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闇呼ぶ声のするほうへ(長編小説)【第1章・私は黒いヘビの名を呼ぶ】


闇呼ぶ声のするほうへ

長編小説(ジャンル:現代ファンタジー)です。
全体のあらすじ・目次は こちらの記事でご覧いただけます。
また、この記事の終わりにも各話へのリンクがあります。

前回のお話はこちら → 【プロローグ・祝福と名付け、そして母のこと】
(【プロローグ】はリンク先記事の最後に載っています。)

【第1章・私は黒いヘビの名を呼ぶ】

(19995字)

<1>高校生の私と佐倉、黒いヘビのこと

(5748字)

 それは、高校2年生の夏、期末試験明けの午後のことだった。

「……あのさ」
「んー、なに?」

 御崎本家のだだっ広い日本家屋の中の、数少ない板張りの部屋。
 私たちが図書室、と呼んでいた、私の本専用の部屋で。
 制服のままうちに来て、いつものように、床に直座りしソファに寄りかかってくつろぐ彼女、佐倉玲花さくられいかが……いつものように、マンガから目を離さないまま、投げやりな返事を寄こす。

 それまで、ほんの少し迷っていた私、御崎真緒子みさきまおこは。
 彼女の様子、その目にした日常に妙な安心感を覚え、そして一瞬で決断した。

 そのときそこで、突発的に起こってしまった非日常、つまりは非常事態について……彼女に告白することを。

「佐倉。驚かないで、聞いてほしいんだけど。あと出来れば引かないでほしい」
「うん? なんか穏やかじゃないね」

 佐倉は、マンガを丁寧に閉じてローテーブルに置き、ソファに肘を張って体をずり上げ、座り直した。それまで、同じソファの座面に座って彼女を見下ろす格好になっていた154センチの私は、170センチと背の高い佐倉の顔を、少しだけ見上げるようになる。

「だいぶ前に、私が佐倉に話したことなんだけど、覚えてるかな? ウチの先祖の昔話……祝福とか、の」
「ああ、もちろん! 御崎が祝福、されてて? でもまだその能力に目覚めてないっていう、アレでしょ、忘れるわけない」

 決して人に口外してはならない、と言われていたそれを。
 私はすっかり、佐倉に打ち明けてしまっていた。

 半ば、冗談だったのだ。私自身、もう目覚めないと思っていたし、でも誰かに話してスッキリしたかった。『目覚めたらおもしろいじゃん、そのときは絶対教えて』と、そのときの佐倉は言っていた、だから。

「そっか、うん。……でね、急なお知らせなんだけど、」
「ん?」
「ここに、黒いヘビが、います……」
「え? どこ?」
「やっぱ、見えないか。いま、ここ、この手のひらに乗ってるんだけど」
「見えない……え、でも、いるの?」
「いる。しかも、しゃべるの、人のことばを」
「へ、え……」

 佐倉が目を見開き、そのまま口も体も、動かなくなってしまって……壁掛け時計の秒針の音だけが、室内に響く。
 だよなあ、とため息をつき、どうしようか、考えを巡らせていると。

「……なんて?」
「え?」
「ソレは、なんて言ってるの?」
「ええと、自分は真緒子の従者。自分は真緒子が目覚めるのを待っていたのだ、だって」
「っ、ふおっ、おおっ。ええっ、覚醒の時が来たっ、ピカーッ、みたいな?」
「いや気付いたら、そこにいたんだよね」
「え、ちょっ、地味……やり直してもらえば?」

+++

 黒いのだけど、透き通っていて、光を帯びているヘビ。
 手ひらの上でとぐろを巻いているその体は、両手にすっぽりと収まるサイズ。
 伸ばしたら、私の前腕くらいの長さだろうか。
 その小さな、つぶらな黒い瞳を私に向け、ヘビが言う。

(自分は、ずっとそばにいたのだ。真緒子に備わっていたる力がいま、ようやっと目覚めたのだ)

 音のない、声。
 その不思議な声が、手のひらに乗ったヘビから、聞こえる。
 私にだけ聞こえるこの黒いヘビのことばを、私は通訳のごとく佐倉に伝えた。

「私に備わっていた視る力が、いま目覚めたんだって」
「覚醒記念日だね、おめでとう、なのかな? いや待て、目覚めたのにはなにか意味があって……ほら、使命みたいな、なんか集めなくちゃとか守らなくちゃとか、あったりするんじゃ?」
(真緒子には使命があるのか? それなら自分は、真緒子の力になるのだ)
「ないないないない。なんもない、よね? 私がただ、視えるようになっただけ、だよね?」

 ひとりと一匹に返事をしてるのか、それとも自分に言い聞かせているのか、よくわからなくなってくる。

「なんだあ、そっか、まあいいや。ええとじゃあ……はじめまして、佐倉玲花です。御崎と同じ高校の同級生です。よろしくお願いします」
「へ、佐倉?」

 私の手のひらに向かって頭を下げる佐倉に私が戸惑っていると、黒いヘビも急に、ピッと背筋、半分から上の体を伸ばした。半分から下はとぐろを巻いた状態で。

(自分は真緒子の従者。名はまだないのだ)

 ヘビの、ペコリと頭を下げる、予想外の動作。
 佐倉にもヘビにも虚をつかれて、私はしばらくぽかんと口を開けたまま、固まってしまった。

「御崎?」
「っ、ああ、ごめん。ええっと……佐倉に向かって、ぺこっと頭を下げたの。で、自分は真緒子の従者で、名前はまだない、だって」
「名前が、ない?」
(従者はあるじに名をもらうのだ。主に名を呼ばれ、許されることにより、自分たちは力を発揮するのだ)
「名をもらい……名を呼ばれ、許されることにより、力を発揮する……?」
「うはっ、契約の儀式? 名によって縛る、的な? すっげ、ね、どーする、名前!」

 急に現れた黒いヘビ、それに名前を付ける、なんていうイベント。
 なんでいまさら現れたの、という困惑九割だった私も、佐倉と一緒に考えるそれには、ちょっとワクワクしてしまった。

 そして、佐倉。
 あのときの私の言動に、ほとんど動じることもなく、疑うこともしなかった。
 私が佐倉の立場だったら、あんなふうにいられただろうか?
 本当に。佐倉は、すごい奴なのだ。

+++

 私と佐倉は、小学校からの同級生だ。
 小学6年生の頃からなんとなくつるむようになった私たちは、同じ中学校にも通い、そして同じ高校を受験して合格し、そうやって付き合いが続いていた。

 そもそも、私は小学校中学校と、人から遠巻きにされていた。

 それは、御崎家、というのが、地元ではちょっと有名な胡散臭い家だったせいだ。一帯の地主として頼りにもされていたはずなのに、よそから子供をさらってきたとか、ヘンな生き物をあの屋敷の中で飼っているのだとかいう、その他信憑性のない噂に、人はそれこそ、触らぬ神に祟りなし、と思ったようで(その噂が、微妙に真実に近いところが、またなんとも……それはさておき)。それに私の愛想のなさも手伝って、私はひとりで行動することが多かった。
 
 それでも、特に問題はなかった。私はひたすら本を読んでいた。学校へのマンガの持ち込みは禁止だったから、学校の図書室で片っ端から本を借りて読んでいた。

 なにがきっかけだったのか、もう覚えていない。
 気がついたときには佐倉が、私のそばで同じように本を読みふけっていて、たまに本から顔を上げ、ことばを交わすようになっていたのだ。

 放課後は連れ立って私の家の図書室へ行き、時間の許すまでそれぞれでマンガを読んでいた。図書室には、母が好きだった本とマンガ、それから私がねだって買ってもらったマンガが多数あり、佐倉はそれを、うれしそうに読んだ。

 いーなあ、真緒子ちゃんちはウチと違ってお金持ちで、とか、そういったことを佐倉が口にしたことはない。棚を見て「すごい、これが全巻揃ってるなんて、ラッキーすぎる」くらいは、目をキラキラさせてつぶやいていたけれど。
 
「佐倉はさあ、佐倉のマンガ欲を満たすために、私といるんだよね」

 いつだか私が冗談めかして言うと、佐倉はニヤリと笑みを浮かべて返してきた。

「うん、否定はしない。この世に、まだ読んだことのないマンガが、たくさんあるからね。とにかく、私は読む。そしていつか、自分で描いたりもしてみたいな、って思ってる」

 たまになにかのプリントの裏に、佐倉がマンガタッチのイラストを描いていることがあって、それは私からするともう、デビューできるんじゃないの? というレベルだったのだけど、そう言った私を佐倉はハッ、と笑い飛ばした。

「甘い甘い甘い。甘すぎるよ、キミ。人生、そんな簡単にはいかんのだよ」

 でも、佐倉はなんにでも器用だった。成績もいいし、運動神経も悪くない。毎日自分でお弁当を作っているし。
 いちばん驚いたのは、渡された美容室代をケチってマンガ代に回したい私の髪を、「じゃあ協力するよ」と言って、切ってくれるようになったこと。はじめは揃える程度だったのに、回を追うごとに大胆になって、ついには「御崎って、実はショートが似合うと思うんだけど、どうかな?」と提案され、プロのカット技術が要りそうなショートカットにされてしまった。

 ちなみに佐倉の髪は肩を越すくらいの長さでワンレングスのストレート、自分の手で揃えた髪を、普段はゴムでひとつに束ねている。佐倉もまた、自身のカット代を節約していた。

「御崎の分のカット代を、私に? そんなん、いらん。やだな、目的は図書室、御崎文庫の充実なんだから、期待してるよ! ああそうだ、来月の新刊、チェックしなきゃだよね」

 高校の帰り道、書店をいくつか巡り、お目当てのマンガを探したり、書店に貼り出された新刊コミック一覧を端から端まで確認して手帳に発売日をメモしたり(スマホはおろか、ケータイすらなかった時代だ)。
 限られたお小遣いやお年玉で新しい本を買ったり、お金がないときは市立図書館に行ってマンガじゃない本を読んで、互いに薦めあったり。

 私たちが話すのは、マンガや小説のことばかりだった。
 女子高生といえば、の恋バナは、私たちの場合、非現実の登場人物たちの恋バナだった。

 現実に興味がない、というわけではなかったのだけど。
 強いて言えば、私たちの興味が湧くような現実がそこにはなかった、ということなんじゃないだろうか。

 そういえば、お互いの呼び名を名字で、というのは、佐倉の提案だ。

 はじめは佐倉さん、御崎さん、だったのだけれど、だいぶ仲が良くなったと思うのに、さん付けで呼び合う状況にふと気が付いて、「下の名前のほうがいいのかな?」と訊いてみたら、彼女は「うーん」と唸った。

「私さあ、自分の名前、あんまり好きじゃないんだよねえ。出来れば佐倉、って呼んでほしい。御崎さんは? 真緒子、のほうがいい?」

 彼女にははなから、ちゃん付け、という考えはなかったようだった。

「佐倉、に合わせたい、だから御崎、でいいよ」
「オッケー、決まりだね」

 お互いを、名字の呼び捨てにする、女友達。
 私の中でそれは、ちょっとイカシテル感じがして、たぶんそれは、彼女もそうだったんじゃないかと思う。
 私はきっと、なんでも出来てしまうすごい佐倉の、誰よりもいちばん近い場所にいる。
 それがすごく、うれしかった。

+++

「クロ」
「まんまだね。ブラック、闇、ダーク……夜、とか、うーん」
「クロスケ、クロマル、クロゾウ」
「御崎のネーミングセンスって。黒ヘビ様は、男の子なの?」
(自分には、性別はないのだ)
「性別、ないそうです」
「そうなんだ。うーん……そうだ、ルシフェルとか、どう?」
「堕天使っすか、神様のヘビなのに?」

 そんなふうに。ふたりで一週間くらい悩んでいた、ある日。

「あ、カラス。またエサを隠しにきたのかな」

 庭に来たカラスが目に止まりぼそっとつぶやいたら、佐倉がそれに食いついて、和英辞典をめくった。

「カラス。クロウ、レイヴン、だって。ブイだからウに点々、くうっ、イカス。ねえ、レイヴン、どうよ」

 佐倉はヴ、のところで、ちゃんと下唇を噛んだ。私も、それに倣う。

「レイヴン……ヘビに、カラスって名前付けるの? でも確かにレイヴン、ちょっとイイかもだけど……ちょっと待って。それ、私が呼ぶんだよね?」
「御崎真緒子の名において、レイヴンに命じる! みたいな? そのときは、手のこの辺に巻き付いてるとか?」

 手を伏せながら持ち上げ、手を広げつつ、中指で指し示すようなポーズ。この辺、というのは、手首から中指にかけて。加えて、相手を見下すような目線とアゴの高さ、それって。

「それ、なんか悪役っぽいよね。私は敵の女幹部か」
「いいじゃん、それがカッコイイの」
(真緒子と自分は、悪役なのだ……?)
「佐倉、私とヘビ様は悪役なのか、って。ヘビ様、うなだれてます」
「悪役っぽいって言ったのは御崎です、私はただカッコよさに言及しただけです」
「ええっと……そう、悪役とかそういうのの前に、黒はカッコイイ色だよね」

 私が言うと、うなだれていたヘビ様が、ピッと頭を起こした。

(カッコイイ?)
「うん。私は、黒い色のヘビ様が来てくれて、よかったって思ってるよ」

 ポロリと、そんなふうに言ってしまったのだけれど。
 実はそれは、私には意外なことだった。
 私はいつの間にか、違和感しかなかったヘビ様の存在を受け入れていたのだと、そのとき気がついたのだ。

 それが出来たのは、佐倉が横にいてくれたからだ。
 私ひとりだったら。ヘビ様のことを、受け入れられなかったかもしれない。

「レイヴン、が正式な名前で、普段はレイ、って愛称で呼べばいいんじゃない?」

 結局、そんな佐倉の提案に乗っかって、黒いヘビ様の名前は『レイヴン』に決定した。

「じゃあヘビ様、今日からレイヴン、レイって呼びます。よろしいですか?」
(わかった。自分の名は、レイヴン。これは真緒子の、最初の許し。この名により自分は、真緒子の元にいることを許されたのだ。良い名をありがとうなのだ)

 黒ヘビのレイはそんなふうに言い、でも当時の私は意味がよくわからないまま、笑みを返した。


 それにしても、レイヴン……いま思うとなんともこそばゆい、まあ、高校生の自分がしでかしたことなんてそんなもん、ちょーっとだけ、夜中なんかに記憶のフラッシュバックに悩まされ、悶えるだけのこと。

 まあそうやって、なんだかんだ言いながらも。
 レイヴンという名前は、すごく気に入っている。
 笑いたければ、笑うがいいさ。

 それより、も。
 実際名前を提案したのは佐倉で、佐倉こそが、レイの名付け親だということで。
 つまり私はまずここで、貴重な名付けの機会を逃しているのだ。

 のちにこの者、娘の名付けも出来ず、誰にも名を与えることのないまま人生を終える……まだ生きているけれど……ちょっとだけ、自分が考えた名前を誰かに付けてみたかった、ような気がする。

 まあ、でも。ネーミングセンスなるものは、私にはなかったようだし、それはそれでよかったのだろう。
 私はそう、自分に言い聞かせるのだ。



<2>霊能力と幽体離脱、佐倉の夢のこと

(6823字)

 レイが視えるようになって、そうしたら、霊も視えるようになった。

 ダジャレかよ、なんて言っている場合ではなく、状況としてはなかなかハードなもので。
 レイが現れてすぐの頃は気のせいかな、で済んでいた霊感が、レイに名を付けたあたりから一気に強くなった。

 実に、いろんなモノが視えるようになって。
 そのほとんどは、形を取らない、もやっとした形態をしており、黒かったり白かったり灰色だったりで、目を凝らすとそれらが、例えば女の人だ、なんてことがわかる。
 その内容はレイによると……死霊、生き霊、生き霊まではいかない人の念、レイがじゃと呼ぶ死霊でも生き霊でもなくなったモノ、それぞれがちぎれたり喰われたりして混ざっているモノ、などなど。
 その種別も、ようく視ればたぶん、私にはわかる。
 でも。

(真緒子、目を合わせてはならないのだ。こちらに気付いて害をなす、やっかいなものもいるのだ)

 レイに言われ私は、そいつらを極力見ないように気をつけた。
 そいつらが単純に、気持ち悪かった、というのもある。

 家の敷地内でそれらをほとんど目にしないのは、どうやら高緒たかお叔母のおかげらしい。

(これは、銀のの結界なのだ)

 叔母の”従者”であるヘビ様が銀色だということを、私はこのときまで、すっかり忘れていた。レイとは違う色、しかも銀色って。派手というか、凄まじくこの世のものではないな、と思う。

 レイはその銀のヘビ様とはすでに対面したようで、なのに叔母が私を呼ぶことはなく、そしてそれをいいことに、私から叔母に報告しには行かなかった。

 普段私は、ほとんど叔母と顔を合わせることはない。叔母がなにかと忙しい人で、よく家を留守にしていたからで、それは母が生きているときからそうだった。大きな屋敷の中で叔母は、私が使うのとは違う玄関から出入りするし、部屋も遠い。なにか用事があれば、まず使用人が私を呼びに来て、それから叔母の部屋に伺う、という流れ。

 御崎本家のお屋敷に住んでいるのは叔母と私だけ、あとは使用人のみなさん、という感じだったのだけど、私と叔母が一緒に食事をすることもなく……。

 いつだったか佐倉が、「絵に描いたような、っていうか、こんな豪邸のお嬢様で使用人がいるって、その設定、マンガかよ」と笑い、私も「そうだよねえ」と返し、ニヤッとしてしまった。

 ……それはさておき。
 だからその頃、私はレイのことを、佐倉以外の誰にも伝えてはいなかった。

 それは、高緒叔母はともかく、たまに何用かでズカズカと上がりこんでくる、一部の面倒な親戚たちに知られたくなかったというのが、いちばんの理由で。
 彼らは、もう能力を覚醒させないだろうと言われている私に、たまに嫌味のようなものをぶつけてきたりする。そんな彼らに覚醒したことを知られたらどうなるか、想像しただけで私は、うんざりした気持ちになっていた。

 いままでと変わらず嫌味をぶつけながら、手のひらを返してくる、そんな、気持ちの悪い器用さを見せつけられそうで……嫌味だけならもう、培ってきたスルー技術で、なんとかできるのだけど。

 ある意味、魑魅魍魎……でも彼らも私と同じ、巫女の子孫で。一応人間なので、幽霊やその他怪異には、残念ながら分類できない。だから、叔母のヘビ様の結界にも弾かれないで、上がって来れる……。


「御崎? 大丈夫?」

 佐倉が、ミルクティーの冷たい缶を、私の額に押し付けてくる。

「……ああ、ごめん、ありがとう。思考飛んでた」

 いまは、家の外。佐倉と一緒に、本屋と図書館に行く、夏休みのとある一日。

 外には、親戚の魑魅魍魎はいなかったが、普通の魑魅魍魎はしっかり存在していて。
 調子が悪くなってしまった私のために、私たちは神社の境内の木陰に避難していた。

+++

 私は、家から外に出て出掛けよう、となると、なかなかに苦労するようになっていた。
 何度か道を迂回し、それを見かねたレイの提案で、この神社に逃げ込んで。

「でもさ、レイなら除霊とか、パパーッと出来ちゃうんじゃないの?」

 自分の頬にも別の缶を押し付ける佐倉から、私はミルクティーの缶を受け取った。

「そう、なんだけど。キリがないっていうか……あと、問題があって。実はさ」


 ……実は。佐倉がいないときに一度、レイに除霊してもらった。
 家の近くでたまたま、もやっとした気持ちの悪いそれを見たレイが、提案してきたのだ。

(真緒子、あれはあまりよくないものだ。自分が消してもいいか?)
「そうなんだ、うん、いいと思う」

 あまり深く考えないで返事をした。灰色っぽいような黒っぽいような色で、もやもやと原型を留めずうねうねと気味悪く動き続けるそれの前に、レイはポンッ、と瞬間移動する。
 レイの美しい黒い体が光ったかと思うと、それの汚れたような黒よりさらに黒い、言うなれば漆黒の球がそこに現れ、それは、その球に開いた穴にぱくり、と飲み込まれた。そしてその漆黒の球が、小さくなって消えていく。

「うーわー……」

 佐倉が見たら狂喜乱舞するのでは、とぼんやり考えながらそれを見ていた私は、無意識のうちにパチパチと手を叩いていた。

「すごーい。レイ、いまの気持ち悪い奴は、なんだったの?」
じゃ、だ。死霊や生き霊のカケラを貪っていた)
「そうなんだ。……ん?」

 そのとき唐突に、おなかがすいた、と感じた。

 そのうちにそれは、ちょっと耐え難い感覚に変わってゆき、私は家に戻って台所に飛び込む。お菓子をいくつか見つけて貪っていると、使用人の海藤かいとうさんが台所に入ってきた。

 彼はたまに高緒叔母の運転手も勤める男性の使用人で、私の事情を知ると、冷蔵庫の中にあった作り置きの総菜、使用人のまかない用の白飯、味噌汁を出してくれた。そして私の食べる勢いを見て調理をはじめ、出来上がったそれらを私は次々と平らげてゆく。肉野菜炒めを何種類か、焼くだけのギョーザ、パック入りのカレー、それから……。


「相当、だね」

 話を聞いていた佐倉が、あきれたように言った。

「レイによると、レイがなにかすると、私の精力的なモノを、どうしても消費してしまうらしい。慣れてくればその消費も抑えられるそうなんだけど、私はまだ加減を知らないから、全力で消費してるんだって」

 レイはすぐそば、空中に浮かんでいて、黙って私たちの話を聞いている。

「うーん、諸刃の剣っていうか、自己犠牲な呪文みたいな」
「そう。だから相当ヤバい状況でない限りは、見なかったことにするしかないんだよね」
(あとは慣れ、なのだ)

 レイが言い、私は佐倉に「あとは慣れ、ってレイが」と教えた。

(真緒子はいま、視なくていいものまで視ているのだ。そのうち意識しなくても、取捨選択が出来るようになるのだ)

 そのまんまを佐倉に伝えてから、私は「そっか」とつぶやいた。

 稲荷神社の社務所に人影はあるものの、参拝客はいない。鳴りやまないセミの声を聞きながら、ふたりして缶を開け、ミルクティーをぐびりと飲む(そういえば、あの頃はペットボトルなんてものはなかった)。

 さっき鳥居をくぐったところで、私の視界は一気にクリアになっていた。暑さで少しだけぼうっとして、心配した佐倉に、冷たい缶を押し付けられてしまったけれど。

 ひと心地ついたところで「ちゃんとお参りしとこうか」ということになり、空き缶をバッグにしまい手水舎で手と口を清め、本殿に向かってちゃんと二拝二拍手一拝する。私はその作法を母から教わり、なにとはなしにやっていて、佐倉は私を見てそれを真似た。

「レイがいる、ってことは。神様も、ちゃんといるってことだよねえ」

 佐倉が、しみじみと言った。

 少し引いてきた汗をハンカチで押さえ、いい感じの風が通ったな、と思っていると、レイがきらり、と光ったように見えた。

(真緒子。この社のぬしが真緒子に、この風を贈ると言っているのだ)
「ええっ、この風? 社の主って、神様?」
「御崎? なに?」
「レイがね、ここの神様が、この風を私にくれたんだって言ってる」
「っ、なんじゃそりゃっ、御崎、アンタ何者?」
「いやたぶん、レイの知り合いなんじゃ?」
(自分も初めてなのだ。参拝がうれしかったと言っているのだ)

 私たちはお礼を伝えるために、もう一度本殿に行き、柏手を打ち頭を下げ、手を合わせた。

+++

 ある夜、夢を見た。

 巫女が、とある神社の奥にある泉で、自分の身を捧げている。
 そしてヘビ様たちが、その泉から生まれて。
 それは巫女の家族や集落の人々を、目前に迫り来る危機から救うため、だった。

『我が子孫である夢見に告げる。戒めをしかと受け取り、汝の為すべきことを為せ』

 ヘビ様たちの力を見せられ、それがいかに突出した力なのか、それを扱う者によっては恐ろしい事態を招くことになるのだということを、それは私に教えようとしていた。

 わかった、わかったけど。
 私にはべつに、為すべきことなんて、ない。
 ごめんレイ、私……。

 目が覚めて。
 でもそこは私のベッドではなく、小さくなった本家の屋根を見下ろすほどの上空……私はどうしてか、空の上にいた。

「っ?! なにこれっ」
(真緒子は、体から離れているのだ)

 そばにはレイが浮かんでいて、いつもの淡々とした調子で言い放つ。
 それを理解するのに、私にはしばらく時間が必要だった。

「あ、わかった! これって幽体離脱、そうだよね?」
(そうなのだ。真緒子の霊体が、体から離れている状態なのだ)

 ようやく落ち着いてきて、目を凝らすと。
 私は白くて透明な霊体の体になっており……白いひものようなものが本家の屋根の下から長く伸びていて、それが私の霊体のどこかにつながっている。
 キラキラ光るそれを指さして「レイ、これって?」と尋ねると、(魂の紐、真緒子の肉の体とのつながりなのだ)という答えが返ってきた。

「……あ。これが切れると、死ぬ?」
(その通り、なのだ)

 ふと、思いついた。

「この紐、最長どれくらいまで伸ばせるのかな?」
(長さに限度はないのだ)
「それなら、佐倉んちまで行けるよね?」
(もちろん可能なのだ)

 高度を下げ、私は佐倉の家までの道をたどった。

 もうすぐ深夜12時になるところ(公園の時計でわかった)。道行く人を見下ろしながら、知っている道をふわふわと飛んでいく。霊体の私に気付く人はいなかった。

 なんでいきなりこんなことが出来るのか、自分でもよくわからない。
 ただ、そうしたい、と思っただけで、出来てしまったのだ。

 佐倉の家に着いてから、私はやっと気がついた。

「しまった。いまの私が声かけても、佐倉はわかんないよね?」

 それでもつい、佐倉の姿を探してしまう。私は、いままで上がったことのない佐倉の家、一軒家の二階の窓を、佐倉の部屋がどこなのかもわからないまま、そうっとのぞきこんだ。
 これって実は、犯罪行為だよなあ、と思いつつ……。


 ……そこで。
 犯罪行為だと、思ったのに。
 戒めの夢を、見たばかりなのに。

 私はあとになって、佐倉の部屋をのぞいたことを激しく悔いた。

 果たしてその部屋に、布団で眠る、佐倉がいて。
 膝を折り体を小さく丸め、頭を抱えるようにして眠っていて、そして。

 彼女を取り巻くように、感じの悪いもやが、複数存在していた。

「レイっ、佐倉、襲われてる?!」
(真緒子、あれは人の念、この家の者たちが佐倉玲花に向ける、いんの気なのだ。そして佐倉玲花はそれを受け入れ、自ら囚われている)

 人の念……あれは、悪意、だ。
 その悪意に囲まれて、眠る佐倉。
 でも。佐倉がそれを、受け入れている?

 意味がよくわからない。だけど、このままにはしておけない、と思う。
 だって佐倉が、苦しんでいる……。

「レイ。あいつら、消したほうがいいよね?」
(真緒子がそうしたいなら、そうすればいいのだ。しかし、佐倉玲花の許しを得たほうが、事が運びやすくなるのだ)
「佐倉の、許しを得る?」
(夢渡り。闇の夢を、広げるのだ)

 レイの、黒くて透明な体が光を放ち、私は闇に包まれた。

+++

 理屈は、さっぱりわからない。
 レイの力で私は、佐倉の夢の中にいた。

 真っ暗な世界。その中でなぜか見える映像、イメージのようなものが、断片的に通り過ぎる。

 ……痛い。
 痛い痛い、痛い。胸が絞めつけられる。
 これは、佐倉の夢。
 悪意に囲まれ逃げられず、それを受け入れるしかなかった、彼女の。
 これはたぶん、彼女が私に見せたくなかった部分。

(真緒子。佐倉玲花を探すのだ)

 レイの声がした。見るとレイが、その輪郭を光に縁取られたように浮かんでいて、私はわずかに冷静さを取り戻した。

「うん……わかった。……佐倉、どこ?」

 声を出しながら、私は手探りで前に進む。
 佐倉の夢の破片が、降ってくる。

「佐倉……」

 そして破片は容赦なく、私に向かって暴露する。


 ……名前は嫌い。
 玲の字は父から、花の字は母からもらった。
 花なんていらない。
 だから、嫌い。

 ……父と一緒に、母の元を去った。
 でも父は死んでしまった、私を置いて。

 ……母の元へ戻った、そこには義父とその子供たちがいた。
 彼らは私を受け入れるのに苦労し、そして諦めた。

 ……私は父の名字のままでいる。
 私も彼らを、受け入れない。
 私が母を、受け入れることはない。

 ……私がいなくなればいいのに、と彼らは願っている。
 私の存在が、彼らの性格を歪ませているのがわかる。
 その事実を、私は受け入れている。
 すべて、私のせいなんだ。

 ……だから。
 そう、それならば。
 私が世界から消えてしまえばいい……。


「ダメ、だめだめだめだめっ、佐倉、お願いだから、返事してっ。私に、気付いて!」

 そのとき。手が、なにかに触れた。
 とっさにそれを、両手でつかむ。佐倉の手。その左手を、お互いの指を交差させるようにしっかりとからませると、右手で体をたどり、佐倉の左手を見つけて同じように握った。

「佐倉! 佐倉ってば!」

 佐倉を呼ぶ私の声が。この、私と佐倉以外なにも存在しない空間に響く。

「佐倉っ! 佐倉玲花っ!」
「……え、御崎? どうしたの?」

 佐倉の声がして闇が晴れ、ぱあっ、と視界がひらけ。
 佐倉が、そこにいた。
 お互いなにも身につけていない……これはきっと、霊体の体だ。

「佐倉、ごめん。まず謝らせて」
「なに、それ?」
「こうやって佐倉と、夢でつながってしまったこと。佐倉に無断でこんなこと、しちゃいけなかったのに」
「そうなの? でも私のほうが、御崎にたくさん、謝ったほうがいいと思うなあ。いろいろもらってばっかりだし」

 佐倉がなにを言いたいのか、よくわからなかった。

「ううん、佐倉をのぞき見した私のほうが、絶対にいけない……」

 レイの力で。
 佐倉の夢につながった私は、佐倉が普段話さない、もしかしたら意図的に隠していることを知ってしまったのだから。

 佐倉は、家族に疎まれていて。
 いままでそれを私に、打ち明けたりなんかしなかった。
 それなのに。

 ……でも。

「佐倉。少しだけ、レイの力を使ってもいいかな? 私、佐倉がつらそうなの、嫌だよ。でもこれって私のわがままみたいなところもあるから、佐倉が嫌だったらやめる。っ、でもっ。あんなモノに佐倉が囲まれてるなんて私が嫌で、だからきれいさっぱり消し去ってやりたい! ダメ、かな?」
「……よくわからない、けど。私はさ、なんていうか……御崎の言うことは、全部信じてる、信じられる、信じたいから信じてる。だから、御崎のやりたいこと、全部やってほしいよ」

 いつもとは違う、力のない言い方をした佐倉がふと、顔を上げた。

「御崎、これってもしかしてレイ? 私にも視えてる、どうして?」
「ここは、佐倉の夢の中なんだよ。私とレイが、勝手に佐倉の夢に入っちゃったの」
「マジか! でもうれしいな、レイに会ってみたかったんだよね。ふうん、意外とかわいいんだ、目が、ちっちゃいのにパッチリしちゃってさ。そうだ、あれやって見せてよ、『御崎真緒子の名において、レイヴンに命じる』って、ほら!」

 レイが、気を利かせて私の右手首に巻き付き、中指のほうへ頭を伸ばす。
 つないでいた手が離れ、ふたりの距離が空いて。

 佐倉が私に、笑ってみせた。

 しょうがないので、私は左手を腰に当てて右腕を前に出し、それから思いっきり悪そうな顔を作る。

「御崎真緒子の名において、レイヴンに命じる。佐倉を苦しめる思念を、排除せよ」

 夢の外で。
 レイの生み出した闇、漆黒の球体が、佐倉の布団のまわりにうろついていたもやを、パクリパクリと飲み込んで、消えた。
 その様子を私の霊体は、名状しがたい不思議な感覚で把握していて。

「おやすみ、佐倉。ヘンな起こし方ちゃって、ごめんね」

 霊体の私は夢の中の佐倉をぎゅっと抱きしめて、それから、佐倉の夢を後にした。



<3>高緒叔母と銀のヘビ、高校時代の終わりのこと

(7424字)

「おかえり、真緒子」

 目を開けると声がして、顔を向けるとそこには、高緒叔母が座っていた。
 頭がぼんやりとしている。さっきまで……そう、佐倉の家にいて、それで。

 ここは御崎本家の、私の寝室。私はその八畳の部屋の、真ん中に敷かれた布団の中にいる。

「体から離れたのは、初めてだったのかい?」

 そのことばに飛び起きて、でもくらりとめまいを覚えて、布団に手をついた。

 そうだ私、幽体離脱していて……戻ったんだ。

 その、ついた手のすぐ横にレイがいて、首をかしげて私を見上げている。
 心配してくれてるのかも。まだレイの表情をよくつかめていなかった私でも、そのときそう思った。
 そうっと、レイの頭を撫で、それからはっ、とした。

 レイのことを。私は叔母に、なにも話していなかったのだ。

「っ、叔母様あのっ、私、なにも、」
「いいさ。このまましばらく秘密にしておこう。ただ、ずっとというわけには、いかない。悪いがそこは、呑んでおくれ」

 高緒叔母が、言った。
 ことばが圧倒的に不足しているのに、なんでだろう、なにもかもが、お互いに伝わってしまう。

「いままで、おまえを放っておくばかりで、すまなかった。今日は少し時間があるんだ。ところで、腹が減っただろう?」

 傍らの盆に大皿が載っていて、そこに大量のおにぎりが積まれていた。
 レイの力を使った私は、確かにぐったりとしていて、叔母はそれを見越していたらしい。
 私がおにぎりを食べはじめると、叔母はゆっくりと話しはじめた。

「食べながら、聞いてくれればいい。……私にはね、黒のヘビ様がおまえのそばにいるのが、ずっと視えていたのだよ。その場にいられなかったからわからないが、おそらく、おまえが産声を上げたその瞬間から、ヘビ様はおまえのそばにいた。だが、おまえが消耗してしまわないよう、身をひそめていた」

 ……生まれたときから?
 きゅっ、と胸に痛みが走り、私は食べるのを中断する。

 確かにレイも、『ずっとそばにいた』と言っていたけれど、じゃあ。
 レイは17年も、私に放っておかれていた……?

 レイを見ると、私の視線に気がついて、ひょいっと膝の布団の上に乗っかってくる。
 それからまた、私の顔をじいっ、と見つめてきた。

(真緒子。どこか、痛むのか?)

 それに答えられないでいると、高緒叔母が小さく笑いながら言った。

「ふふ。黒のヘビ様、たぶんそうではないよ。……真緒子、おまえが黒のヘビ様に気付いた日も、私は銀のヘビ様から聞いて、知っていた。それくらいは、察していたか? だがね、それをすぐに受け入れられないだろうことも、私にはわかっていたからね。なにせ経験済みさ、しばらくはそっとしておいてやりたかった……いいから、お食べ」

 叔母は私にそう促すと、保温ポットから緑茶をふたつの湯呑に注いで、おにぎりのとは違う小さな丸盆の上に置いた。私にも届く位置にそれを近寄せたあと、湯呑のひとつを手に取り、ゆっくりと口に運んだ。
 湯呑を盆に戻して、叔母がふたたび語りはじめた。

「私の仕事はね。ヘビ様の力をお借りして、人を困らせる怪異に対処する、そういったものなのだよ。それを真緒子、おまえに手伝ってほしい。やってみて、悪くなければ続けてもいいだろうし、嫌だと思ったらやめればいい。……ただ、どちらにしても、おまえは。この力の使い方を、学ばなければならないだろうな。今後ヘビ様の力を使わないにしても、制御するのには知識と経験が必要だ。だから仕事を手伝うついでに、それを学ぶといい」

 ポンッと音がして。
 レイの隣に、美しい銀色の光が溢れた。

 ああ、これが。
 母には視えなかった、銀のヘビ様なんだ。
 私を見つめ、それからペコリと頭を下げるその姿を、感慨深く眺める。

「そういえば真緒子、黒のヘビ様に名を授けたのだろう? なんという名前なのだい?」

 咀嚼していたおにぎりを、飲み込むタイミングではないのに飲み込んで、一瞬息がつまった。

「んぐ。……はい、付けました、名前」
「なんと呼ぶのだ?」
「その、レイ、と」
(自分はレイヴンという名を、真緒子からもらったのだ。いつもはレイと呼んでくれるのだ)

 レイが叔母に向かって言い、私の顔が赤くなる。
 照れる必要はなかったのだけど、多感な高校生だった私はそのとき、盛大に照れた。

「れいぶん。良い名じゃないか。英語なのかな? 意味はどういう、」
「かっ、カラス、です、あのっ、叔母様? 叔母様の、銀のヘビ様の名前は、訊いてもいい?」
「もちろん。ツキヒト、というのだよ。……ああ、少々、気恥ずかしいな。なるほどな」

 あとでそれは、『月人』と書くのだとわかった。
 たぶん、銀のヘビ様は月と関わりがあるし、その体も月の光のようだから、なのだろう。
 だが、真意を叔母から聞いたことはない。

 結局、その後。
 私の希望が通り、叔母はヘビ様に関する一切合切を、私が高校を卒業するまで待ってくれることになった。それまでは、叔母のいるところ以外ではなるべく、レイの力を使わないようにすること、また誰にも話さないこと、そのふたつを念押しされた。

 佐倉に話してしまったことを正直に打ち明けたら、「信頼できる友人がいるのだな」と叔母は笑みを浮かべた。私はほっとして、「はい」と返した。

+++

 あの、幽体離脱をして佐倉の夢に入りこんだ夜から二、三日の間、私は佐倉と会わなかった。いつも自分のタイミングでうちに訪れる佐倉が、姿を見せない。毎日、こちらから電話をしようか迷って、やめた。
 だが、登校日の前日になって、佐倉がうちに来てくれた。

「……佐倉、久しぶり」
「だね」

 門で声を交わし、それから図書室に着くまでふたりとも黙ったままで、佐倉を中に通して図書室の扉を閉めて、振り返ると、佐倉がすぐうしろに立っていた。
 そして佐倉は、がばっ、と私に抱きついてきた。

「御崎。ありがとう……」

 佐倉の腕に塞がれた耳に、くぐもった声が届いた。身長差で私は、顔を佐倉の首筋に押し付けられていて、私も謝らなくちゃ、と、もぞもぞして口を開こうとしたら、佐倉が言った。

「御崎はなにも言わないで、でも訊いていい? あれは夢だったけど、現実の夢、だよね?」

 私はもぞり、とうなずいた。

「レイが視えたのは、本当の現実のこと、夢だけど、そうだよね?」
(その通りなのだ、よく覚えていられたのだ)

 そばで宙に浮いていたレイが言い、私は佐倉との間に隙間をもらい、レイの言ったことを教えてあげた。

「レイがそこにいて、その通り、よく覚えてたね、だって」
「そっか。ああー、でももう視えないのか。だよねえ」
(自分は、視る力を呼び起こすことが出来るのだ。そうするか?)

 そう、レイが言ったことにびっくりして固まってしまった私に、佐倉が声をかけた。

「あれ、どした。レイ、なんか言った?」
「……レイが。自分は、視る力を呼び起こすことが出来るのだ、そうするか? って」

 あんまり驚いたので、一言一句、間違えずに伝えられたと思う。
 佐倉がそれを聞いて、目を見開いた。

「そうなの?! え、どうしよう、えええっ」
(そのかわり、怪異を視る能力も備わってしまうのだ。それはとても危険なことなのだ)
「っ! レイのバカっ、なら、なんでそんなこと言うの?!」

 私が思わず叫ぶと、佐倉がびっくりして身を離した。

(それは、佐倉玲花が、)
「なに、御崎、怒ってるの?」
「だって! そのかわりに霊感体質にもなっちゃうなんて、それが危険なことなんだって、そんなこと言うなら、最初っから教えないでよ!」
「っ、ふ、あははっ」
「ええっ、なんで笑うの?」

 佐倉が笑って、私は声を荒げたまま、佐倉にもつっかかった。

「だよねえ、世の中、そんな甘くはないですから。そっかー……。でも、ちょっと考えさせていただけますか?」
「え、ダメだよ、ダメに決まってるじゃん」
「いいじゃん、こんな葛藤、なかなか経験できないよ。うーん、レイの姿はもう一度視てみたい、でも霊感アップのオプション付き、悩む~」
「悩んじゃ、ダメ! 絶対、ダメだから!」

 その後も。
 佐倉から佐倉の家の話が出たことはなく、こちらからも、なにも訊くことはなかった。

 それでも、私はレイに相談し、佐倉にお守りを渡した。

「レイに教えてもらった、よく眠れるお守り。佐倉にあげる」

 佐倉と行ったあの神社でお守りを買い、そのお守りにさらに、レイの力を込めてある。どういう仕組みかはよくわからないのだけど、途中の工程で、私はそのお守りに息を吹きかけた。

「……そっか。うん、ありがとう」

 佐倉はそれだけ言って受け取り、たぶんあれは、ほっとした顔だった。
 レイによるとあれは、小さな結界のようなもので、陰の気が固まってできた悪意の念や邪に、浸食されるのを防いでくれる。
 必要以上に踏み込むのは、佐倉も望んでいない。だけど、これくらいは許してほしい……あの夜私がしたことは、絶対に許されるものでは、ないのだけれど。


 そしてまた、いつもの日常が戻ってきた。
 いや、レイが現れたあとの、レイという非日常と共存する、日常。マンガを読みふけり、たまに会話をし、レイの声が聞こえない佐倉のために、レイの言ったことを教え、しょうもないことで笑ったり、楽しいって思ったりする、毎日。

 マンガを読む時間が、いつしか大学受験のための勉強に置き換わってゆき、それでも息抜きと称してタイマーを持って図書室に行ったりして、私たちふたりは、それはもうべったりと、可能な限り同じ時を過ごした。そのために、学校のそれぞれのクラスにいる間は、自分の席で必死に勉強をしていたので、クラスメイトからは真面目な人間だと思われていたはずだ。

 限りのある、時間だった。
 大切な、大切な時間。
 私たちには、世の中の常識やマンガに出てくるような青春チックなものはなかった……あの頃はそう思っていたけれど、いまになって思い返すと、ちゃんと青春してたんだな、としみじみする。

 なぜなら、あの頃感じた、いくつかの胸の痛みは、あの頃だけのもので。
 すっかり大人になってしまったいまでは、ただ思い出すしか出来ないものだからだ。

+++

 佐倉は私より早く、合格通知を手にした。希望通り『とにかく実家から遠く、通うのが不可能な大学』で、高校卒業後は大学の近くにアパートを借りて、一人暮らしをすることになった。

「一人暮らしかあ、楽しみだね。泊まりに行ってみたい」
「来れるもんならね。御崎、ひとりで電車に乗ったことある?」

 佐倉の通う大学のある土地へは、途中から新幹線にも乗って、県をいくつか跨いでいかなくてはならない。
 私は「ううっ」と唸り、自分のポンコツっぷりがまた増えたことに閉口する。
 佐倉の一人暮らしの話から、掃除、洗濯、料理、その他諸々の家事が一切出来ないことを自覚したばかりだ。
 ちなみに高校への通学は、佐倉も私も徒歩だったし、離れた本屋へ行くのに電車に乗るときは必ず佐倉がいてくれた。家の用事で外出することがあれば、車に乗せられる。

 私の場合、大学は『家から通える』が第一条件で、これは高緒叔母の意向でもある。まだヘビ様の力に振り回されそうな私をひとりには出来ない、という判断だったのかと思っていたけれど、このお嬢様的生活能力のなさも、考慮に入れてのことだったのかもしれない。

 私が通う大学も決まり、卒業式も終え、高校生活最後の春休みがはじまり。
 佐倉と私はほとんど毎日、顔を合わせた。一度だけ本屋に行った以外は、うちの図書室にこもり、それぞれ黙ったままマンガを貪り読む日々。

 佐倉と会える最後の日も、佐倉はうちに来て、図書室でマンガを読んだ。

「しばらく、マンガや本はお預けかな」

 いつもの帰り時間の、30分くらい前。
 持っていたマンガを読み終わったらしい佐倉が、ぼそりと言った。

 いつものように、佐倉はソファを背もたれにして床に直座り。
 私もいつもの位置で、ソファに深く腰掛けて足を座面に載せ、膝を立てるようにして座る。

 佐倉はマンガをゆっくりと閉じて、すぐ前にあるローテーブルに置き、その背表紙を指で撫でた。
 その少女マンガは、佐倉も私も、何度も読み返しているものだった。
 佐倉が最終巻を読み始めるのを見て、私も、そのマンガの別の巻を手に取って読んでいて。私もそれを閉じ、佐倉が置いた最終巻に重ねた。
 空いた両手で膝を抱えて、佐倉のことばの続きを待つ。その気配を察して、佐倉が続けた。

「私、バイトする、めちゃくちゃやりまくる。やっと自力で稼げるようになるから、とにかく貯金して、卒業後も一人暮らし出来るようにする予定」

 佐倉はソファの座面に頭を寝かせ、私のほうへ顔を向けた。

「だからしばらくは、御崎もお預けだなー」
「お預けって、なに」
「御崎の……髪を切ったり、御崎からレイの話聞いたり、そういうの。休みも、こっちには帰って来ないから」

 帰って来られない、ではなく、『帰って来ない』。
 そうきっぱりと、佐倉は言った。

「髪は、しょうがないけど。私が頑張ってそっちに行けばいいし、」
「いや、心配を通り越して、恐怖なんですけど?」
「っ、もうっ、じゃあ手紙! レイのこと話せるの佐倉しかいないし、話せないストレス、手紙で全部佐倉に吐き出してやる。覚えておれ」
「フハッ。それは楽しみかも」

 佐倉の借りる部屋に電話はなく、緊急時は同じ敷地に住む大家さんに電話かけることになるのだ、とあらかじめ聞いていた。電話以外の手段は、手紙か電報しかない(メールもファックスもまだそんなには普及してなかった時代だ)。

 佐倉は笑い終わってふう、と息を吐き、私に向き直って尋ねた。

「そうだ。レイって、いまどのへんにいるの?」
「……あれ、いない? レイ?」

 あたりを見回しながら、私はレイを呼ぶ。

「レイってば、どこ? レーイー?」

 レイからの、返事もない。
 この図書室には、一緒に入ったはずだ。

 胸が、ザワリとする。
 どうして? いつだって、すぐ手が届くところにいて。
 呼んでも来てくれないなんてこと、いままでなかった。

 まさか。
 私は、能力者ではなくなってしまった?

「レイ、いないのっ?」

 思わず立ち上がると、同じように立ち上がった佐倉が、私の手を取った。

「御崎、落ち着けって」
「レイ、……レイ?」

 レイを呼ぶたび、私の胸に増してくる不安、焦り。

 佐倉が、ここからいなくなってしまうのに。
 レイまで、私の前から消えてしまうの?

「レイがいない……視る力が、消えた?」
「嘘、そんなわけないよ。レイが御崎の前からいなくなるわけない。ちゃんと呼んでみ?」

 佐倉に両手を取られ、私は佐倉を見上げる。目が合って、佐倉はひどく真面目な表情で私を見つめた。

「ちゃんと、呼ぶ?」
「御崎真緒子の名において……いや、それより。ちゃんと、フルネームで呼んでみなよ」

 佐倉の手に力が入り、私の指からそれが伝わってきて。
 私はそこで、目が覚めたような感覚を味わった。

 ……ああ、そうだ。
 私、動揺しすぎだ。

「佐倉、ありがとう」

 私は佐倉の手を握り返し、それから片手だけ、ゆっくりと離した。
 その空いた手を、不安なんてものをを広げてしまった、自分の胸に当てる。

 そうだ、ちゃんと呼ぼう。

 いつの間にか。
 私にとって、なくてはならない存在となってしまった、の者の名を。

「……レイヴン」

 私は、繰り返した。

「レイヴン、お願い。私に、御崎真緒子の前に、姿を見せて、返事をして」

 ポンッ、と音がした。

(真緒子、すまなかったのだ。呼ばれていたのに、遅くなったのだ)

+++

「レイっ!」

 レイが現れた天井近くに目を向けると、佐倉がそっと私の手を離した。
 私が両手を差し出すと、レイがその上にひゅるりと移動してくる。

 深い深い黒、でも透明で、光り、不思議な見え方をする体。
 とても美しい、小さな黒いヘビ。

「バカっ、いなくなったって、思ったよ?」
(銀のに呼ばれ、家周りに現れた厄介な奴の掃除を、手伝っていたのだ。以前銀のの話をしたときに、『いつでも協力してあげて』と真緒子の許しも得ていたのだ)

 確かに、少し前にそんな話をしていた。

(ダメだったか?)
「え、あ、ううん、ごめん、そうだったね……」

 急に力が抜けてしまった私は、レイから手を離し、ぼすん、とソファに沈んだ。

「御崎? 大丈夫?」
「うん……ああ、ごめん。レイ、そこにいるよ。外で、お掃除手伝ってたんだって」
「掃除? でも、なんだ、よかったじゃん」

 佐倉も、私にならってぼすん、とソファに身を沈ませる。
 はあー……、とほぼ同時に大きな息を吐き、そのままふたりして放心していたのだけれど、しばらくして佐倉が肘で私をつついてきた。

「さっきの、手のひらに乗せてたんだよね? もう一度やってみせてよ」
「これ?」

 言われて私は、手のひらを盃の形にして、レイに乗っかってもらう。
 納まりよくとぐろを巻き頭をもたげたレイは、きらきら光る真っ黒な瞳で、佐倉をじっと見つめた。

「いま、ここでとぐろ巻いてるよ。それに佐倉のこと見つめてる、お目目パッチリ」
「ふふっ。レイ、わかってるねえ。最後に挨拶したかったんだ」

 佐倉はソファから身を起こして姿勢を正し、私の手のひらを見つめる。

「当分の間ここには来れなくなるけど。あの件はまだ検討中だから、よろしく覚えておいてください。あと御崎のことも、よろしく頼むね」
「あの件、って?」
「レイに、視る力を呼び起こしてもらう件」
「っ、佐倉、それは、」
(わかったのだ。佐倉玲花、覚えておく。それに真緒子のことも頼まれるのだ)

 レイが返事をしたことに目を丸くしてことばを失っていると、佐倉が私の腕をつついた。

「レイ、なにか言ってくれたんでしょ?」
「……わかったのだ、覚えておく、私のことも頼まれるのだ、だって」
「よかった!」

 そして佐倉はうれしそうに笑って、「じゃあ、そろそろ行くね」と言って、図書室を後にした。


 そうして。
 私は一度、佐倉の手を離さなければならなかった。
 私たちはまだ子供だったから、それはしょうがない選択で。

 そして私は……彼に溺れ、自分のことしか考えず、佐倉のことをすっかり忘れてしまっていて、それなのに。

 佐倉は、傷だらけの私の前に現れて、その手を差し出し。
 私の名を、呼んでくれた。

 でもそれは、ここから何年もあとの、もう少し先の話だ。



【第1章・私は黒いヘビの名を呼ぶ】・了

【第2章・貴方が私の名を呼んだ日】へつづく


【2023.06.13.】up.
【2023.06.22.】あちこち加筆修正
【2023.07.03.】脱字修正、加筆
【2023.07.09.】加筆修正


++闇呼ぶ声のするほうへ・各話リンク++

【プロローグ・祝福と名付け、そして母のこと】
【第1章・私は黒いヘビの名を呼ぶ】
【第2章・貴方が私の名を呼んだ日】
【第3章・その目が私を呼んでいる】
【第4章・私をその名で呼ばないで】
【第5章・闇呼ぶ声のするほうへ】/【エピローグ・そして私は彼女の名を呼ぶ】


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