらい増えたでしょうか。

外に出れば、肌で、耳で、鼻で、風の匂いを感じることを、
子供の頃に当たり前に先代から教わっていた私たち大人。
今はスマホの大雨アラートに頼り、雨が降る前の風や気圧の変化を感じ取らない人は増えていませんか☔️

感じるという感性は、痛みに慣れていると痛く感じなくなるのと同じように、
痛いことを感じようとしないと感じなくなるのです。
心もそうで、常に感情に蓋をしている人は、痛みや苦しみどころか、
蓋をしていたことさえ苦しくない😢

嘘をつくことも同じで、自分を守るための卑怯な嘘で、
例え事実と違う物語を意図的に作った罪悪感がその瞬間はあっても、
いつの間にか、その人の記憶の中では真実になってしまうのです。
だから嘘つきを追求したところで、大抵は開き直って、
朗々と嘘の物語を語るのです。

常に五感を意識して使う。それと同時に第六感があり、これを見失うと、
何が『自分にとって正しいこと』か見えなくなってしまいます。
正しいこととは、どこかの誰かが決めた社会的なモラルだけを守るためでなく、
自分の中の内側にある、見えない何かを信じる感性であり、
能動的な生き方のエネルギー源なのではないでしょうか☀️

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