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闇呼ぶ声のするほうへ(長編小説)【第3章・その目が私を呼んでいる】


闇呼ぶ声のするほうへ

長編小説(ジャンル:現代ファンタジー)です。
全体のあらすじ・目次は こちらの記事でご覧いただけます。
また、この記事の終わりにも各話へのリンクがあります。

前回のお話はこちら → 【第2章・貴方が私の名を呼んだ日】

【第3章・その目が私を呼んでいる】

(20018字)

<1>密室からの脱出と目撃者、彼らの呼ぶ声のこと

(6776字)

 私、御崎真緒子みさきまおこ佐倉玲花さくられいかへ初めて出した手紙は、ひどく色気のないものになってしまった。
 
 大学のレポート提出にも使用するワープロ(文字入力しかできないプリンター付きノートパソコンもどき、で通じるだろうか)の練習も兼ねて、書きはじめたら止まらなくなって。
 書き上げて、海藤かいとうさんに封筒を頼んだら、「提出用のレポートでしたら、折らないほうがいいですよね」と、大きな厚手の茶封筒が出てきた。

 茶封筒に入った用紙の束にワープロの文字、という可愛げのない手紙を受け取った佐倉からは、『御崎らしくてウケたよ。』と、よく知っているやわらかな文字が並んだ手紙が返ってきた。便箋と封筒が揃っている、美しいレターセット。封にもかわいいシールが貼られていて、私はなんだか裏切られたような気持ちになって……それはさておき。

 あのとき、あんな量の手紙を佐倉に送り付けた私はやはり、浮かれていたのだ。
 自分ではいつも通り、冷静だと思っていたのだけど、やっかみによる嫌がらせなどの面倒事がなくなって、身軽になった開放感があったのだろう。
 そして。

『レイの力を使ったところを、安達あだち先輩に見られてしまいました。』

 そう入力したところからの文章は特に、私が一方的に佐倉にしゃべり続けているような、鬱陶しいものになってしまったと思う。返事が届いたとき、佐倉があきれて返事を寄こさない可能性を考えていた私は、少しほっとした。

『入学してたった3か月でバレてしまうところも、御崎らしいよね。』

 佐倉の言う『私らしさ』が、私にはよくわからなかったけれど。

+++

『あそこの。いちばん上の窓から、降りてきたよね? ふわふわと、浮かぶように』

 安達先輩の言ったあそこ、というのは、研究棟5階の、ある部屋の窓のこと。
 そこはいくつもある資料室のひとつで、あの日私は、あの部屋から出られなくなってしまった。
 例の4人のやっかみ女子たちに仕掛けられて、伝言の伝言で呼び出され、入室した途端にドアの鍵を閉められ……要するに、閉じ込められてしまったのだ。

 ドアは、通常のドアについている鍵と、それと別に取り付けられている錠前の鍵がかけられており、少し離れたところから彼女たちがその様子を見ている、らしい。
 それをレイが、部屋の外に出て確認し、教えてくれた。

 さて、どうするか。

 まず思いついたのは、海藤さんへの伝言をレイに持たせ、海藤さん経由で鍵を開けてもらう、という方法だった。

 バッグも一緒に持ってきていたので、筆記用具もある。ただこれが、大事になってしまうのは出来れば避けたい。なにかとお騒がせな女子、というレッテルを貼って、嗤ってやろうという魂胆も、彼女たちにはあるだろうから。

 だからそれは、最終手段。
 じゃあ、どうする?

真緒子まおこ、自分が鍵を無くすか?)

 すぐそばで宙に浮くレイの、黒くて透明なヘビの体が、うれしそうにキラキラと光っている。

「その無くした鍵、元に戻すことは出来る?」
(出来ないのだ)
「残念だけど、却下します」

 レイがどんな消し方をするのか知らないけれど、騒ぎになるのは目に見えている。
 私はドアを、ドンドンと叩いてみた。ここの廊下を通る人を待って、この音で気が付いてもらうか。レイに外の様子を見てもらって、人が来そうなところで合図してもらうことにした私は、改めて資料室を見渡した。

 書架が、部屋の外の廊下と並行する形で五、六列並べられた部屋。使用頻度の低い資料室のようで、棚はガラガラだった。ところどころに本やファイル、よくわからない紙束が無造作に置いてあり、中には日焼けしているものもある。
 外廊下とは反対側の棚のうしろにはカーテン、そして窓があり、入口ドアのまっすぐ正面にある窓だけ、棚に塞がれるのをまぬがれていた。その窓の硬い鍵をなんとか回し、私は窓を開ける。窓の下をのぞくと研究棟の裏を通る舗装路が見え、そこに人影はなかった。

 ポンッ、と音がした。レイが窓の枠に乗って、下を見下ろす。

(廊下に人は通らないのだ。この階にも下の階にも、人はいないのだ)
「あの子たちは?」
(もういないのだ)

 5階は空き部屋も多く、研究室に使われるのは、階段を多く使わずに済む下の階が多いらしいと、なにかで聞いた。もう夕方。彼女たちも帰った……鍵は彼女たちが、何食わぬ顔して返却しているのだろう。例えば私があとで『閉じ込められた』と訴えても、『自分が閉めたときは誰もいませんでした』と言えばいい。
 駅までの道を、いまごろ私が困っているだろうことを想像し合って嗤いながら歩く、彼女たちの様子が目に浮かぶ。

(真緒子、ここから出ればいいのだ)
「っ、この窓から?」
(ゆっくり落ちればいいのだ)

 レイの説明を聞き、まずは、そこにあった脚立で実験してみることにした。脚立に何段か昇り、そこから飛び降りる前に、レイが私の額をヘビの尾でペシリとはたく。意を決して足を踏み出すと、私の体は浮かんでいて、でもゆっくりと落下し、足が床をとらえるまでに時間がかかった。ふわりと広がるスカートを押さえながら着地した私は、思わず両手を上げてポーズを決める。

「なにこれ、どういう原理?」
(人のことわりを部分的、一時的に無効にしたのだ。真緒子はいま、自分たちの理に近い者になっていたのだ)

 聞いてもよくわからなかった私はとりあえず解釈を諦め、この密室からの脱出に専念することにした。
 窓の前に脚立を置き、スカートの裾の一部を片結びにしてから登り、窓枠に手を掛ける。窓の幅はまったく問題なく、私は5階の窓から足を出して座った。肩掛けの、教科書やノートを入れた大きめのバッグを提げたまま窓枠をしっかりとつかみ、そうっと下を見る。

 舗装路に人の気配は、まったくない。通過予定の下の階の部屋も、無人であることをレイに確認してもらった。見られる心配はなさそう、あと問題なのは……私の、恐怖心。もし失敗したら、死ぬかもしれない。

「私が死んだら、レイはどうなるの? 神様の泉に帰るの?」
(わからない。存在が無い間のことは、いまの自分には、表現出来ないのだ)
「……そっか」

 私が死んだとして、なにか問題でもあるだろうか。叔母や海藤さんたちはきっと、悲しんでくれるだろう。でもたぶん、それだけ。……佐倉は? 佐倉ならなんて言うかな? 逆に……もし佐倉が死んだら、私なら、なんて言うだろうか?

「……まだこの世には。あんたが読んでないマンガがたくさんあるし、続々と生み出されてるってのに。こんなに早く死ぬなんて、バカ、ふざけんな。かな?」
(真緒子は、死なないのだ)
「そうだね。こんなことで、死んでたまるかっての」

 私はバッグのファスナーを確認し(この日は幸いなことにトートじゃなかった)、柄を持ってぶらりと下げ、それからパッと手を放した。どすん、と音がして、バッグが地面に着地する。

 そして。

「レイ、行くよ」
(了解なのだ)

 レイが私の額をはたき、私は窓枠から尻を持ち上げ、足で軽く壁を蹴り……閉じかけていた目を、見開いた。

 私の体が、宙に浮いている。

 転ぶ寸前のような前傾姿勢だった私は、空中で体勢を立て直しどうにか、膝を抱える格好になった。その手の甲に、レイが乗ってくる。
 4階から3階……ゆっくりと落下する間、私は無言でレイと見つめ合っていて、その時間はあっという間だった。2階、1階……お尻と足が地面に触れたところで、レイが声を掛けてくれた。

(人の理に、戻るのだ。真緒子、いいか?)
「うん、いいよ」

 パチン、と夢から覚めたような感覚がして。
 気がつくと私は、地面に膝を抱えて座っていた。なんとなく、重力が戻ってズシン、というのを想像していたので、拍子抜けする。立ち上がって尻をはたき、スカートの裾の結び目をほどき、上を見上げた。

 5階の、あの部屋の窓が開いている。
 私は本当に、あそこから飛んで、落ちたんだ……。

 バッグを拾った私はそのあと、まっすぐ管理事務所に向かった。案の定、鍵は返却されていて、私は「窓を閉め忘れてしまったので」と言って鍵を借り、あの資料室に戻り、窓を閉める。「バッグ、落とす必要なかった。意外と冷静じゃなかったんだな」と、ひとりごとを言いながら部屋を出、またきちんと鍵を閉めてそれを返却し、家路についた。

 あの一件があったから、後日、3階の窓からホースがのぞいているのを見て、私の堪忍袋の緒が切れたわけで……そうじゃない。

 しまったことに、あのときのあれを。
 安達先輩に、目撃されていたのだ。

+++

「あそこの。いちばん上の窓から、降りてきたよね? ふわふわと、浮かぶように」

 研究棟の裏手の舗装路で、ふたりともしゃがんだまま。
 先輩の視線に耐え切れず、うつむいて地面に視線を落とした私も、私の返事を待つ安達先輩も黙っている。
 と、安達先輩が私の手を取りながら立ち上がり、つられて立ち上がった私は安達先輩を見上げた。相変わらず、先輩に懐いているポワポワの丸い玉、こだまが、周囲に浮かんでいる。
 先輩は、いつもの穏やかな眼差しで私を見つめていて。私はまた、視線を外してうつむいてしまう。

 やっぱり、ごまかす、なんて。
 この人に嘘をつくなんて真似は、私には出来ない。
 私はどうにかして口を開き、ことばを絞り出す。

「……誰かに見られてた、なんて。思ってませんでした」
「よかった。あれは、俺の白昼夢じゃなかったんだね」

 安達先輩の『よかった』に、私は思わず顔を上げ……目を瞠る。
 なんで……満面の、笑顔?

「バカなこと言うな、って。御崎さんに笑われて終わりかも、って思ってたから。フフッ、安心したよ」

 先輩に取られている両手に、軽く力が込められ、握られる。
 先輩の笑顔にほっとしてしまった私も、反射的に握り返してしまう。

「なんで、どうして? 変だとか、気味が悪いとか、そうは思わないんですか?」

 それに、なんでそんなに、うれしそうなんですか。それは呑み込んで、口にはしない。
 責めるような口調になってしまったのに、彼は意に介さなかった。

「うーん、それより、すごい! って思った。空から女の子が、ふわふわ落ちてくるなんて、ってドキドキした。まるで映画……だから訊きたかったんだ、御崎さん、家に古くから伝わる石を持ってたりするの? 実は失われた一族の末裔? あ、これはアニメの……、って。しまった、オタク丸出し、引くよね?」

 当時、マンガやアニメに対して愛を注いでいた人間は、若干の迫害を受けていた……というのは言い過ぎかもしれない。それはさておき。

「それは、私もその映画好きなので、大丈夫ですけど」

 なにせ、テレビ放送を録画したビデオを、佐倉と3回観てる。その映画のヒロインの、隠されていた真の名前をすらすらと口にすると、彼が声を立てて笑った。

「ははっ! なんだ、よかった。だからほら、御崎さんのことが気味悪いなんて、そんなこと思うはずない……わかるだろ、大興奮だよ、もう! ずっと確かめたくて、あのとき、ここを通ろうとしていた御崎さんを見つけて、追っかけてここに来て。結果、引き止めて水びたしにさせちゃったけど」

 そうだったのか。こんな人気のない場所で引き止められるなんて、とは思っていたけれど。

「それで。もしよかったら、どうやって降りてきたのか、訊いてもいい? やっぱり紋章入りの石かなにか持ってる?」

 私もそれで吹き出してしまい、それから小さく「レイ」とつぶやいた。
 ポンッ、と音がして、レイが姿を現す。

「石は、ないですけど。先祖代々伝えられてきた……秘密、ならあります。でも、目には見えないものなので、」

 これ以上説明出来ないんです、と言おうとして。
 先輩が眉根を寄せて、宙を見つめる様子を見て、私はことばを切った。

「……なんだろう。ここになにか、うーん」

 先輩が見つめている先に、宙に浮いて、つぶらな瞳で先輩を見つめ返すレイがいて。

「先輩、もしかして霊感、あります? 幽霊を見たこととか」
「ああ、はっきりとはわからないけど、嫌な感じ、くらいはわかるよ。あそこは気持ち悪いから行かないでおこう、みたいな……霊感って言うより、勘が働く感覚、かな」

 レイは宙を移動しながら、まじまじと先輩を見つめる。そして先輩も、首をかしげながら「あれ、いまこっちにいる、ような?」とそれを視線と指で追う。そのおかげで自由になった両手が、急に手持ちぶさたになったような気がして、私は無意識に手を握った。

「先輩。もしなにか、そこにいるとしたら。一体、なにがいると思います?」
「なにがいるか? うーん、嫌なモノではない、ってことは、わかるんだけど……」

 私が訊くと、先輩はそう言って腕組をして、それでもしっかりとレイのほうを凝視する。

「ええっとね。さっき言った、勘が働く、なんだけど。なにかこう、呼ばれる……ような、感覚なんだ。だからそれで、なにかがそこにいる、とわかる」
「呼ばれる?」
「そう。そういえば、御崎さんがあの窓から降りて来たとき……なんでかこの道を通ってみよう、そう思って、まあ裏門に行ければどこからでもよかったんだけど、そのときもこの、呼ばれるような感じがあったんだ。どすん、ってなにかが落ちた音がして、なんだろう? ってなんとなく見上げたらそこに、御崎さんがいたんだよね」

 そのとき彼を呼んだのは、もちろんレイではない。やはり、こだまたち、なのだろうか?
 そんなことを考えていると、レイが言った。

(たまどもは、この男と同じくらい真緒子が好きなのだ。自分がいるから、普段真緒子に身を寄せることはない。なにか力になりたかった、と言っているのだ)
「そう、だったんだ……ありがとう」

 こだまたちに向かって言うと、その中のひとつが、私のほうへふわふわと飛んでくる。握っていた手を開いて上に向けると、こだまが、すり……と、その身を私の手に擦りつけた。

「いまのは、俺に言ったんじゃないよね」
「私の……先輩が視ようとしていた、秘密、から話を聞いて。先輩のまわりにいるモノたちに、言いました。彼らが先輩を連れてきてくれたおかげで、私はいろいろ助けてもらったから」

 シロが内田先輩をけしかけてきたのと、似ているようで、違う。
 こだまは、安達先輩の意志を曲げるようなことは、絶対にしない。

「俺のまわりにいるモノ?」
「いっつも、たくさんいるんですよ。私は勝手にそれを、こだま、と呼んでるんですけど。彼らは、常に先輩を呼んでいる、というわけではなさそうですね。気配が濃くなったり薄くなったりして……でも先輩のことを、見守ってます」
「え、そうなんだ、見守って? そっか、ありがとうな」
「っ、ふ……ふふっ」

 私はおかしくなって、吹き出した。

「なんで? 私の言ってること、信じてくれるの? だって、いまこっちの手に乗っているこだまも、先輩には視えないんですよね?」
「でもなにか、すごく納得がいったから。その、こだま、というモノがいて、俺を見守ってくれていて。俺を呼んでいたのはその、こだまだった、ってことだろう? ……うん、いまならわかる、ここになにかいる、感覚。視えはしないけど……この呼び方、感覚を、俺は知っていると思う」

 右手に乗ったこだまはそれを聞いて、うれしそうにふるふると揺れる。左手にポンッ、とレイが移動してきて、先輩はそれにも気付いた。

「いま、こっちに。さっきのが、いる? なんて言うか……呼び方、呼ばれ方が違う、かな」

 ……そうだ。
 彼ら、人の理から外れているモノたちは、その存在で、私たちを呼んでいる。
 でも私たちの多くは、それに気付かない。

 先輩は、それに気付くことが出来る、稀有な人間のひとりで。
 彼は、彼らの姿が視えなくても、彼らの呼ぶ声、忠告を、無意識に聞く。

 こだまたちはそれがうれしくて、彼を守りたい、と思ってしまうのだ。

「でも先輩、災難でしたね。呼ばれてしまったせいで、こんな面倒なことに巻き込まれてしまって」
「災難、面倒? そんなのなんにもないし、むしろ……っ、それでやっぱり、秘密は秘密?」
「実際、どういう理屈であそこから降りられたのか、私にもよくわかってないんですよね。それで確かに、秘密は秘密、なんですけど……でも先輩には、話してもいいかな、と思ってます。ただこの話、短く済みそうにないので」

 私たちはそこで、次に会う約束をした。お互いそれぞれの手帳を見ながら予定を書き込み(再三だけどスマホなんかなかった)、そしてそれはその後、何度も繰り返されて。
 気がつくと私はまた、佐倉がうちに来ていたときのように、レイと先輩との間で通訳をするようになっていた。



<2>優先順位と経験値上げ、無限増殖のこと

(6441字)

 夏休みに佐倉の家に遊びに行く、と手紙で宣言したのだけれど、それは次の返事で却下された。なんでもバイトを朝から晩まで入れており、そのバイト先で休みにされてしまったお盆休みも、リゾート地で泊まり込みのバイトをするのだそうだ。

 様々なバイトを経験し、どんどんスキルを獲得していく佐倉から、私は世の中の職業を学んだと思う。『さすがに、御崎のやってるゴーストバスターでゴーストスイーパーな仕事は、募集広告には載ってなかったかな。』と佐倉のやわらかな文字が言い、私は「そりゃそうでしょうよ」と声に出してツッコんだ。

 高緒たかお叔母との仕事はまずまず順調で、簡単な仕事なら、叔母の監督ナシでまかされるようになった。私の能力は順調に鍛えられているようで、じゃや霊の深刻度なんかもわかるようになっていた。

『仕事には、優先順位があるんだってさ。でも確かに、それがわかるとやりやすくなる感じ。』

 歴戦のバイト猛者、佐倉の手紙にそう書いてあった通りだ、と思った。奴らに優先順位をつけて、消すべきモノから消す。でもレイは最強すぎて、そんな必要はあまりなかったのだけれど。

 それでも、たまに『真緒子、これは手出しをするな』と叔母に言われた案件を、そのかたわらで見ていると、優先順位を間違えてはいけない瞬間というものがあるのだ、とわかり、私は気を引き締める。
 いつか、叔母が片付けている仕事は、私がひとりでやることになるかもしれないのだ。

 そういえば。
 叔母がひどく忙しくしていた理由が、ここへ来てやっとわかった。

 それはあの、一部の魑魅魍魎な親戚たちが、叔母に断ることなく仕事をゴンゴン取ってきてしまうからだった。自分たちの、お金持ちの、が付く知り合いに『有能な霊能力者』を紹介し、彼らはその見返りに、依頼主から結構な額を手にする。そしてその依頼すべてを、叔母ひとりに押し付けていたのだ。

 叔母ももちろん、やられるばかりではなかった。まずその親戚のえげつない紹介制度を回避するために会社を興し、依頼は会社経由でなければ受けない、と宣言した。もちろんその報酬も、会社経由で依頼主から回収する。依頼主にも、会社が発行する請求書に記載されていない金額、例えば、霊能力者や会社の紹介料とかいうものは支払わなくていい、と教え、親戚たちはそこでやっと諦めたようだ。

 叔母は、様々な依頼をこなす中で、たくさんの依頼者や同業者と懇意になっていたようだ。会社を興したのも、そこで出会った仲間たちと話して決めたことで、その本来の目的は『人外や怪異にまつわる、よろず相談承り所』を作りたかったのだと、教えてくれた。

「世の中は景気がよくて、浮かれ過ぎているけどね。仲間の話だと、それももうすぐ終わるのだそうだよ」

 いつまでも法外な値段で、仕事を受け続けられるわけがない。それを見越しての、明朗会計な『よろず相談承り所』。とはいっても、「この依頼は胸糞が悪かったね、ふんだくればいいさ」という叔母の声を耳にすることもあるのだが、それには聞こえないふりをしている。

 そもそも叔母はもう、働かなくても生きていけるだけのお金を持っている。それでも『よろず相談承り所』は、実現させたかったのだそうだ。

「本当に困っている人間が、ここまでたどり着けるかは、わからないが。まあ、ないよりはマシだろう?」

 わざとそんな言い方をする叔母が、私にはとても眩しかった。
 私には……そんなふうに、実現させたいこと、やりたいことなんて、なにひとつ思い浮かばない。優先順位なんてものの、付けようもない。

+++

「俺もまだ、そんな具体的にはないけど。でも、自活出来るようにはなりたいから、とりあえず就職しなきゃ、って感じだよ」

 安達先輩はそう答えた。大学の学食は夏休みでも解放されていて、厨房もお盆期間以外はメニューを絞って、時間短縮で開けてくれていた。だがランチタイムも終わったいま、厨房は閉店し、学食はただの休憩所になっている。
 ほとんど人はいなかったが、私と先輩はなるべく人から距離が取れるような席を選んで座っていた。

「御崎さんはまだ1年生なんだし、ゆっくり考えればいいのに。就活までたっぷり時間ある……あれ、でも御崎さん、就活するの?」
「たぶん、しません。このまま、叔母の会社に所属させてもらおうかと」
「あ、いいな。就職先、もう決まってるのか。でもそれなら、なんで悩んでるの?」

 先輩の、いつものボサボサの前髪。その間から見える、やわらかな視線と目が合う。

「悩んでる、というか、悩みがないのが悩み、のような……流されるままだなあ、と思って」
「流される?」
「上手く、言えないんですけど。でもそれでもいいや、と思っている自分もいるし、それじゃダメだとも思うし……あれ、なに言ってるんでしょうね、私」

 先輩はテーブルの向かいから身を乗り出し、手を伸ばしてポンポン、と私の頭を軽く撫でた。

「だから、いろんなことにチャレンジしてるんだろ? 少し涼んだし、そろそろ行こうか。今日は本当に、牛丼でいいの?」
「はい、お願いします」

 先輩にレイのことを打ち明け、それからはレイのことに関わらず、いろんな話をするようになっていた。その中で、私があまりにも箱入り過ぎていろんなことの経験値がない、という話になって、「じゃあ経験値を上げればいいんじゃない?」と言ってくれた先輩が、それにも付き合ってくれることになったのだ。

 先輩のバイトの合間に、この学食で待ち合わせてから、その日の目的の店へ向かう。ハンバーガー、アイスクリーム、くらいなら、佐倉に注文をお願いして食べたことが数回あったけれど、自分で注文をして買うのは初めてだった。フルーツパーラーのパフェ、甘味処のかき氷、お好み焼きにたこ焼き、回転寿司、ラーメン、駅の立ち食い蕎麦。

 食べ物ばかりなのは、レイの力を使うとおなかがすいてしまう、そんな話をしたせいだったかもしれない。いや、そういえば、ボウリングやゲームセンターには、少しだけ行っただろうか? カラオケは彼に「ごめん、それはほかの誰かと行ってほしい」と頼まれたのだっけ。

 そういえば私はこのおかげで、学校までひとりで、電車を使って通えるようになっていた。
 家の人間、海藤さんや立花さんには『大学の図書館で本を借りてくる』と言い、その実、ほとんどは安達先輩に会いに来ていたようなもので。

 これは、もしかして。
 鈍感な私でも自分の気持ちくらい、わかるような、わからないような。
 ……わかりたくない、ような。

 もし私がそういった感情を持ってしまったとしたら、安達先輩はきっと困るのではないだろうか。常にまわりに人がいて、いろんな人や、人じゃないモノから好かれている先輩が、私に対してどうこう思うとは、とても思えない。
 私より、レイに対する興味は、あるんだろうけれど。

+++

 その日は、先輩の部屋で、テレビゲームをすることになっていた。今年いちばんの熱さ、と電車の中で誰かが話すのを耳にした夏の日の午後、私はひとりで先輩の部屋に訪れ、ドアチャイムを押した。
 クーラーの効いた部屋に入れてもらった私は、ハンカチで額の汗を押さえながら、玄関先にいる先輩のほうを振り返る。先輩が、いつものようにドアに靴を挟もうとしているのを見て、「クーラーの冷たい風、逃げちゃいませんか?」と、なにも考えず口にした。

「ん、ああ、そっか」

 先輩はパタン、と扉を閉め、でも鍵はかけなかった。

「……レイは?」
「レイ」

 ポンッ、と音がして、レイが姿を見せた。レイの気配がわかる先輩は、宙に浮くレイのほうを見、ほっとしたように笑った。

「こんにちは、レイ」
(こんにちは、なのだ)

 レイがペコリと頭を下げ、先輩を見つめながら言う。それを伝えると先輩は「ありがとう」と私に言い、それからまたレイのほうに向かって、言った。

「そこで、しっかり見ててくれよ、レイ」

 聞きながら、私がゲームする姿を見るのはレイも初めてだな、と思う。

 手土産のお菓子を渡し、冷たい飲み物を受け取り、ひと心地ついてからゲーム機のスイッチを入れる。ゲーム機とそのソフトは、先輩がこの日のために人から借りてきてくれた。

 コントローラーの操作に慣れない私は、小さな折りたたみテーブルの上の、飲み物の入った缶を倒しそうになり、先輩は笑いながらテーブルを持ち上げ、安全な場所に移動させた。

「コイツがジャンプして乗っかるために、御崎さんの腕や体は動かさなくていいんだよ?」
「わかってますけどっ、でも出来ないからっ」

 途中から私は操作を諦め、先輩の操作とゲームの先が見たくて、先輩にゲームを進めてもらった。このあと、先輩はまたバイトにいく予定で、「久しぶりにやるからなー、時間内に最後まで行けるかな?」と言いながら、いくつかワープというものをし、あっという間に最終ステージにたどりつく。が、あえなくゲームオーバーとなってしまった。

「命に限りがあったからなあ。無限増殖してから行けばよかった」
「無限増殖、怖い響きですね」
「ええ? ゲームの話だよ?」

 いつの間にか、先輩との距離が近い。彼の部屋に入った時点でいつもの、あの彼の匂いを感じていたのだけど、それをさらに強く感じる。
 ……逆に。私はこの部屋の異物で、ヘンな匂いを発してはいないのだろうか。

「ん? どうかした?」

 右隣にいる彼の声が、思ったより近くから耳に入り、私は顔に熱を感じた。そしてあわてて、浮かんだことばをそのまま口にしてしまう。

「いえっ、私、汗臭くないでしょうか」
「え、ぜんぜん、むしろずっといい匂いがしてるし」
「え」
「あっ」

 彼を見上げると、彼とちょうど視線がぶつかった。が、彼はふいっと目をそらす。

「ごめん、気持ち悪いこと言ったよね」
「っ、そんなこと言ったら、私のほうが気持ち悪いかも、ずっと先輩の匂い嗅いでるとか」
「え、ごめん、匂ってる? さらに臭いとか俺、最低だ……」
「違っ、臭くない、いい匂い! シャツをお借りしたときから、ずっと思ってたんです。先輩の匂い好きかも、って、」

 あれ、私はいま、なにを言ってしまった……?
 回らない頭で彼を見ると、彼はそらしていた目を、まっすぐに私に向けている。

「……俺の匂いが、好き?」
「っ、ごめんなさい、言い方が私、おかしくて、」
「なら、俺、は?」

 どうしてだろう。
 彼の視線から、逃げられない。
 彼の目は……いつもの、やわらかい眼差しではなくて。

 ……ああ、そうか。

 彼のその目は。
 私を呼んでいる目、だ。

 こだまやレイとは、違う。
 その呼び方には、もっと……熱が、ある。

 なら、私は?
 いまどんな目つきで、彼を見ている?

 すると。
 彼の目が……顔が、近づいてきて。
 それで、すぐにわかった。

 私もまた、彼を呼んでしまっていたのだ。
 彼と同じ……熱を持った呼び方、で。
 
 私は目を閉じることで彼に返事をし、彼の唇が私の唇に重なるのを受け入れる。何度か角度を変えてついばまれ、それから抱きしめられ。私はそこで無意識に、彼の匂いを大きく吸い込んでいて、背中からは、彼の大きなため息が聞こえてきた。

「しっかり見ててくれって、言ったのに。レイ、俺にこんなことさせちゃ、ダメじゃないか……」
(真緒子が嫌がってないのだ。真緒子、止めたほうがよかったのか?)

 レイの声を聞いて、私の全身が一瞬で硬直し、安達先輩はあわてて身を離した。「ごめっ、いや、なんて言ったらいいのか、」と言う先輩のことばをぼんやり聞きながら、すぐそばの畳の上でとぐろを巻いているレイ、そして、先輩から離れて部屋の隅でポワポワと浮かんでいる、こだまたちの存在を再確認する。

 こだまたちはともかく、レイは。
 見られていたんだ、という羞恥心が、じわじわと浸食してくる。先輩のことですでに頭のネジが飛んでいた私は、レイのことばを先輩に通訳しなくては、という目の前の使命に飛びつき、でもやっぱり混乱していた。

「レイが、『真緒子、止めたほうがよかったのか?』と言ってて……。レイが、いたんだよね。全部そこで、見てたんだ」
(見てたのだ)
「『見てたのだ』、って。こういうときは、目をつむってほしい……かなあ」
(まぶたがないので、無理なのだ。でも次回からは、姿を消して見ないようにするのだ)
「確かに、ヘビにまぶたはなかったよね。はい、じゃあ次回からは姿を消す、是非それでお願いします……」

 話してる途中から脱力していた私の右手が、ふいに持ち上げられる。
 安達先輩が両手で私の右手を握り、じいっ、と私を見つめていた。

「次回からは、って。あのさ……レイは本当に、俺を止めなくてよかったの?」
「止めなくて? 『真緒子が嫌がってないのだ』って、レイが言ってた通りで……あっ、」
「……本当? じゃあ俺、謝らなくてもいい?」
「っ、いい、ですっ……」

 そのあと先輩のバイトの時間が迫っていたことに気付き、ふたりであわてて片付けをして部屋を出、駅まで送ってもらい。どうやって電車に乗ったのか覚えていないうちに家には着いて、食事も風呂も滞りなくこなし、寝室でひとり布団に転がってから、私は我に返った。

 キス、してしまった。
 安達先輩、と。

 ごろり、と寝返りを打ち、また考えている。

 初めての、キス。
 安達先輩の、唇……。

 ごろり。

 先輩の、匂い。胸板。熱。

 ごろり。

 先輩が込めてきた、腕の力加減。筋肉。骨格。

 ごろり。

 キス。唇。距離。
 何回も繰り返し、ついばむように……。

 ごろり。

(真緒子、眠れないのか?)

 ポンッ、と音がして、レイが声を掛けてきた。さすがに心配させてしまったか。

「だ、大丈夫。うん、ちょっと眠れないだけ、放っておいていいから。あ、でも明日、起きなかったら起こしてほしい」
(わかったのだ)

 それから私は、自分の脳が勝手に無限増殖させる回想に、寝返りを打ったり頭を抱えたり、足をバタバタさせたりして、でもそれに疲れていつの間にか眠っていた。レイに起こされる前にちゃんと目が覚め、仕度をし、また大学へ向かう。この日も安達先輩と、待ち合わせの約束をしていた私は、時間通り学食へ行き、座って先輩を待った。

 先輩は少し遅れて到着し、遅刻したことを謝った。遅刻より、先輩を見て真っ先に気になったことが、口をいて出る。

「髪、切ったんですね」
「うん。思ったより時間がかかってしまって……それで、さ」

 先輩は走って来たらしく、少し息を切らしていた。私の向かいに座り、大きく深呼吸をすると、まっすぐに私を見た。

「昨日言えなかった、だから、ちゃんと言わなくちゃ、と思って。でもここじゃ……」

 一緒に立ち上がって、先輩に付いて学食を出ると、先輩は私を、研究棟の裏手の舗装路に連れて来た。風はなく、蝉の鳴き声は止まず、日差しが容赦なく私たちを照りつける。

 向かい合って立った彼は、また深呼吸をしてから、言った。

「俺、ずっと御崎さんのことが好きだった。だから、俺と付き合ってくれると、うれしい」

 私のほうは息が上手く出来ず、浅い呼吸でどうにか「私、も……うれしい、です」と返すと、彼がさらに、本当にうれしそうな笑顔を返してきて、私はまた息が出来なくなる。

「……ずっと、って。いつから、ですか……?」

 胸が苦しくて、声が思ったより小さくなってしまう。彼は「ふふっ」と息をこぼすように笑い、私の右手を取り、つなぐ。彼の左手の形、その骨格が直に自分に触れる感覚に、心臓がはねた。

「いつからだったのか、俺も最近わかったんだけど。御崎さんが空から……じゃなくて、あそこから降りて来た日、あの日からずっと、だよ」

 彼は右手で上、と指をさし、ふたりで5階の窓を見上げる。つないでいる私の手は、少し汗ばんでいて、それでも彼はお構いなく、手に力を込めてくる。だから私も、彼に返事をするように、ぎゅっと、力を込めて握り返した。



<3>佐倉への追伸と新歓コンパ、本当の彼シャツのこと

(6801字)

『レイの目覚ましはなかなか強力です。レイがいきなり夢の中に現れ、(真緒子、時計が鳴ってから、30分経ったのだ)と言い、風船が割れたときみたいに、いきなり現実に落とされます。レイが言うには、夢の内側から夢を一気に壊すのだそうです。』

『そういえば、レイにこの手紙を運んでもらう件ですが、運ぶ物の重さや大きさ、量にもよるけれど、出来なくはない、とレイに言われました。物が空間を移動するのに不自然でないくらいの時間がかかるそうで、(自分が真緒子から離れ遠くへ行くのは、好ましくないのだ)、とのこと。時間短縮できる別の方法も実はあって、(闇渡りなら一瞬なのだ。でも真緒子が消耗するから、あまり好ましくないのだ)と言われてしまいました。
 とはいっても、一回くらいは試してみたいです。たくさん食べた夜、寝る前に実行すれば大丈夫なんじゃないかな。事前に連絡して日にちと時間を決めておいて、佐倉にも手紙を準備しておいてもらったらどうだろう。

 また手紙書きます。

 御崎真緒子より 』

 佐倉にどうやって知らせようか考えた私は結局、その手紙の最後、便箋のいちばん下に、『追伸、です。安達先輩と、付き合うことになりました。』とだけ書いた。

 佐倉からの返事は、いつもより遅かった。手紙が届いたのは、私が手紙を出してから二か月後くらい、だったと思う。

『レイの目覚まし、体験してみたい。夢でいいから、またレイの姿を見てみたいな。……って、あのときも夢の中だったけど。』

『手紙を運んでもらう件、御崎の負担にならないように、世界でいちばん短い手紙にする、という手もあるね。メモ用紙に「!」だけ書いて、いつもどこかに置いておこうか?』

 ……そして。

『安達先輩、ね。そんな気はしてたんだ。やっぱりね、という感じ。でも、よかったね。御崎も先輩のこと、書いてはいなかったけど、好きだったでしょう?
 そういえば私も、バイト先の人と付き合うことになりそうだよ。』

 佐倉も。そうなんだ、でもなんか素っ気ない書き方だな、って人のこと言えないか。しかし、手紙から伝わってしまうような、そんな書き方を、私はしていたのか……。

 大学でもよく、恋バナをする光景を見かけたりするけれど、もし佐倉がここにいたら、私たちはどんなふうに話していただろう。もしかしたら、手紙のように、事後報告だけしか出来なかったかもしれない。

 そのあとの手紙にも私は、安達先輩とどうこうした、とかいったことを詳細に書くことはなく、それは佐倉も同じだった。
 手紙をやり取りする間隔が空くようになったのは佐倉が、『予定が合わないことが多くて、彼とは別れました。』と、書いてきたあたりからだったと思う。

 私はその変化に対して当時、特になにも思わず、それよりも……彼のことばかりを考えて、しまっていた。

 しょうがなかった……私は、すっかりバカになっていて、夢中で、毎日が楽しかった。好きな人に好きだと言われる、たったそれだけで、世界が変わってしまったかのようで。
 少女マンガの登場人物じゃあるまいし、と頭の片隅で思い、でも自分を止められなかった。


 夏休みが終わっても、私と安達先輩は付き合っていることを、誰かに教えることはなかった。それはなんとなく、だったのだけれど、たぶん私と内田先輩との一件があったせいもある。
 大学でふたりきりになることはほとんどなく、いつも誰かしらがいて、それは夏休み前と変わらない光景だった。

 ふたりきりになれるのは、お互いの予定の狭間、アパートの先輩の部屋に私が訪ねるときだけ。それほど長い時間は取れなかった。

「最近、真緒の周りに、男子がたくさんいる気がする」
「それは……みんな、私のノートに用事があるんです」

 そう、私はただ授業に出てノート取ってるだけなのに、神様仏様御崎様、とあがめられるようになっていた。コピー代がバカにならない、と嘆く人間もいて、じゃあ真面目に授業に出ればいいのに、と思う(スマホで黒板を直接パシャッとすればいい時代ではなかった……なんだかスマホというものの存在が怖くなってきた)。

「それより、それ、先輩に言われたくないです。先輩こそ、最近周りに女子、多いじゃないですか」

 髪を切って、スーツ姿が新鮮だから、って。元々人たらしなのに、ここへ来てさらにモテるとか、それはないんじゃないだろうか。

「え、そう?」
「そうですよ」

 チュッ、と突然口を吸われ、そのあとまれた。「っ、んなっ」とヘンな声を出した私を見て、彼が笑い声を上げる。

「ハハッ、かわいい」
「っ、かわっ、」

 彼はふたりきりになると、手をつなぎ、頭を撫で、頬に触れ、キスをし、抱きかかえ……こんなにスキンシップしたがる人だとは、思わなかった。
 そして困ったことに、私もそれが嫌ではなく、むしろ溺れそうだということ。

 ……違う。もう、溺れてしまっている。


 佐倉。佐倉は……佐倉も、付き合ってる人と、こんなふうに、なってしまった? 相手の一挙手一投足とそれに伴う自分の感情の振り幅に、一喜一憂するばかりで、いろんなことにバカになってしまっている自分を持て余して、ジタバタして……。それとも、私よりもっと上手で、かっこいい恋愛だった?

 聞いてほしくて、訊いてみたくて、でも結局最後まで、手紙にそれを書くことはなかった。

+++

 学食での付き合いから、請われて学祭の準備などを手伝ううちに、私は内田先輩のサークルの準メンバーのようなものにされてしまっていた。

 サークルの飲み会なんかにも度々誘われるようになっていたけれど、まだハタチ前なので家の人間に止められている、とすべて断っていたのは、安達先輩に懇願されてもいたからだった。

「楽しい、というか……地獄絵図、というか。俺がいないときに、あんなトコに行かないでほしい」

 そんなこと言われたら、一回くらい、見てみたくなるじゃないか。4月の二十歳の誕生日を過ぎてから、サークルの新歓コンパ(新入生歓迎のための飲み会、建て前は)に誘われた私は、「新入生もいるから、たぶんいつもより静かな会になるよ。もし帰れなくなっても、新歓のあと私たち、私んちでオールナイトする予定だから、一緒に泊めてあげるし」というサークルメンバーである伊藤さん(あの4人のやっかみ女子のひとり)にも背中を押され、安達先輩に内緒で参加を決めた。

 そもそも『静かな会』になるはずなのに、『もし帰れなくなったら』とは? 御崎の家、海藤さんには「友達の家に泊まります」と告げ、念のため替えの下着やストッキング、化粧品などを入れた少し大きめのバッグを抱え一度大学へ行き、そこで待ち合わせた伊藤さんたちに連れられてコンパの会場へ向かう。

「いや、いつもよりは静かだと思うよ?」

 そうか、『いつもより』が抜けていたのか。コンパ開始から1時間くらい経ったところで、伊藤さんにそう言われた私は、安達先輩の言っていたことを思い出し、先輩が止める理由がよくわかった。

 そのとき伊藤さんたちに聞いた話では、飲み会の傾向もサークルによっていろいろあるらしく、この普段真面目な出版系サークルの場合は、飲みが進むと、男子が脱ぎはじめる。「飲むか、飲めないなら脱げ」という二択を迫られ、迫られなくても酔いが回って自ら脱ぎ出す者もいて、目のやり場に困る。「今日はまだ、みんな下履いてるもんね」と、サークルの女性陣は涼しい顔をして言う。

「御崎さん、ハタチになったんだって? じゃあお祝いだね!」

 いろんな人からそう言われ、グラスに、ビールやそれ以外の酒を注がれる。二十歳の誕生日に、家で日本酒を飲ませてもらって以来のお酒。私はお酒が好きかもしれない。

 これはあとからわかったことだけれど、どうもヘビ様を従者に持った人間は、酒が強いらしい。高緒叔母も『うわばみのように強い』のだと、海藤さんから聞いた。

 はじめのうち、一応『お嬢様』という評判だった私に気を遣っていたみなさんも、私の様子を見て、だんだんと容赦がなくなってきた。「ビール瓶を持つ腕が重くてダルい。軽くするのに協力して」だの、「せっかくだから、そのぬるいお酒は空けちゃって? 冷たくておいしいのを入れてあげる」だの、いろんな口上で飲まされる。
 6、7杯目かを飲み干して、それに「おおー」と歓声が上がり、「御崎さんすげー」「こんなに酒強いなんて聞いてない」など言われたところで、貸し切っていた座敷に、安達先輩が飛び込んできた。

「真緒っ」

 裸族となったサークルメンバーをかき分け、安達先輩が怖い顔をして私に近寄って来、私の腕を取る。

「どんだけ飲まされた? そこ、お前ら、そんなカッコで真緒に近寄んな」
「安達先輩、人聞きの悪いことを~。御崎さん、めっちゃ酒強いっスよ~」
「そんなことより先輩、駆けつけ一杯、どうぞ!」

 安達先輩はグラスを持たされビールを注がれ、それを一気に飲み干した。おお~、と拍手が上がる。

「これでいいだろ。ほら、真緒、帰るよ」
「先輩、さっきから。御崎さんのこと、真緒、って呼んでるよね?」

 そう、いつもみんなの前では『御崎さん』で、『真緒』と呼ぶのは、ふたりきりになったときだけだった。

「え、まさかふたりって、付き合ってる、とか?」
「っ、だからなんだよ」

 なんでか、裸族から「ええええっ」という野太い雄たけびが上がり、女子たちもきゃあきゃあ言いはじめ、「ちょっと、聞いてないよ御崎さん」と私を小突き出す。

 結局先輩は、私を連れ帰るためにいくつもグラスを空けるはめになり(「この酒を倒してから行け」「脱げ、さもなくば飲め」)、それでもどうにか店を出られたときには、顔が真っ赤になって、足元がふらついていた。

 自販機で缶ジュースを買うときにやっと手を離され、自販機につかまりながらジュースを勢いよく飲んだ先輩は、ようやく私に口をきいてくれた。

「真緒は、大丈夫なの?」
「少しふわっとしてますけど、大丈夫です。先輩こそ、それに先輩、バイトだったんじゃないですか?」
「バイト行ったら、あのサークルに入ってるバイト仲間から、今日の新歓行きたかった、めずらしく御崎さんが出席だってのに、って聞いて。こっちは暇だったんで、無理矢理早退してきた」

 先輩のこの日のバイト先は居酒屋で、他に弁当屋とコンビニのバイトを掛け持ちしている。
 内緒にしていたこと、迷惑をかけてしまったことに、胸が痛くなった。

「ごめん、なさい。怒って、ますか?」
「怒ってるよ」

 どうしたらいいのかわからずうなだれると、彼がそっと私の髪を撫でた。

「駅まで送るよ。ああ、ここの駅じゃ真緒、わかんないか。一緒に電車乗るから」
「あ、でも。家には友達の家に泊まるって言ってあって……ナシになった、って言えばいいか」

 ピタリ、と髪を撫でていた手の動きが止まる。

「真緒。それなら……俺のうちに、来る?」

+++

 彼は早く酒を抜きたいから、と先にシャワーを浴びた。そのあと私も、あのユニットバスを借りて、コンパで染みついたタバコの匂いを洗い流す(当時、分煙なんてものは存在しなかった)。

「レイ。いるよね?」

 ユニットバスの中で私は、レイに声を掛けた。ポンッ、と音がして、レイが私の手のひらの上に乗る。

「あのさ、その」
「わかってるのだ。邪魔しない、姿を消して目をつむるのだ」
「ありがとう、レイ」

 レイは頭をスリスリと私の手にこすりつけ、それから姿を消した。

 部屋から出てあたりを確認すると、彼を慕うこだまたちも、そこにいなかった。レイが気を利かせて、こだまたちを連れて行ってくれたのかもしれない。

 神様の御遣いに、こんなことに気を遣わせてる私って、一体なに? と、おかしさがこみ上げてくる。それに『目をつむるのだ』、って……レイの冗談なんて、初めて聞いた。

 今度こそ本当の、文字通りの彼シャツ姿となってしまった私は、まだほんのりと酔っていたし、頭が沸騰していて、そんなことでも考えていないと、どうにかなってしまいそうだった。

 そして。

「……真緒も。俺のこと、名前で呼んで」

 いろんなことを、彼に言われるがままに従い、されるがままにされて。
 請われた私は素直に、彼の名を口にしてみた。

「……げん

 呼び捨てにしていいのか一瞬迷い、でも呼んでみたらそれが、すとん、と腑に落ちた。
 彼はうれしそうに、さらにねだってくる。

「真緒……真緒、もっと、呼んで」
「っ、玄……げんっ、……っ」

 ……いつだったか。
 彼が、話してくれたことがある。

『人たらし、かどうかはわからないけれど。
 俺がこうなのは、俺の育った環境のせいかもしれない。大所帯で、兄ちゃんや姉ちゃん、年下のいとこたちとまとめて育てられて、大人もいっぱいいて、人の出入りは、普通の家より多かったと思う。
 楽しかった、けれど。誰も、俺を見ていないような気がして……自分がどこもいないような、そんな感覚にたまに襲われるときがあって』

『高校のとき、告白されて付き合ったんだけど、でもすぐにフラれて。俺はよくわからなかった。自分がなにを欲しがっているのか……だからフラれても、なんとも思えなくて。
 でもいまは。全然、違う……真緒には俺を、ちゃんと見て欲しい。俺を選んで、真緒』

 そう言った彼に、そのときされたキスよりも。
 この日のキスは深くて甘く……そして、彼が触れる場所すべてがひどく甘くて、甘すぎて頭がおかしくなる。

 ふと。
 レイの名を初めて呼んだときに言われたことを、思い出した。

『(わかった。自分の名は、レイヴン。これは真緒子の、最初の許し。この名により自分は、真緒子の元にいることを許されたのだ。良い名をありがとうなのだ)』

 お互いの、元に。
 お互いがいることを、許す。

 それを強く訴えるかのように。
 彼は私の名を、私は彼の名を、連呼する。

 ……私も。
 たぶん、さみしかった、のだ。
 御崎の家で、自分がどうしてここにいるのかわからなくて、自分を見失っていて。
 将来の夢とか、やりたいことなんて、ひとつも思い浮かばない、自分。

 だけどそんな私を、ほかの誰でもない玄が、見つけてくれて。

 だから、私も。
 あなたをちゃんと、見つけているのだ、と。

 それが彼に、伝わるように。
 何度でも、何度でも、彼の望む限り。

 ……だから。

 声の届く場所に、いて。
 私から、離れないで。

 そう主張するかのように、私はずっと、彼にしがみついていた。

+++

 玄は先に大学を卒業し、就職した。教職免許は取得したものの、彼は一般企業を選んだ。

「ちょっと考えていることがあって。それまで社会勉強しておこうかな、ってね」

 真面目に大学に通い単位を順調に取っていた私は、平日の空いてしまった時間にも叔母の仕事を手伝っていた。いや、もう手伝う、という段階ではなく、会社の一員として働いているような状況だった。お小遣いとは別に、バイト代、という名目のお金を受け取ることになった私は、家の図書室、『御崎文庫』を充実させるためにそれを使った。

 いつかまた佐倉がうちに来たときのために、と思っていたのもある。目的のためにマンガを断った佐倉に、手紙でそれを知らせることはなかったけれど。

 でもそれよりも。玄に会えないさみしさを紛らわすいい手段、そちらのほうが大きかった。

 平日にたくさん仕事を頑張っておいて、玄が休みの日曜日、なるべく予定が入らないようにしてもらって。それでも、会えないときは本当に会えなくて。
 私が大学を卒業して、本格的に叔母の会社で働くことになったら、どうなるのか。もっと会えなくなってしまったりは、しないのだろうか……。

 私の大学の卒業式を終えた、3月のある日。
 玄の、ずっとそのまま住んでいたアパートのあの部屋で、玄が正座をして。
 彼がひどく真剣な表情で私を見つめ、「レイにお願いがあるんだ」と言った。

「レイに?」
「うん。前に、話してくれたことがあっただろう? 真緒が持っているような視る力を、レイは呼び起こすことが出来る、って」
「それは、でも。……っ、まさか、」
「俺は、その力が、欲しい。真緒と同じものが視たい、だから、」

 玄は、宙に浮いている、彼にはその姿がはっきりとは見えないはずの……人の世の理から外れた黒いヘビに向かって、言った。

「レイ……レイヴン、お願いだ。俺の視る力を、呼び起こしてくれ。そして、真緒。真緒はそれを、許してほしい」


 人の人生を狂わせてしまうような、選択肢が、そこにあって。
 その選択に至るまでの分岐点だって、たくさんあった。

 私があの日、5階から飛び降りたりなんか、しなければ。

 彼の、私を呼ぶその目に、答えたりしなければ。

 ……でももう、彼を選ばない、という選択肢は。
 そのときの私にはもう絶対にあり得ないことで、それは彼もまた同じだったのだ。



【第3章・その目が私を呼んでいる】・了

【第4章・私をその名で呼ばないで】へつづく


【2023.06.16.】up.
【2023.06.24.】加筆修正
【2023.07.05.】一部削除、修正
【2023.07.08.】加筆修正
【2023.07.14.】加筆修正


++闇呼ぶ声のするほうへ・各話リンク++

【プロローグ・祝福と名付け、そして母のこと】
【第1章・私は黒いヘビの名を呼ぶ】
【第2章・貴方が私の名を呼んだ日】
【第3章・その目が私を呼んでいる】
【第4章・私をその名で呼ばないで】
【第5章・闇呼ぶ声のするほうへ】/【エピローグ・そして私は彼女の名を呼ぶ】


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